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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

上野右近廣吉

2008-11-05 19:28:47 | 歴史・民俗
 午前中は正に秋晴れといった天気、東や北の空は陽が高くなるにつれ、遠野ブルーと呼ばれる鮮やかな青空が広がっておりました。

土淵町・・・11/5午前



○ 上野右近広吉・・・遠野阿曽沼一族

 上野右近を名乗る前は上野丹波と称していたが、遠野の歴史を語る上では、あまり良い伝承をされない人物のひとりでもある。
 
 慶長5年、最上へ出陣中の遠野孫三郎(阿曽沼広長)留守の横田城を鱒沢左馬助広勝、平清水駿河景頼と共に制圧、所謂謀反との位置付けで、瞬く間に遠野郷も支配下に置いた主要人物の一人とされる。



伝・上野館跡(和野館)



 猿ヶ石川沿いの丘陵地に館が築かれていたと考察されている。








鱒沢方面を望む



 上野丹波広吉は一説によると宇夫方一族が主館とする新里の西風館が正体不明の賊徒による夜襲を受けて陥落、これにより宇夫方一族が衰退すると、かつての宇夫方氏の中心的な館であった二日町の谷地館を得て、この方面の領主となったと伝えられる。

 しかし、川向いの和野地区には、上野館と呼ばれる場所、館跡が存在していることから、以前から上野氏縁の場所だったものなのか、また谷地館は得たが和野の上野館を主館としていたかは不明であるも、綾織地域に勢力を持っていたことは確かなことなのかもしれません。


昭牛山光明寺(曹洞宗)  遠野市綾織町


 永禄年間、綾織大久保の地に草庵が創草されたといわれ、永禄12年、綾織谷地舘主、上野広吉によって寺領を寄進され一寺を建立、天正12年に現在の地に移る・・・といわれる。



 上野広吉は遠野阿曽沼系図によると阿曽沼広郷(遠野孫次郎)の次男と書かれ、広長の弟と伝えられていた。
 現在も郷土史に関わる古老の中には、広長、広吉を兄弟とする説を主張する方も居られますが、史実かどうかは不明ながらも事件等で伝承される内容を信じて紐解けば、広長よりも年長という雰囲気が十分伝わるものである。

 永禄年間には綾織光明寺の開基に関わっていること、阿曽沼広長が遠野を追いやられた慶長5年(1600)、広長の子がまだ幼いことを考えれば、広長は30歳前後か?しかし、翌慶長6年の広長による遠野奪還の戦い、赤羽根峠の戦いでは広吉の娘婿である十二鏑弾正なる武将が遠野方として参戦していること、長女は人首九右衛門の妻、二女は鱒沢広恒の妻、三女が十二鏑氏の妻・・・と伝承されていることからを考えれば、広長よりはかなりの年長となると思われ慶長5年頃は50歳代前後となるものと推測される。

 このことは遠野市史1にても考察されており、ここは広長の弟ではなく、叔父説、広長の父とされる阿曽沼広郷の弟とするのが妥当であると考えます。



 月山神社跡   綾織町和野




 実は前出の上野館跡とした画像、大体の場所は当っているものと思われますが、その詳細が分からず・・・しかし、市道上の集落墓地付近の山野を少し探訪すると月山神社跡に遭遇・・・石碑に彫られた文字に・・・・。




 上野丹波、すなわち上野広吉に関わりある地であることは確かなようです。



 遠野騒動の主たる人物、鱒沢広勝は慶長6年、気仙に亡命の阿曽沼広長に対して機先を制すべく気仙郡内へ出陣するも平田合戦にて討死、跡を受けた鱒沢広恒(忠右衛門・浅沼忠次郎)は、南部利直より3千石を給され、南部家中での大身となるも間もなく断絶、平清水駿河も1千石となるも北十左衛門に関わる事件に連座といわれ、やはり家は断絶。

 残る上野広吉は1千石を給され、遠野横田城代となったと語られる。
 上野広吉は阿曽沼家に連なる一族であり、横田城(鍋倉城)に入り、正に遠野の盟主となったことを実感したものと推察されます。

 上野右近が遠野城代時代は、大きな混乱もなく、失政もなかったといわれ、南部利直よりさらに1千石が加増ともいわれ、計2千石の大身でもあったようです。


慶長17年10月14日付
 利直公御墨印 
 遠野郡綾織、横田、嶋廻、細越、佐比内、稗貫郡高松村、和賀郡晴山村、小山田村にて都合2千石
                        宛所 上野右近とのへ


 ちなみに平清水駿河にも同年同日に墨印が与えられている。


 まさに絶頂の時代であったと想像もされますが、伝えられることによりますと、子は娘ばかり4人といわれ、長女に人首九右衛門(上野九右衛門広高)を婿養子に迎えるも、男子を産むも産後の肥立ちが悪く死去、二女は鱒沢広恒の妻であったが若くして死去、三女は和賀郡の土豪、十二鏑弾正の妻であったが、弾正は赤羽根合戦で討死、この時身重の三女も出産の際に母子共に死去、四女は才女といわれたが醜女であったといわれ、年頃となるとその不幸を恨んで自殺したといわれる。

 伝・四女の辞世句

 面影を 映す鏡に恥初めて
      人目を忍ぶ身こそ幸けれ


 
 元和7年上野右近広吉が死去、上野氏は2千石を取り上げられ、一時断絶となるも、八戸から遠野へ移封され遠野領主となった八戸氏、先の当主清心尼公の計らいで百姓の子として育てられていた上野九右衛門の子、与三郎を召し出して5百石にて八戸家臣として再興させたといわれる。
 しかし、阿曽沼氏の血族が再興ということで阿曽沼遺臣達の喜びは大きく、後にこれが災いの元となることを危惧して、与三郎を2百石で盛岡南部家臣としたといわれる。



 遠野市史等に記されている内容であるが、これらを編纂された史家の先生方は、伝承という形ではかなり深く取材やら調査をしていたものと思いますが、南部藩における近世文書や盛岡南部家に関する史料等を吟味した形跡がなんとなく見当たらない。

 上野九右衛門は資料でも記述されているとおり、慶長19年大坂冬の陣において遠野勢152人の内、総指揮者という位置付で53人を率いた上野九右衛門が記されている。
 これは皆さんもご存じの内容でもあり遠野市史にも記されている。
 

 南部藩諸家参考系図では・・・
 上野与三郎広易は、元和7年家督相続、太守利直より岩手郡田頭、野田村の計5百石を給されたとある・・・寛文3年上洛、京で死去。
 
 広易の子、寿易(久三郎)後に蒔内新左衛門・・・寛永3年家督、重直公寛永年中命により蒔内新左衛門直易の養子となる。
 
 後に橋野家となる家系、蒔内家の家系が上野氏の血脈を伝えている。(途中断絶有)


清心尼や八戸直義による再興ではない雰囲気、元和7年、寛永3年はまだ八戸氏は遠野へ転封はしていないのである。


 遠野騒動での主たる人物達は哀れな末路と語られるも、それでも直に没落したものではなく、遠野騒動以来20年前後は盟主と名を留めている(平清水氏・上野氏)
 上野氏に至っては断絶とか厳しい内容ではなく、盛岡南部家臣として子孫は健在であったようでもあります。

 史家の先生方の伝承採取とその考察も案外資料に近いこともあって実は驚いております。




 本日の画像追加編

宮代から





駒木・・・福泉寺方向

 

八戸一族新田氏 弐

2008-10-28 17:40:48 | 歴史・民俗
 本エントリーで弐ということは、壱があってのこととなりますが、まずは過去のエントリーをまずはご覧ください。

こちら


 遠野南部家時代、新田家は世襲家老加判の家であり、祖は遠野南部家第5代、南部政長公の二男政持公と所伝では伝えられ、遠野南部家(八戸)の分家という位置付けで長らく伝えられております。

 遠野にあっては、鍋倉城二の丸に屋敷を持ち、代々新田小十郎を名乗っておりました。


鍋倉城址


二の丸跡



本丸跡


城下・・・市街地





 以前の過去エントリーでも何度か記しておりますが、遠野南部歴代の殿様は、盛岡城下の内丸(岩手県庁がある辺り、県公会堂)に3万坪という広大な敷地を有する遠野屋敷に住まいしており、鍋倉城は新田氏が城代家老として二の丸に、三の丸には福田氏、中館氏、他に沢里氏の屋敷があり、実質的に重臣達によって治められていた。

 城から城下を眺めていたのは新田氏をはじめとした重臣達であった・・・。



 新田氏菩提寺・・・対泉院








新田氏一族の墓所









 主家である遠野南部氏(八戸氏)の歴史について、通説や所伝の内容が近年史料等の研究成果がある程度加速し、かなり違う見解が示されておりますが、新田氏に関しても同様といえます。

 祖である新田政持公に関しては、南部政長公の二男とする所伝ではありますが、建武3年、浅利清連(秋田県比内地方に勢力があった武家)の軍忠状にその名が知られておりますが、「比内郡凶徒新田政持・・・」と比内郡内で武家方に反抗する勢力の親玉みたいな印象であり、以前から比内郡内にある程度の勢力を持っていた武家であること、また既に成人した一廉の武将であったことが推測され、政長の二男というよりも同世代の人物いう印象が残るのですが、詳しくは以前に妄想考察をしておりますのでこちらをご参照願います。



 遠野南部氏、遠野阿曽沼氏、遠野菊池一族、さらに遠野とその周辺の城館跡探訪、民俗的な事・・・・少しかじっては次から次へとフラフラしている状態が続き、どれかひとつをまずはじっくりと深く掘り下げるいった手法が出来ていないという反省もありますが、ひとつに関わると関連する場面と遭遇し、そちらも調べなければならないということで、歴史とは奥が深くとてつもなく広い世界だとさらに実感
しているところです・・・汗



 福田氏の墓所


 新田氏同様家老職であった福田氏に関してもその出目に関しては謎が多いのですが、こちらは機会がありましたらいずれ取り組みたいと考えております。



 銀杏・・・10/28




 一応・・・お知らせ

 山猫氏来遠近し、1日に迎撃ぶれんどの宴はいかがでしょうか?ご意見や参加の有無等をチラっとお知らせ願えば動きやすいです。
 よろしくお願いします。

江刺区下見編

2008-10-20 18:54:27 | 歴史・民俗
 妄想的郷土史探訪におけるひとつの懸案事項として、遠野菊池氏との関わりが深いと推察されます奥州市江刺区の菊池一族、さらに中世遠野領主であった阿曽沼氏の歴代の中でも英傑とされる遠野孫次郎こと阿曽沼広郷による葛西領江刺岩谷堂攻めに関すること、さらに江刺区内の館跡に関すること等・・・一粒で二度美味しい、いやっ、三度美味しい・・・そしてさらにグリコのおまけが付いてくるかも・・・的な期待度が高い探訪をこの晩秋か初冬にやってみたいと俄かに思い立ち、その前段として下見ながらも江刺へ行って来ました。

 本編を読む前に過去エントリーのこちらをご覧になられてからお読み願います。


 ということで、なんてことはない過去エントリーですが・・・・汗


 五輪峠





 近年は遠野と江刺、江戸時代は南部と伊達、さらに中世の頃は遠野と葛西領(江刺郡)との境であった五輪峠、中世の頃は軍事、交通の要所であり、明治以前は単なる境ということではなく国境といっても過言でない時代があったと思います。






 青篠館跡(あおざさだて)・・・江刺区玉里






 館主を菊池右馬亟と語られ江刺の菊池一族の惣領さらに角懸菊池氏の主家との位置付けで葛西領江刺氏の執権職(家老)の家柄だったと伝えられる。
 
 遠野菊池氏との関わりが語られる菊池右近恒邦は青篠館の歴代舘主のひとりであるという・・・・。

 
 数年前、八戸の藤九郎さんと江刺区内の館跡探訪を実施したことがありましたが、此処青篠館の説明板を見ながらも、館山は何処か?と悩み最後は見学できなかったことがあって、再訪の際は是非に探訪したいが念願でもありますので、なんとか探訪をと思っております。



 岩谷堂城






 岩谷堂城は平安期、藤原経清、清衡の居館跡でもあるという。
 後に葛西氏の族、江刺氏の居城として機能していたと伝えられ江戸期は伊達藩の要害として岩城氏が城主であった。

 私的には比高70メートルの山城が平安期に築館されたものかは、大きな疑問がありますが、中世における江刺氏の事績をPRするよりも平泉藤原氏との関連付けをPRした方が何かと注目やら訪れる方々の興味を抱かせる内容でもあって、なんとも言い難い思いもございます。
 岩谷堂城はかつての江刺郡最大の城であり主城でもあり、葛西氏や江刺氏関連も今少し取り入れて紹介してもよさそうに感じますが・・・・・。


 空堀跡



 夢なんとか橋・・・?



 岩谷堂市街地方面


 
 玉里・・・遠野方面



 そして一粒で二度目?三度目美味しいと考えていたこと・・・・遠野陣場跡・・・。

 遠野孫次郎が天正年間に岩谷堂城の江刺兵庫介重恒を攻めた際に遠野軍が本陣を置いた場所・・・・。






 僅かな情報を頼りに目星を付けて行ったつもりでしたが、案内板やら標柱を見つけるに至らず・・・そういった類のモノはないのかもしれない。
 いずれにしましても江刺工業団地近在の山野である可能性が大きい・・・近隣の方々数人に聞いてみましたが・・・「知らない、聞いたことがない」との返事・・・涙・・・郷土史に詳しい方やら行政でも史跡等の担当部署でなければわからない内容かと痛感いたしました。

 とにかくこの遠野陣場跡を探すのに2時間程岩谷堂城から工業団地、旧広瀬街道やら周辺をグルグル回っただけに終わりました・・・涙
 これも次回となりそうですが、まずは菊池一族縁の館跡重視で行きたいと考えております。

                               以上

 

駒木のお堂、社  序

2008-10-09 21:11:09 | 歴史・民俗
 郷土史分野が素人ながらも一応専門という位置付なのですが、ここにきてある程度、民俗分野にも足を踏み入れそうな雰囲気・・・・。

 といってもまずは身近なところから、地元からはじめようということで、晩秋の頃から再開となる遠野の城館址探訪の合間にでもと考えているところです。


 さて事の発端は、遠野発信ブログ「遠野なんだりかんだり」で取り上げた宮大工、小原樗山の足跡を訪ねるシリーズの参、これに触発されてのことでもありますが、まずはそのエントリーに記された小原樗山の長男、小原喜蔵氏が遠野で手がけた社建築の中に駒木関連も含まれ、これをまずは調べてみようということでもあります。


 まずは・・・・

 駒木の菊池氏の稲荷神社

 地元の宮大工、山善氏と関りが深かった小原喜蔵氏、このことは笛吹童子氏の調査で明らかになっておりますが、菊池氏の稲荷神社・・・・はて?・・・どこだろうが正直なところ・・・・。

 土淵町飯豊のように地区内に数々のお堂や社がある地域に比べれば、駒木地区はあるようで、なかなか思い浮かばない、さらにお稲荷さんもあるようで実はそれほど目立つほど数があるわけでもなく、ましてや菊池宅のお稲荷さん、これも少し難しい・・・。

 若干、疑わしいお稲荷さんはあることはあるのですが、その中で気になるお稲荷さんがあって、まずは其処を訪ねて参りました。





 何故に此処なのか・・・山善氏は海上の人、まずは地元海上の菊池氏の依頼を受けたのではないのか?・・・単純な理由からでもありますが、駒木の中でも菊池姓が多いのが海上集落でもあるということもそのひとつの理由でもあります。




 雰囲気は十分なのですが、お堂に独特の彫刻が施されていない、また扉が開け放たれておりましたが、お稲荷さん2体と大きな棟札一枚、再興という文字が確認でき、近年に建てられたお堂であること、基礎部分もコンクリートということで、該当するお稲荷さんではない雰囲気、しかし再興の文字も気になるところ、別当さんが菊池姓、さらなる聞き込み調査は必要であると思っております。



 次に・・・
 T氏のお不動さん

 こちらも不明といったところがホントのところながら、若干、地域の古老から聞きますと、かつては小田沢に財を成した家であり、お不動さんがあったとするならば小田沢にあった可能性が大きい。
 
 お不動さんは、水に関連する内容もあり、沢沿いにあったものだろうと推測はつきますが、下駒木に家が移った際に、どうしたのか?・・・確定ではないが、その昔、福泉寺にお不動さんを預けたという話も聞いたことがあり、おそらく後者の方が事実なのかもしれない。


 ということで、本格的な調べはこれから・・・本日はちょっと散歩がてらの意味でもあって、妄想含みの内容、今後の調べて色々と事実が出てくるものだろうと期待してのことでもあります。

 実は、本日は福泉寺の秋の大祭に関わる檀家筆頭家の会合の予定でしたが、事務局長的な人がどうしても来れないという事情で急きょ会合は中止、この席で大方の内情が知りえる期待も大きかったが、またの機会となりそうです。



 愛宕堂


 こちらは小生が別当と一応なっておりますが、結構由来も古いと語られてもおりますが、今以上に何か判明ということにはならないと思っております。

 いずれ、落葉の季節から本格的に降雪となる時期までが勝負、地元からまずは・・・・これで行きたいと思っております。

 
 でも期待はしないでくださいね・・・笑


 ちなみに・・・・

 寺院関係では、駒木は曹洞宗常堅寺の檀家さんが圧倒的に多く、海上の真宗西教寺は矢崎や松崎に檀家が多い。
 真言宗福泉寺は駒木地区内に20軒足らずということになります。

金成淵跡

2008-09-20 19:52:47 | 歴史・民俗
 本日のエントリー関連のとある場所にまずはお参り・・・。

谷地館跡(遠野市綾織町)・・・遠野遺産




○宝徳合戦と金成右京大夫政実・・・金成淵

 谷地館主、宇夫方守儀の時代、宝徳2年(1450)隣国葛西領気仙郡東山の金成政実が率いる軍勢が突如として綾織谷地館を攻撃する。
 谷地館の宇夫方氏は遠野でも富裕の武家であり一族郎党も多く、不意の攻撃をよく凌ぎ、さらに鱒沢氏、宮森氏が谷地館救援の援軍を差し向けたので、葛西勢は攻めあぐねて籠城戦となった。
 
 籠城戦となるや葛西勢は山谷川をせき止めて館を水攻めとするが、達曽部民部、稗貫大迫の大迫掃部が大軍を率いて来援すると谷地館側も力を得て反撃に移り、寄せ手の大将金成右京政実は討ち取られ、葛西勢は散散に敗れて敗走したといわれる。

 この時、政実の嫡子、松千代は13歳の初陣であったという・・・・。
 敗走途中に遠野方に討ち取られてしまったという。土地の人々はその死を憐れみ墓を作って弔ったという・・・。

 後日、その母親が松千代の墓参りに来たというが、悲しみのあまり猿ヶ石川の淵に身を投げたと伝えられる。


 猿ヶ石川・・・綾織町札場橋から上流方向



 さて、金成右京大夫政実の奥方が身を投げたという淵は・・・・ということになりますが、小生の母親や叔父の話によると、アイオン台風で水害が出る前までは、猿ヶ石川は現在の堤防の南側を流れていたそうで、日影橋の南側袂を流れ、山際を通って現在のゴミ処理場辺りも川原であったという・・・。

 母親の母(私からすれば祖母)は新田の出身で、母親が子供の頃に新田に行く際は、山道の下部に猿ヶ石川を見ながら新田に行ったそうです。
 途中、流れが渦巻く淵があって、その場所が地元では金成淵と呼ばれていたそうです。

 この淵の上部山中には戦いで亡くなった武士の鎧を埋めた塚があるとか、一説には寄手の大将、金成政実の鎧ともいわれている。


 綾織町新里日影地区・・・山際を川が流れていた。


 旧河川跡

 
 綾織町新里、西風館・・・右手の道路は旧国道283号
 ビニールハウスの辺りは猿ヶ石川が流れていた。

 その名残




 ということで、ここまで来たので遠野遺産である「西風館跡」はどうなっているのかと気になり訪ねて参りました。



 遠野遺産ということで、若干人が出入りしただろう雰囲気がみられますが、小生のような城館跡マニアや研究者、そして地元の山稼ぎの人達のみ、年間10名未満が訪れるだけではないのかな・・・なんて思ったりして・・・。




 標識のある場所は館跡の東端部分ですが、本来は・・・・


 こちらが正面といいますか、力攻めの場合はこちらから・・・冬枯れの季節、早春の頃は斜面に張り付く幾えもの段差、帯廓が見えると思います。




 さて、本来は本日、こちらへお邪魔しようかな・・・と考えておりました。





 松崎町光興寺宮代・・・元八幡宮例大祭
 こちらのお祭りに行こうと思ったのですが、どうせならイカ焼きを肴に生ビール片手に郷土芸能やら出し物を楽しみたいが本音、しかし、嫁さんは仕事で送迎は叶わず、では歩いていくべ・・・と思うも面倒になって取りやめといたしました・・・汗・・・来年は是非にお邪魔したいと思ってます。


 宮代ついでに・・・
 宮代ご出身でフランスにお住まいの女性からお土産をいただく・・・謝

 なんでも仏国の鯖缶で、マスタード味とか、白ワインと合いますよということで・・・・。




 でっ・・・たまたま白ワインがありました・・・笑



 「う~ん・・・こまんたれぶっ~★■●▽△らセーヌ・・・おっぉぉシャンゼリゼ・・・」・・・なんともいえないはじめての味・・・これは行ける・・・そこで母親にも勧めると・・・・

 「ありゃ、いい色っぺの粕漬けだごと、鯖の粕漬け、こりゃいい・・・」
 「フランスに粕あるわげねぇべ」
 「ほだじぇなぁ・・・奈良漬だなこりゃ・・・」・・・大汗

 大騒ぎな夕食となりました・・・笑

古文献?と遠野の館

2008-05-21 15:54:06 | 歴史・民俗
 遠野郷内の城館跡探訪の際に大きな力となる資料「遠野市における城館屋敷跡調査報告書」昭和59年調査・昭和62年報告・・・の完全版のコピーを入手したことにより、場所の特定が格段としやすくなったこと、要図も掲載、さらに不明な点は不明としながらも、館に関連する人物名も少ないですが網羅されている点で、城館跡探訪ではかなり重宝しております。

 またその報告書の内容での考察も参考になる部分があるのですが、数年前に報告書の一部と館跡一覧表のコピーを先行入手、これを見た際にちょっと気になること、違和感を覚えることがありましたし、昨年資料全てを手にしたことにより、この気になることに拍車がかかっておりました。


 遠野市内140弱の城館屋敷跡を調査されたお二人の先人郷土史家の先生方には頭が下がる思いですし、私のような後年にこれらを調べる人間にとってはありがたい資料であり、あらためまして敬意を表したいと思います。


 さて、此処からが本題となりますが・・・・・

○東日流外三郡誌と遠野の館

 遠野の城館跡に関する報告書での考察に「東日流外三郡誌」から引用、参考とした旨が記されている。
 中世期の遠野を考察するには史料等が皆無に近く、これらの時代の見解を記するということは甚だ難しいことでもありますが、なるほど・・・と納得する場面があったり、しかも安倍時代と考察される館跡に関しては、少ないながらも具体的な人物名が記されており、何故にその関連人物が判明しているのか?実は感心したり疑問もあったりしていたんです。



東日流外三郡誌・・・とくれば歴史に携わる方々、興味がある方々にはお判りだと思いますが、その存在に賛否両論があって、どちらかといえば、というより限りなく黒、はっきりいえば偽物・・・こちらの見解が強い内容となっていると思いますが、東日流外三郡誌の虜になった東北在の郷土史家の方々が多数発生したということがあり、遠野に於いても少なからず城館跡に関る考察に影響があったということは否定できないことでもあると思われます。


 ※検索サイトにて「東日流外三郡誌」を検索すれば、その内容や論争やら顛末が分ると思います。


 東日流外三郡誌を実は読んだことはなかったのですが、このことが少し気になりだした辺りからネットで調べたり、図書館にて実際に刊行された書を手にしたりしておりました。
 但し、実際は城館跡資料に記載の部分が果してあるのか、ないのか、これを確かめることでもありましたが、遠野関連での内容を確認できずにおります。
 本日も図書館にて確認作業として拝読しましたが、やはり見つけられず・・・。

 私が持っているコピーの中に東日流外三郡誌の掲載として・・・「閉伊武鑑抄」に遠野郷内の館主等が掲載されている。
 
 お2人の郷土史家が城館跡の報告書をまとめた昭和59年~62年は、おそらく東日流外三郡誌の是非をめぐって論争等が沸き起こっている頃で、その内容は理解されていたものと思いますが、それでもどこまで情報をもっていたものなのか?いずれ驚愕したただろう雰囲気はなんとなく感じられます。


 此処で東日流外三郡誌が正か偽か・・・を論ずることは避けますが、発見者自らの筆により近年に書かれた内容だとする偽物だとして、かなり遠野をはじめ各地の地勢なり歴史を知っている内容でもあり、この点ではよく調査されたのか、それとも別な資料等を熟読されたことになると思います。
 特に面白いことに、遠野の城館跡調査報告書をみますと、東日流外三郡誌に記述される地名が実際に遠野にあったという点、単に津軽も遠野も同じ北奥羽の内だから同様の地名があってもおかしくない、そういった発想では済ませられない内容も実はあるのではないのか?、なんとも不思議な思いでもあります。


 ということで安倍時代、それ以前といわれる内容を主に見解が示されているものですが、私としては資料は資料として館跡探訪に関しては活用はいたしますが、あくまでも見た目を大切に・・・実際に史跡(館跡)は自身の目で確かめてから・・・・これでいきたいと思います。


 安倍氏関連ということで・・・



堀跡を利用か?







 安倍屋敷跡とくれば隣接の観光地・・・・かっぱ淵

 平日ということもあり観光客はまばらでしたが、それでもチラホラと訪れているようです。



  

正史と野史

2008-05-12 15:06:44 | 歴史・民俗
 2年前の拙ブログの5月のエントリーを読み返してみると、5月1日に福泉寺の桜がようやく咲き出し、4日に大観音堂が満開を迎え、10日過ぎでもまだ桜が残っていたようでもあります。

 今年は、それなりに冬の冷え込みやら積雪もあったのですが、それでも例年より1週間早く桜が咲きだし、今は新緑の季節となっている。

福泉寺庫裏付近


 ひょっとして僅かに桜の花が残る木々があるのか?なんて思い、一番最後の方に満開を迎えた木を覗くも・・・・。


 葉桜ですな・・・笑

 地面には

 まだ散った花弁は確認できる。


 我家では、芝桜が見頃となっておりますが、除草剤の影響か、だいぶその範囲が減っております・・・汗


 珍しいかどうかはわかりませんが、紫色のものが僅かですがあります。


 こちらは白とピンク。




 さて、数年前の上京の際に都内在住で歴史仲間であるI氏から、とある資料のコピーをいただいたことがありました。
 後に小生もその存在を知ることになりましたが、平成4年3月刊行、遠野市博物館より出された「遠野郷史料・第3集・阿曾沼家乗」の口語訳されたものです。

 遠野士族、宇夫方文吾(旧遠野南部家士)によって著された内容ですが、通説である遠野阿曾沼氏に関する大よその概要が記されている。



 この訳文をされた学者の先生による見解が後尾に記されていたが、これがかなりの説得力と共に驚愕した記憶があって、今もなお気になる内容でもある。

 ○阿曾沼と浅沼は同意義にあらず

 奥州閉伊郡遠野横田の城主は、俵藤太秀郷の後胤、奥州阿曾沼郡の領主、阿曾沼四郎広綱「後称民部尉氏を浅沼と云」・・・(阿曾沼興廃記)

 阿曾沼氏出於鎮守府将軍藤原秀郷九世孫足利有綱、有綱有二子・・・・・次広綱四郎後改民部丞・属頼朝・居武蔵国・元暦元年9月・頼朝令範頼討平氏・広綱従有功陸食陸奥国阿曾沼郡因氏焉・・・(阿曾沼家乗)

 広綱の先祖は俵藤太(藤原広郷)で、父は足利有綱、平氏追討の戦功で陸奥国阿曾沼郡へ食封となった・・・。

 阿曾沼氏は下野国内(栃木県佐野市)の出と解釈され、安蘇郡安蘇沼郷という地名があったことから、阿蘇沼の充字として阿曽沼とし、さらに広綱は吾妻鏡にも登場する武士で、浅沼四郎広綱を以ってして阿曽沼四郎広綱と同一人物に世の史家達は判断、現佐野市内に浅沼という地名が存在したこともあり、安蘇沼郡の浅沼が合成されて阿曽沼が創出されたという見解である。
 これは全く古書編纂に関る妄想に他ならないという見解でもある。

 かいつまんで詳細に記することは慎みますが、古文書の訳文からすればなるほどといわざるを得ない説得力があり、またよく調べている雰囲気も感じられる。

 さらに陸奥国阿曽沼郡、此処は何処であったのか?福島県の阿沼郡(会津)にその地名があったと記されていますが、阿曽沼という地名が存在するのかは未確認ですが、福島が発祥ではないのかと?結論付けがなされている。


 確かに遠野における阿曾沼氏に関しては、謎の部分が多く、その事績、歴代もしかりで、不明な点が多いのも確かでもあります。

 昨年から遠野阿曾沼氏に関しての考察を本格的に取り組む予定でしたが、目論見通りにはいかず、まだ2割程度の妄想考察をしたに過ぎません。

 今回取り上げた訳文からの見解も大きく立ちはだかる内容でもあって、かなり難儀しており、正直言えば放置している状態かもしれません・・・汗

 ただ、遠野南部家文書にての建武元年「遠野保の事・・・」ここに阿曽沼氏が出てくること、下野権守代朝綱朝兼という記述されるように下野国との関連性は極めて高いこと、遠野は阿曽沼氏と関わりがあったことは史実・・・等・・・これらも踏まえてもかなりの難題であると判断しております。


 早池峰山


 太古の昔から遠野を見つめてきた早池峰山をはじめ遠野の神々が棲む山河だけが、知っているものかもしれません・・・・。


 盛岡在住で作家の高橋克彦氏と中央で活躍される作家の井沢元彦氏とのトーク番組を偶然に観ましたが、興味深い論説に中央が認めた、国が認めた歴史は「正史」という、その異説やら伝承等を基にするもかなりの確証を含んでいてもその歴史を「野史」という・・・。

 中央なり高い場所から認められなければならないというもどかしさと、さらに共鳴できる話として、地方の郷土史家といわれる人達は何十年もかけて資料や伝承を採取、その地域の歴史発掘に多大な功績が認められる存在であるも、行政などには十分な評価も受けられず、自費出版という形でその研究の集大成を世に送る等、かなり冷遇されている現実があると・・・・・。

 今の世はブログをはじめとするインターネットでの公開もでき、そういった意味では自己研究の成果を配信もできますが、それでも高い位置からみたものが正史或いは史実という世の流れは相変わらずであると思います。

 無論、私はまだまだ力不足、知識不足でありますが、せめて「野史」といわれても高い精度の場面まではいつかは到達したいが本音ではありますが、我妄想もいよいよ冴え渡り・・・に至るものなのか?、さらにさらに精進しなければと思うところです・・・汗

糠森館跡(上郷)

2008-04-16 19:36:27 | 歴史・民俗

 中央奥に頭だけみえるところが館跡

「糠森館」・・・山城

 遠野市上郷町細越地内
 標高480メートル・比高95メートル
 館主・築時代不明


 帯郭

 上部に5段、北寄の中腹下に5段確認。


 空掘


 こじんまりとまとまった館跡という印象ですが、館全体を囲むように一重の空掘が残され、館の背部の峰を2重の堀で断ち切っている。
 館跡の一番高い部分には土塁らしき遺構が確認でき、斜面に張り付く段差もよく原型を留めている。

 堀切と土塁


 2重堀


 2重目空堀


 
 館主不詳、館築年代は不明といった見解ながらも安倍時代とも考察されてますが、背部の堀切こそ2重ながらも斜面に張り付く帯郭等、その造りは遠野型規格をコンパクトにしたといった印象で、その遺構の残存度も良好であります。

 本姓を菊池と伝えられる内城氏、その居舘は上郷細越の内にあったといわれる内城館で、その場所は何処なのか?、そんな思いから此処糠森館跡が怪しいのではないのかという思いで探訪をいたしましたが、館跡そのものは阿曾沼時代といった雰囲気がヒシヒシと感じられ、その遺構の残存度からも感じられます。

 しかし、主郭部とされる館跡の高い位置は、館主等が生活できるようなスペースがなく、全て斜面となっている。
 斜面の帯郭的な平場は幅2メートル程度と狭く、戦時に詰めるといった館跡だったかもしれません。

 館跡下部は開けた平場が確認でき、近年に開墾されたものか?畑やら草地として利用されていた雰囲気も感じられますが、この場所に館主一家等が暮らした屋敷があったかもしれません。


 館山下の平場



○糠森について

 遠野の館跡を調べ上げた先人郷土史家によると、糠とは何かにくっついていて、それを取り去ったもの、すなわち玄米についているのが糠であり、砂には砂金やら砂鉄がついている。
 さらに館跡の西方集落は「火尻」という地名であり、産鉄と関りある一族が住み着いたところではないのかと考察されている。
 そして何よりも産金、産鉄の関りある伝承を残す館跡には樺の木があるとか、此処糠森館も大きな樺の木が館跡を示す目印と資料には記述されていますが、20年以上も前の調査時のこと、今回、大きな樺の木は確認していない・・・というか忘れておりました・・・汗

 そしてもうひとつ・・・
 先日、小友町の新谷館を探訪しましたが、資料には遺構に糠森とあり、主郭前面やら背部に庭園のような石を配置させた跡がみられましたが、このような部分を糠森という・・・と記述されております。
 この石等はかつては産鉄、金の熔解炉としての役目があったものか、それについては記されていない。


 館跡への入口付近から

 左の山野は細越氏のかつての居舘「林崎館跡」・右の山野は本姓を菊池と称する切掛蔵人の居舘「大寺館跡」、同じ山野続きにはやはり菊池姓、平倉氏の居舘「刃金館跡」が残されている。
 中央の集落は火尻、中央奥は物見山。

 いずれ菊池一族は産金やら産鉄にも優れた一族であったとも語られ、本姓を菊池と称する内城氏もまたこれらに関りがあったものなのか?糠森館との関連は未だに不明ですが、その範囲は少しずつ狭まっていると感じております。




○おまけ・・・攻城記

 上郷八日市のバス停からは右手一番奥の山野に一際目立つ山があり、そこが糠森館に違いないと考えていた。
 また地形図やら空中写真でも確認済み、勢い勇んで山野に分け入り斜面を進むも、館跡らしい痕跡は皆無。
 既に大汗を掻いて額の汗は滴り落ちるほど、さらに奥まった高い尾根を目指すもまたもや空振。
 北側にはさらに高い山野が控え、まさしくそこに違いないと目指すも、斜面もきついが、辺りは背丈以上の笹藪だらけ・・・・良くみると至るところの笹竹が下方に向って倒れている箇所が多数ある。
 獣が下った跡、獣道か?・・・・上郷の山城はこんな場面が結構あって、歩き難いのなんの、佐比内の太田館、来内の来内館、平倉の大寺館、細越の森下館・・・なんで上郷の山はこうなんだっ・・・と思いながら難儀して登っていると、何やら獣臭い・・・汗

 脳裏をよぎるのは・・・・熊公だっ、熊公たちは笹薮に入って寝ているともいう・・・ここは撤退か、いやっ、間もなく山頂といったところ、此処まで来て・・・・。


 倒れている笹竹

 

 これはやばいかな?・・・なんて考えていると一際大きく周囲の笹竹が倒れているちょっとした平場に到着、此処はさらに獣臭い・・・なにやら動物の毛が落ちている・・・・汗

 思わず・・・「し・ろ・く・ま・・・だっ」と叫んでしまった・・・汗・・・ホント・・・大汗


これ↓


 割と固めの毛、白熊なはずはないですよね・・・笑・・・鹿類ですよね、カモシカか?

 とにかく山頂にたどり着くも笹薮が酷くて南側へ少し下ると、空掘跡を発見、笹竹に覆われ写真には上手映らなかったが、まさしく空掘跡でした。
 本日はこれで良しにして、来た斜面を下山していると先に林道を発見、どうせ帰るなら楽な道をと思い先を進むと開けた場所に出る。
 そこが4枚先の画像のところ。

 その上に山野があって、斜面をよく見ると段差が結構確認でき、それで今回の糠森館を発見といった経緯です。

 なんのことはない、笹薮だらけの山頂を北側に下って50メートルも行けば館跡背部の2重の堀切に至ったはず・・・・是より下は杉林で結構歩きやすかった。
 大汗掻いての上り下り、さらに獣の気配に恐怖しながら、最後は遺構ひとつを見つけるも探訪したことにしての撤退が思わぬ方向へ・・・・いずれにしましても大変疲れました。

新谷館と遠野菊池一族

2008-04-09 20:47:33 | 歴史・民俗
 2003年晩秋、霙が降りしきる中、東京都在の稲用さん、そして青森県在の藤九郎さんの3人揃っての初の城館探訪で私が遠野をご案内したのですが、お2人は私より一回り年少ながらも、北奥羽関連の城館跡探訪やら歴史探求は私より先輩であり、この分野では私の師匠格といっても過言ではありません。
 また、インターネットで繋がっていたとはいえ、この分野でのかけがえのない友を得た思いでもあります。

 そんな彼らと訪ねた小友町の新谷館跡、結局、核心となる館跡そのものを確認できないまま、というより発見することができずに次の探訪地へ移動という不本意な結果となっていて、その後も探訪時期になると第1の探訪候補とするも、どうしても別な館跡探訪となって、後回しにしてきた経緯がありました。

 その新谷館、本日についに意を決して探訪して参りました。




 国道脇の長野川を越えて直ぐの林道・・・・前回は堀跡を林道に利用といった結論となったと記憶しているが、後々に見た資料によれば、館下に普段の住居としていた屋敷があったと記述され、その屋敷を一応に防備するための遺構か?山城である本来の新谷館とはあまり関連はなさそうな雰囲気でもある。


 この林道を100メートルほど進んでいくと沢が流れ、沢を挟んで左右に急斜な山野がある。
 この何れかの山野が新谷館であることは、誰でも予想はつくが、私は向って右側の山が怪しいと睨み、早速斜面登りを開始する。

 しかし、中腹辺りに至っても館跡特有の段差が全くみられない、おかしいと思いながらも遂に山頂まで来てしまった。
 全身汗だく、山頂も今まで観てきた雰囲気とは違って、どうやら空振と気付くと一気に疲れが下半身を襲う・・・・。

 このまま下っても良いが、今度は同じ高さの隣の山野を登らなくてはならないと思うと、これまた気が滅入ってしまい、山中を彷徨うように山頂を奥へ奥へと歩き始める。

 なんでこんな行動に出たかといえば、少しでも高さを稼いで、頃合を見計らって隣の山野へ移動を目論んでのこと。
 これはズバリ的中、少し下ったところに沢があって、その上に縦堀とおぼしき溝を発見、土塁のような形跡も斜面に確認できる。
 一気に登って見ると、そこには紛れもない空掘が横たわっておりました。





 まずまずの残存度、山頂背後では2重の堀で山野を断ち切っている。
 正に山城見学の醍醐味といったところですが、全体的には小ぶりな館であり、思ったほど見所満載の館跡といった雰囲気ではなかった。
 それでも、苦労してやってきた思いは報われたこと、5年越しの思いもこれで幾らか吹っ飛んだ思いがいたしました。






○新谷館
 遠野市小友町長野地内
 標高510メートル・比高110メートル・阿曾沼時代
 館主・菊池平十郎景光(新谷禅門)・新谷庄作・・・新谷一族

 新谷一族とは、本姓を菊池と称し、新谷を名乗る前は平清水氏。
 慶長5年の遠野の政変では、新谷禅門の嫡子、平清水景頼(駿河)が鱒沢氏、上野氏の南部方となってクーデターを成功させた功で、一躍遠野盟主に躍進したが、父、禅門、他の兄弟達は平清水駿河に呼応せず、新谷館に篭って別路線を通したと言う・・・・。
 後に平清水家は南部利直によって断絶となり、新谷氏の兄弟達は南部家に登用、或いは八戸から遠野へ入部した八戸氏の家臣となり新谷番所の勤番等を歴任して明治維新を迎えた。


 新谷屋敷跡か・・・?(新谷館下方)



 
 本姓を菊池とする平清水氏、新谷氏に通じる流れとして、菊池右近恒邦の名が第一に語られる。
 右近は葛西家臣、岩谷堂(江刺)の江刺氏の重臣だったと伝えられ、玉里地区に勢力を持つ菊池一族であった。
 江刺氏臣の菊池一族は多く散見される。

 天正年間、菊池右近は主家である江刺恒重に南下著しい南部信直との同盟を画策したため江刺氏から追討される。
 遠野の阿曾沼広郷がこの混乱に乗じて江刺に出陣するも敗走、菊池右近は遠野へ亡命し小友の一部を阿曾沼氏より預かることになった。
 
 新谷(荒谷)菊池系図には菊池右近を遠野での初代とし、その子に菊池又市郎(板沢氏)、菊池平十郎(平清水氏・新谷氏)が記されている。

 菊池氏が江刺から遠野へ流入、小友に当初入ったかのような印象を受けるも・・・・阿曾沼時代後半から慶長年間までの遠野郷の菊池氏を見ますと・・・。


○小友町
 菊池平十郎(平清水景光)・新谷出雲(帯刀)⇒平清水館・新谷館
 平清水平右衛門(平清水景頼)・平清水館
 小友喜左衛門(奥友)・奥友館

○宮守町
 宮森主水(宮杜)⇒宮守館

○上郷町
 菊池又市郎(板沢)・板沢平蔵⇒板沢館
 平倉長門盛清・平倉兵庫⇒平倉館
 平倉新兵衛・平倉新八⇒刃金館・・・後に菊池新四郎
 平原備後吉武・平原吉成⇒平野原館
 切掛蔵人⇒大寺館
 内城治兵衛⇒内城館

○青笹町
 菊池兵庫介成景⇒臼館
 宮沢左近⇒花館

○松崎町
 駒木豊前広道・駒木隼人広三・駒木六兵衛⇒八幡館
 畑中吉晴・畑中吉治⇒畑中館

 
 菊池一族はある時期、すなわち天正、文禄に至る年代、すなわち江刺氏の内訌も含めて豊臣秀吉による奥州仕置で葛西家が没落したことによる要因で遠野へ入って来たことは、おそらく史実であり、まずはこの時代からの考察やら検証が必要と考えております。
 無論、私自身の菊池姓に関する思いは南北朝時代に始まるという考えは強いものでありますし、巷の菊池氏研究では菊池がククチからとか、藤原なんとかからとか、そんな事は一切興味はない、いずれ遠野での菊池姓のルーツは何なのか、何故に此処まで広がったのか、このことのみであります。

 まだまだこの分野では核心に迫るといったことはできてませんが、菊池一族縁の館跡探訪も含めまして今後も展開していく所存です。


 新谷館跡のある山野





 おまけ

 小友方面の館跡めぐりやら史跡探訪での昼食は、此処・・・笑

 


 天婦羅そばセット・・・ワンコインです。  

赤沢白山神社

2008-04-05 18:48:54 | 歴史・民俗
 先月末に紫波町内で開催された郷土史セミナー(どっこ舎)に参加いたしましたが、その中で「陸奥話記」関連と紫波町赤沢の白山神社別当家「遠山家文書」についての講演があり、どちらも安倍一族、奥州藤原氏に繋がる内容でもあり、たいへん興味深く拝聴いたしました。

 平泉を世界遺産へ・・・この大きな運動の波紋は平泉文化に深く影響された地域やら縁の土地へも広がりをみせ、紫波町もそのひとつの地域でもあり、平泉の世界遺産登録に向けての援護射撃は無論のこと、平泉とどのような関連があったのか、地域でその歴史の再発見やら認識、史跡の保存等が活発化しているといった印象も感じることができました。

 我遠野でも世界遺産といった言葉から来ているものと思いますが、「遠野遺産」なる認定制度も昨年より始まり、平泉の世界遺産登録という大きな動きに触発された思いもございますが、地元史に携わるものとしては、喜ばしいことでもあります。
 




 さて、紫波町に用向きがあって、そのついでといいますか帰る際に紫波町赤沢地区に立ち寄って参りました。





 セミナーでの白山別当遠山家文書や白山神社での伝承等を早期にエントリーしたいと思ってましたが、私自身、まずは現地を訪ねてから画像と共にお伝えしたいという思いもありましたので、少しご紹介が遅れてしまいました。


○遠山家文書
 代々紫波町赤沢の遠山家に受け継がれてきた文書で、残念ながら火災で焼失とのこと。
 現当主の先代が思い起こして木札に再縁したもので、全文が漢文で書かれ解読不能の文字もあるとか。
 その記録を近年、識者が解読し活字として成したとのことである。
 前九年合戦から明治時代に至る白山神社のことが記されている。

 今回のセミナーで口語訳され読みやすく整理されたものをいただきましたが、その内容については、ここでは省略いたします。


 遠山氏とは・・・(本姓・藤原或いは亘理)

 前九年合戦で安倍氏と共に源氏軍と戦った亘理権太夫藤原経清の一族、遠山師重は、経清に託され藤原家の宝物等一切を取りまとめ、経清の母親を引き連れ白山神霊負奉り紫波の赤沢に逃れてきたという。
 白山神社の付属寺蓮華寺の住職は師重の伯父、木覚良円法師良信であったと伝えられる。
 以来三十数代続く別当家とのことで歴代は神官?、修験。 

前九年合戦はご承知のとおり出羽の清原一族が源氏方となり参戦、安倍一族は厨川柵で最後を迎えております。

 安倍貞任をはじめ主な面々は戦死、或いは処刑され、藤原経清も処刑される。
 経清の子、清衡は清原一族の子として育てられますが、後の後三年合戦で勝利し、清原氏は滅亡、奥州藤原時代の到来となります。


 遠山氏現当主のご子息(故人)の調査研究の一部ではありますが、今回のセミナーでの資料には、清衡は紫波の赤沢で出生したのではないのか、そして後に平泉に中尊寺建立、さらに白山神社は赤沢から遷されたものなのか、或いは分霊を奉ったものなのか、清衡が平泉に移った際に何かしら関わりがあるのではないのか?そんな考察などもご披露いただきました。

 白山神社境内には藤原経清の母のものとされる墓碑が現存している。


 仔細等は私にはわからない、今後の調査研究等に期待するところでもありますが、私も折をみて少しずつ研究ができたらと思うところでもあります。

 いずれ、紫波という土地もまた少し触れてみると結構面白いところであると思えてならない。
 遠野阿曾沼氏関連ながらも遠野の南側では気仙、江刺といった地域の歴史、葛西氏絡みが外すことはできませんが、北では大迫氏やそして斯波氏といった武家時代も気になるところ、こちらも遠野との関係を主としながらも、今後の課題として取り組んで行きたいと思っております。










 100メートル余りの周りを畑に囲まれた緩やかな登りの参道を来ましたが、何か様子が違う、下調べには標高250メートル前後の山頂と書かれていたが、ここは山頂ではない。
 社殿?の裏には墓碑のような石碑もあり、これが藤原経清の母のものか?なんて考えてもみましたが、どうやらさらに山道を登って行かなくてはならないと気が付く。

 ここ数日に腰痛となり、本日は痛みも和らいで回復傾向であったので、此処まで来たが、これ以上は無理と判断して、少し残念ではありましたが撤退といたしました。