キンちゃんの「マイコレ」partⅤ

果樹栽培、自然観察、・・・そして時々人間観察等です。

逆説の日本史 11 戦国乱世編

2012-11-03 19:07:46 | 
この編は、秀吉の天下取りから天下経営、朝鮮出兵にかけて述べられています。


(12/11/02撮影)

明確な「天下統一プラン」を持ち、それを実行したのは織田信長だけである。
そして、秀吉は初めはこの信長の後継者ではなく、部下の一人だった。
要するに、秀吉は、本能寺の変という日本史を変えるアクシデントのために、これまでの人生設計とは百八十度違うことをしなければならなくなったのだ。

多くの人々は秀吉の軍事的な努力は認めている。
しかし、それに勝るとも劣らず、いや、ある意味では信長以上に必要だったのが、自己の権力を正統なものとする、「正統性の創造」なのである。

秀吉が「織田家の天下を奪える」と確信したのは、やはり清洲会議の多数派工作がうまく行き、三法師が後継者として決定した時である。

信長が「アイデアの天才」ならば、秀吉は「人間関係操作の天才」であろう。
家康は「独創性」はまったくと言っていいほど無いが、人の長所を学び取るのには天才的才能を持っている。つまり、「同じ失敗は二度と繰り返さない」という「学習能力」の高い人間・・。

「寺は武装集団」という常識を初めて変えようとしたのは信長であり、それを完成したのが家康である・・。
・・寺社は「独立採算」・・これを秀吉は「寺領を与える(国家権力の支配下に置く)」という形に変えた。
秀吉は「信長の理想」の方向へ着々と動いている。「江戸時代」という「完成」に向かって、秀吉も着々と政策を実行しているのだ。

秀吉の多くの政策がそうであるように、検地も刀狩も、信長のアイデアの継承だ。それが、最初に徹底的に行われたのは、皮肉なことに秀吉のライバルであった柴田勝家の越前国であった。

何が一番手っ取り早く「支持」を集められるかといえば、それは今も昔も変わりはない。
金である。
秀吉は、また庶民の人気ということを重要視した、初めての権力者かもしれない。
その典型的なイベントが北野大茶湯である。

秀吉の「唐入り(朝鮮出兵)」には、一般に誇大妄想のイメージがつきまとっている。
元も清も漢民族から「蛮族」とされていた周辺民族が建てた王朝だ。
秀吉の動員できる軍勢は三十万人にも及び、鉄砲の武装率は世界最高だったと考えられる。
元のチンギス・ハーンも清のヌルハチも、その最初の「手勢」は一万人もいなかった。

二大強国スペインとポルトガルの「取り分」を決めるため、地球を子午線で縦割りにして、二つに分割する提案がスペイン側からなされた。
そして、彼等の魔手が日本に及んだ時代こそ、まさに信長、秀吉の時代なのだ。
秀吉の時代には、スペインがポルトガルを征服し併合した。

当時、マニラ司教であったサラサールの書簡には・・、日本を利用して明を討て、というのである。
この流れを変えたのは、イエスズ会日本準管区長のコエリョである。
・・・・・
キリスト教とはそんな生易しいものではないことに、秀吉は気が付いたのだ。
秀吉はいよいy「唐入り」を天下に号令する。スペインに先んじて明を征服しなければ、日本自体が危うくなるからだが、・・なぜ、とりあえず「朝鮮出兵」になったか・・スペイン海軍の力を借りることを断念した以上、海の向こうの明を攻めるには海上の移動を最短にし、できるだけ陸伝いに行く他はないからである。

スペインが独自で明を攻める・・なぜそれが実現しなかったのか?
イングランド占領作戦でスペイン無敵艦隊は上陸前の海上決戦に敗れ・・すぐにではないが、世界帝国の座はスペインからイギリスへと移る。
このイングランド占領計画が成功していたら、返す刀でスペインは明に侵攻したかもしれない。


今回も、興味深く読ませて頂きました。
特に、世界史との関連は。

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