何かないかなと思いながら図書館をうろついていた時、目に留まった一冊。
七日間の講義形式で、チョット見は分かりやすいかと思ったのですが、その点に関しては期待外れで難解でした。
結局、残念ながら理解が進んだとは思えませんでした。
以下、メモとして気になる所を引用しておきます。
確固として(自己欺瞞に陥ることなく)生きがいを感ずるような生き方は、やがて消滅する構図のもとでは、ありえない。
時間の三つの形式を結合する事ができるのは、過去に属するものを未来のうちに導入するから、現在や未来を未来完了としてとらえている。
言葉を習得するとは、私の視点を無理やり不特定の他人の視点に合わせていくこと。
言葉を習得するとは、「ある同一なもの」を学ぶこと。
他人の死は不在だが自分の死は不在ではないという絶対的差異性。
「私」は意識によって構成される。
無意識を無として把握するには、その前後に何かを意識していることが必要。
私が「いま私は死んでいる」ことを確認する場面がない。
未来は現在とまったく途切れており、それは現在から見れば純粋な超越です。しかも、こうした未来とは自然現象ではなく、「いま」という言葉を習得することによって、私が世界に導き入れたものです。
私が死ぬと、同時に私は人間の言葉を失う。
境界の向こうに位置する死の側からの言葉があるなら、その言葉は私の死を語ることができるかもしれない。

(14/03/29撮影)
七日間の講義形式で、チョット見は分かりやすいかと思ったのですが、その点に関しては期待外れで難解でした。
結局、残念ながら理解が進んだとは思えませんでした。
以下、メモとして気になる所を引用しておきます。
確固として(自己欺瞞に陥ることなく)生きがいを感ずるような生き方は、やがて消滅する構図のもとでは、ありえない。
時間の三つの形式を結合する事ができるのは、過去に属するものを未来のうちに導入するから、現在や未来を未来完了としてとらえている。
言葉を習得するとは、私の視点を無理やり不特定の他人の視点に合わせていくこと。
言葉を習得するとは、「ある同一なもの」を学ぶこと。
他人の死は不在だが自分の死は不在ではないという絶対的差異性。
「私」は意識によって構成される。
無意識を無として把握するには、その前後に何かを意識していることが必要。
私が「いま私は死んでいる」ことを確認する場面がない。
未来は現在とまったく途切れており、それは現在から見れば純粋な超越です。しかも、こうした未来とは自然現象ではなく、「いま」という言葉を習得することによって、私が世界に導き入れたものです。
私が死ぬと、同時に私は人間の言葉を失う。
境界の向こうに位置する死の側からの言葉があるなら、その言葉は私の死を語ることができるかもしれない。

(14/03/29撮影)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます