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キンちゃんの「マイコレ」partⅤ

果樹栽培、自然観察、・・・そして時々人間観察等です。

「死」を哲学する

2014-04-05 18:55:54 | 
何かないかなと思いながら図書館をうろついていた時、目に留まった一冊。
七日間の講義形式で、チョット見は分かりやすいかと思ったのですが、その点に関しては期待外れで難解でした。
結局、残念ながら理解が進んだとは思えませんでした。

以下、メモとして気になる所を引用しておきます。

確固として(自己欺瞞に陥ることなく)生きがいを感ずるような生き方は、やがて消滅する構図のもとでは、ありえない。

時間の三つの形式を結合する事ができるのは、過去に属するものを未来のうちに導入するから、現在や未来を未来完了としてとらえている。

言葉を習得するとは、私の視点を無理やり不特定の他人の視点に合わせていくこと。
言葉を習得するとは、「ある同一なもの」を学ぶこと。

他人の死は不在だが自分の死は不在ではないという絶対的差異性。

「私」は意識によって構成される。
無意識を無として把握するには、その前後に何かを意識していることが必要。

私が「いま私は死んでいる」ことを確認する場面がない。
未来は現在とまったく途切れており、それは現在から見れば純粋な超越です。しかも、こうした未来とは自然現象ではなく、「いま」という言葉を習得することによって、私が世界に導き入れたものです。

私が死ぬと、同時に私は人間の言葉を失う。
境界の向こうに位置する死の側からの言葉があるなら、その言葉は私の死を語ることができるかもしれない。


(14/03/29撮影)
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