経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

死者の遺したもの

2009年04月14日 | Weblog
自分自身では死の恐怖は語れても、死の体験は語れない。
そういう意味では死は他人の話であり、死を通じての生の話なのかも知れない。

生きている者は他者の死に際し自らの死に重ね、
生を思い振り返っている、といえる。

死には先達者はいない。 
自分の死、ましてや他者の死など知る者がいるわけはない。

なのに、それでも語る人の多いことよ。
なのに、それにしても多くを語ることよ。

一つの死すら経験のない人が、死について語るのは、
生きている者が区々創り上げた想像の産物であるとはいえないか。

昨夜の通夜に引き続き、受付をしながらそんなことを考えた。
何年ぶりかに会ったという故人の中学時代の友人達が、
目の前で故人を忍んで語っている。
それを、聴いていて、思ったのは、誰も死の話などしていないことである。
生きているときの話。それも過去の話。時には子供の時に戻る。

それにもうひとつ。気がついたことは
切り出しは故人の話だが、すぐ生きている自分の話に転じていることだ。
おもった。人は人の死をもって、生きている自分を語っている、と。

師 城野 宏先生は、プロの絵描きでもあった。
その画の技法は独特で、端的にいうと光を描くのに影を用い、
影を描くのに光を描く技法である。

考えて見れば、山を描くに谷は不可欠だし、
谷を描くのに山梨では不可能なのである。

このことを考えると、生きている私たちは死を描くに
その生をもって描く以外にない。このことはわかる。出来る。
誰しも生きてきた経験を持つ者が死を得ることが出来るからである。

だが生を描くに死をもって描くことは出来ない。
なぜなら繰り返すが私たちは例外なく死の経験を持たないからだ。

ここで少し考えた。タイミングよく、
騒々しかったホールには読経が流れるだけになった。

考えた。答えは案外、早く出た。
もっともそれが正しいなんてこと、絶対に言えないし、
誤りとも絶対に言えないのだが。

山と谷、陰と陽、上と下、雄と雌、左と右、こうした相対語の中に、
生と死をおいている。

だが他の相対語と異なるのは、「死」を知らないことだ。
それでは「生」を現すことが不可能だ。
そう考えれば、言葉としていえば「生きるために死がある」。
つまり生を現すために、死と言う概念を創ることが不可欠になる。

それに対して、生を贔屓に論理構成を立てるのは不公平、
おかしいやないか、という考えもあろう。
このご質問に対しては、これもまた正しいなんてこと、絶対に言えないし、
正しいとも絶対に言えない私のこじつけ論だが、こう考えたい。

地球に生きてきた経験を持つ数が、地球でこれまで死んだ者の数を、
今地球に生きている人の数だけ多いのだから、多数決で、と。

それは、次の式により、生の数が死の数を上回っているのだから、
数の多い方を優先して、考えることをおゆるし、と。

期首在庫(生きている人)+期中仕入れ(誕生者)-期中売上(死者)
  =期末在庫(現在人口)

期末在庫を増やし続けることがこの世の繁栄であり、死者が遺した
おくりものではないか。

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