経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

未だ幻想の中で-3

2009年04月05日 | Weblog
複雑な、かつ微妙な変化を即つかむには「理」では難しい。
理という頭の中の指令台より、五感という現場の最前線の方が
質、量とともに細やかでかつ大きいからだ。

そもそも理は、判断業務が主管で、収集は五感に任せ、
彼らからの情報を持っててきせいな判断を下す。
これが本来の理の仕事なのである。

頭にいる理が経営者。
現場にいて外部のもの(消費者など)と接しているのが、五感、従業員、
と考えたらわかりやすい。

それに経営者の理と、消費者の理では、対立的になりやすく、
よくいわれる「相手の立場に立って」が、現実では難しいからである。
だが「情」なら、たとえば子を思う親の気持ちは、
鉄工所の親であろうと、警察官の親であろうと同じだからだ。

情の共有、共感がなければ、対応はかみ合わず難しい。
だが消費者との接点を持つ従業員が、五感で感じたことを、
そのお客と共感・共有できれば、そしてそれを消費者の一人として、
経営者が実感できれば、「対応」は万全ではないにしても、
今のレベルより遙かにレベルの高い細やかな対応が出来るはずである。

それをマニュアルに基づいてとか、
ましてや経営者や店主へ伺いを立ててからとか、
会議で論議してからという理の司りが、ちらちら、
しゃなりしゃなり顔を出すから、その分情の対応に迷いがでて
消費者との齟齬が生まれる。遠のくということだ。
 
ここで念のために確認しておきたいが、
理と情のそのどちらかがいいか、演繹法ではなく帰納法が勝るとか
定量情報に対して定性情報を重視しなければ、といった対立論、択一論
を否定したり、その片方に私が組みして、
申し上げているのではない。ということだ。

人を機械に置き換えることで人を減らして生き抜いてきた工業社会。
そしてそれを支えた効率主義を主軸とする「理」の論理が、
本来は人的対応を要諦とし、人の持つ情を重んじる商業界の「情」の論理を凌駕した。
そのため商業界の本来、すなわち人が持つ五感をはつらつ、のびやかに
生かせるあり様が、非効率として押しやられ、苦しげなものに変わった。
行き過ぎと断定して良い。
この行き過ぎを本来の両者二極併存のあるべき形に戻すべきだ、
というのが私の提唱の本意である。

さらには付加するならば、効率主義は、ともすれば
人(民、消費者)の存在を忘れる。
忘れなければ効率の極限は得られないからである。
情を断ち切らなければ、理の根源である最大効率には至らないからである。
だから、最終的には自分をリストラする。
演題は思い出せないが、自分が生きていることで軽費がかかると考え
首をくくった商店主の話を、桂三枝で聞いたことがある。

情を無視された消費者が消費意欲を失い背を向けるのは当然である。
消費の縮小は、そのまま工業界の苦境へ直結する。
効率を上げて生産性を上げることが、より余剰物を生むことになり、
これが、今のデフレスパイラルを引き起こしているのである。

インフレで長い間、世界を構築した人類は、
デフレの中でも良き世界を構築する命題を与えられたのである。

私の頭の中での解は単純だ。
これまでの流通工程(思考工程)を次のように反対に置き換えることだ。

「消費あって購買。購買あって販売。販売あって生産」

に切り替えることだ。
山を越え谷を越え超えるのが、生きることであるとすれば
山を越えるときのあり方と下るときのあり方は、異なる。
異なるのにこれまでのあり方を続けている。

故に未曾有の混迷なのだ。