経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

普遍性と置き換え

2009年04月30日 | Weblog
うかつにも、ほとんどわからない講演会を聞きに行った。

難解な話は、何回きいてもなんかい。
友人と、途中辞席し、久々に喫茶店に行って、
平日ののどかな風景と、軽口を楽しんだ。

生徒にわからないことを話したとしたら、それは教師ではない。
講演者が聴講しているものが理解できないことを話したら嘘の人。

わからないのは、わからない人の問題ということより
わからないことを話する人が自分の立場をわかっていないことが問題なのだ。
難解なことが高邁で内容があり、やさしいことが軽いという想いがあるとしたら、
それはまったく逆だ。

子供の背丈に合わせる。それが大人の姿勢だ。
子供は合わすことはできないのだから。

友が去った後も、しばし久々の喫茶に酔った。
普段気にもとめていなかった「普遍性」という言葉が
城野 宏 先生からしばしば発せられると、
それはまるで大人の魔法の杖にように思えた。

では普遍性とはなんじゃ、と問われると
言葉としてはわかっているつもりでももう一つという感じがした。

もう20年前の話。高松タノウエ脳力経営塾で、
これを「置き換え」と置き換えて初めて使った。

俺は偉い。これは俺のところに何を入れても良いから、普遍性がある。
水虫は偉い。長嶋は偉い。うちの花はきれい。麻生さんは偉い・・・。

だが、俺は、君より偉い、となると、普遍性は失せる。
俺は水虫は偉い? 俺は長嶋より偉い?、うちの花は、どこの花よりきれい?
麻生さんは水虫より偉い・・。

ここからわかることは、比較自体は存在して良いし、
物差しと比較することで布の裁断はできるし
それで自分にぴったしのスーツを着こなすことができるのだから。
 
「自分にぴったしのスーツを手に入れたい」。
これは普遍性がある。自分を誰に置き換えてもそうだからだ。

「これを日本一の大きなスーツを着こなす」というのであれば、
本人がアファメーションするのも雄叫びをするのも自由だが、
私はどうもその気には、ということになる。

普遍性、これを置き換えに置き換えていろんなことに置き換えてみる。
またできるだけ抽象度を高め、さまざまな分野で置き換えて考えてみる。

水飲み健康法は、どうだ。おれはこれで成功した。どうだ。
上を向いて歩け。、マンホールに落っこちる。
みんな涙した。うそだ、俺は泣けなかった。
ダイエー商法はどうだ。 絶対当たる。合格率日本一。

こうしたことから、抽象度を上げて、経営の分野、経済の分野、
政治の分野でも置き換え使えるか、試みてみる。

人は自分に置き換えて、その是非を判断している。
つまり言動に普遍性がないと、人の支持、押し上げは起こりえない。

昔、ヒグチ薬局というチェーンの社長が、自らCMにでて、
「目標365店」と叫んでいたが、今は息子がホームページTOPに。
彼がどう叫ぼうと、それで奮い立って彼の店で薬を買う人は、
皆無だろうに、と笑ったことがある。

なぜ普遍性が、重要なのか。有効なのか。
なぜ置き換えができるかで、ものが見えるのか。

理由は、簡単。
世界とは人の世界。人という普遍性の中で人は存在しているからである。
1に、自分は人間であり人間であるということで普遍性がある。
 口も、鼻、へそみな一つ。耳、手、足、二つ。
2に、世界は人間の目を通しての世界であり、
詰めるならば自分の目を通して世界が存在するからである。

宇宙人も幽霊も神仏も、法人も、人に似たり。
この世はすべからく擬人化社会。畢竟、人こそこの世界での普遍性。