経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

これ、商い

2008年09月11日 | Weblog
売上げとは結果であり、
客に購買してもらわないと始まりません。

「単価×客数=売上」

という公式において単価を一定、
変わらないとして考える。これがコツです。

すると、売上の多寡は客数。
これは、お客が「ここで、これを選択し、購買する」
といった意志決定の数で決まる。

第三者が行うその意思決定数をいかに増やし続けるか
これが売れ続けるためにはどうすればいいか、
すなわち、経営の命題になるわけです。

命題、すなわち命にかかわる重要なことを、
ほとんどやられていない、というのが私の実感です。
たいていは、どうしたら売上が上がるか。
予算を達成できるか
そんなことに時間を費やしている。


さて、第三者が行うその意思決定数を
いかに増やし続けるか、ですが、

まず客との五感を共有する接点を増やすことです。
その接点は、お客様の個々の関心事に、
こちらが関心をもつことで、容易に確保できます。

例えば、顧客やその家族の悲喜交々、
たとえば誕生日や身近に起こった事件・出来事などを
しかと、捉えることです。

商品を売りたいという自分のニーズの充足のため
で、それを考えたら、利口なお客は背を向ける。
お客にアプローチではなく、お客の関心事に触れることで、
「あなたに、私は興味を持っていますよ」という
メッセージをだせば、お客があなたに気を向ける。
相手に、こちらにアプローチしてもらうのです。


お客は自分に得になる方を選びますが、
その周囲や背景に、危険、うさんくささがあると、
得なことでも尻込みします。

ですから、人間として、商人としての信用、信頼は、
選択の背景基準として、きわめて重要になります。

そうした良好な関係をつくり、お客を喜ばすことができれば、
購買決定数が増え、その結果として客数が上がり、
そして売上げが上がっていきます。

商売は、損得を瞬間的な計りで考えるのではなく、
長い目で見て、継続的に商品を買ってくれるお客を
増やし続けることができるかにかかっています。

お客との関係づくりを通じて、
お客個々からみての魅力づくりをやり続けていると、
それがクチコミで評判となり、広がっていきます。
多額の費用がかけての宣伝より、
お客がほめてくれる状態をつくることの方が、
安上がりですし、遙かに効果があるのです。
それに、やっている人は、皆こう言うのです。
 「経営がたのしくなった」

ですが、みなさん、なかなかおやりにならない。
たしかにお金をかけず、お客に喜んでもらえること、
この種まきから、発芽し、実り、収穫するまでには
時間がかかる。手間暇もかかる。

でも、毎日少しずつでもまき続ければ、
徐々に実り、それが続いていきます。
永続する商人であり続けるための哲理は、
こうしたシンプルなものです。

相手の得をすること、喜ぶことを、相手の五感に訴求し、
それをし続ける。実に単純な繰り返し、積み重ね。
これが、商いだ、経営だ、と思います。

褌の活用法

2008年09月10日 | Weblog
バラ売り、小さく作り、小さく売ること
こうしたことが、、

「買って喜ぶ、花1文め」。

買ったお客は、「綺麗ね」と喜び
売り手、売れて1文売上が上がり、喜ぶ。

といったことで、
偉大なるキーワードだ、と確信しています。

疎になれば、密が求められる、
ということを考えれば、人口減少時代と言うのは、
拡散から、密度、合理化から、手間暇、
といった方向の動きと
連動していなければならないからです。

これによって、作り手・売り手にしてみれば、
利益率が高くなる。
購買頻度が高くなる。
買上点数が多くなる。

良いことづくめです。


お客さんにしたら、出費が小さくなる。
残すといったムダがない。
(薬は直ったら、残りはなんの役にも立ちません)、
荷物にならない。置き場所に困らない。

これまた、良いことずくめ。
(もっとも良いことだけを拾っているので当然ですが))

このように、自分良し、他人良しの2者両得になる。

この「2者両得になる」ってこと。これが哲理なのです。
これまた、とても大切なキーワードです。


いつも書いていることですが、
「自分良し、他人悪し」の関係は、自滅、死の戦略。

では「自分悪し、他人良し」はどうでしょう。
いやですね。
粋がってもやっても長続きしません。
結局これも、 自滅、死の戦略。

残るは、「自分良し、他人良し」。
いや順序としては「他人良し、自分良し」。
これしかない。これが繁栄の原理なのです。
私は、そう確信しています。

これをもっと砕いていうと、

他人良しを計ると、他人、喜び、歓迎する。
他人良しをなした自分のところに、彼らはこぞって千客万来。
自分は一人、他人は64億-1人いるから、
多勢に無勢の力関係で楽して(一生他人のフンドシを借りて)、
この俺は繁栄できる。

ということになります。

俺が、俺がだと、自分のフンドシを
自分で洗濯する選択しかないが、
他人良しが加わると、
近くのクリーニング屋へ持っていく。
隣町のクリーニングやでもいい。
親しい衣料品店から、新しいのを買うも良し。
どれを選択しても、他者の儲けになる。
それで他人良し、自分良しになる。

畢竟。
基本的な生き方として、
他人との関わり、接点、頻度を増やすこと。
一言で言えば、手間暇がかかることですかね。

これが、とりわけこれからの時代は、
繁栄のキーワードとして欠かせなくなることは、
間違いないことです。

こうした観点で、周囲の商い、経営をみると、
ほとんどが時流に対応していない、あり方。
だからこそ、これはとてつもない
大きなチャンス到来なのです。

シマ馬の中のライオン

2008年09月09日 | Weblog
これから書くこと。
自分も、そうなんだ、ということを
頭に置いてでなければ、書けない。

なぜなら、それは自分のことから、
発しているからだ。

「売りたがっている人の目には、困っている人のことは映らない」。

うまい表現が出来ないが、これが私の得た大きな収穫である。


雷のせいで、パソコンがやられた、
と裏付けの証拠もなく、また本人の自白もないまま、
決めつけてブログに書いた私のいい加減さから、
このことは、始まる。

ブログに書いたら、ひょっとしたら、
奇特な人がいて、助け船を出してくれるかも、
というよこしまな魂胆が、私にあった。
なにせ、ITの向こうには、極く親しくしている
その道のプロが、何人かいることだ。

「売りたっている人には、売りたい商品以外を欲している人は映らない」。


考えてみれば、ブログにこうしたことを記して
いつも慰めの声をかけてくれるのは、その道以外の人たちだ。

「金になれば動き、金にならないければ動かないからだ」

と、咎めているのではない。
そうした人の関心、心の動きに関心があるのだ。
金になれば気がつくが、そうでなければ見落とす。

これは、ライオンや豹など猛獣、皆なそうである。
動物も人間にも通じる、普遍性があることだ。

お腹が空いたら、シマウマを追いかけるが
そうでないときは、目の前を通っても知らん顔。


ヤマダ電機のカウンターには、
たまたまその人しかいなかった。
社員の服装では無かったが、どうだろう。
胸には「カスタマサービス」という名札を付けていた。
持ち込んだ私のパソコンを、調べ始めた。
「中の電池が切れています。」

マザーが老朽化し、限界に来ているが、
とりあえず電池交換で、使えるようにはなる、と彼は続けた。

「電池交換に220円ほどかかりますが、よろしいでしょうか」

買い換えか、莫大な修繕代の見積もりを予想していた私は、
大きな空振りを食った思いだ。

反射的に、「いずれボードがだめになるんだったら、
取り替えた方が安ければ、取り替えたい。
新しいパソコンを買った方が安いのなら、そうする」。

彼は、さらに、いろいろ調べてくれた。
この手のマザーボードは、もう現在は使えないこと。
代替品も製造されていない。
ですから取り替えはできない。
使えるだけ使って、廃棄、仕方がない。
でも、電池交換で当分は使えますから。
と申し訳ないように、説明してくれた。

もう既に、私は、この彼の対応で、
新しいパソコンに買い直すことに決めていた

だが、彼には、売る気が全くなくて、
この老朽化したパソコンをいかに長く使うかの方法について、
噛んで含めるように話をするだけなのだ。

ついに、私の方が切り出した。
「オーダーメイドで、新しいのを買いたいのだけど」

やっと、彼はそうした創作パソコンの売場に案内してくれた。
10万円もあれば、メーカー製品の20万程度の性能
は確保できそうだ。

220円を申し訳なさそうに受け取り、清算すると、
彼は、持ち込んだ古いパソコンを駐車場まで運んでくれた。


川内には、ヤマダ、ベスト、 ケーズの3大型店がある。
それで、3店を下見、比較して、決めるつもりだった。
が私は、ヤアダではなく彼からヤマダで買うことに決めた。

最初から、買うだろうというお客にはだれしも親切だ。
見込み客にも親切だ。
だが、買いそうもないお客が、困った顔をしても、
素知らぬ顔をしてやり過ごす。

「お腹が空いているのに、腹の足しにもならないことにかまえるか!」
「お腹が空いていないのに、腹の足しになるものにかまっておられるか!」


帰りの車の中で、
あれ、ヤマダだからだ、じゃない。
ヤマダの社員ではないからだ。
彼だからだ。きっとそうだ。

社員でないと、人柄が出て、
その人柄が接遇になり、売れる。

私の思考は飛躍する。
正社員(販売員)って、なんや!?

自分が困ったときには、人に近寄る。
困った人には、知らん顔。

みなが、大方こうであったら、
ここに、売れるヒケツがあるではないか。

困ったとき、その困ったことにすら気づかない人、
そのかねがねは、やはり餌を付けた釣り針だったのか。

ここで私は、見切りを付ける人のことを、頭に浮かべる。

これは、自分が他者に向けて考えていること。
だが、他者が私をみるとき、
やはり、こうしたことで私に見切りをつけたいと、
そう思っていること、多々あるに違いない。

パソコンの故障のお陰で、
えらいラッキーな体験をした。
かけがえのない普遍性ある教訓を得た。

さらに、自分自身の反省も2点、得た。

雷を確証の侭、犯人扱いしたこと。
ブログで助け船、人頼りを期待していたこと。

おだやかさ

2008年09月08日 | Weblog
穏やかな快晴です。

「おだやかさ」は、
あり方の確認する一つのキーワードだ、と思います。
あくせくして、心をゆがめると、判断が狂う、
といったことを考えると、正しい判断のための
、一つのキーワードともいえるかも知れません。

穏やかさやを保つための、「くつろぎ」は、
1時間当たり、とか1日単位で計ると生産性が落ちる、
という思い込みがあります。
で、それを排斥することが、生産性、効率から見て、
「良し」と考えがちです。

しかし、これを10年とか30年とか、人生の長さで割ると
いかがでしょうか。
長くし続けということで、逆に生産性を上げることになる
といったことではないでしょうか。
 
実に多くの経営者が晩節を汚して地に落ちていっています。
このことを考えたら、人生半分成功者、あるいは幸せ者としても、
あとの人生半分を足して、2で平均を出してみると、
いかがなんでしょう。成功者、失敗者。どちらなんだろ。

こんなことを書きながら、
ぼうっとする時間を、ムダ、怠け、仕事のやり方が下手、
といったどこからか聞こえてくる声に、怯えながら、
それでいてその忙しさを人に誇って回りたいような
自欲に駆られていた頃のことが、頭に浮んできます。

他人のことをいえるのは、
自分自身が、かってまさにそうだったからに他ありません。

もう、繰り返すまいぞ、と仕事を落として、
それもうんと落として、大好きな旅の中の風景の1つとして、
仕事を考えるようにしたのです。

湧き上がってくるくる経済的な欲求を抑え込めたら、
こんな楽しい、穏やかなことはありません。

子供の頃、親のすねをかじり、かじっていることすらの実感もなく、
遊び回っていた頃。そうした楽しい、穏やかな風景が続くのです。

こうしたことを、綴っているのは、
それがまた、黄色信号付いたような日々が、
もう3ケ月も続いているからです。

以前と違うのは、黄色信号に気づく、という点と
仕事に追われてということではなく、用事が降ってくる、
といった微妙な、あるいは根本的かも知れないですが、
違いはあるのです。

人は、おなじ穴にまた落ちる。
人は、昔通った道を、また通る。

といったことがあります。

変わった、成長したと、自分では思っても、
仏様の手のひら中を飛び回っていた
孫悟空と同じなのかも知れません。

粋がらず、そうした大きなものに
心身を委ねて、巧まず活きることも
また、良しかな、と考えています。

穏やかな快晴。
その下で、あくせくするのは
どうも一幅の風景にならないような、
そんな思いがする、今朝の天気です。

天狗と白圭

2008年09月07日 | Weblog
どん欲に、外から内へ取り込むことに夢中だった時代があった。

本、講演、テープ、交流会、勉強会、等のために良く動いた。
手帳もテープレコーダーもメモもそのための手放せない道具であった。
東京、大阪、広島、博多、ちょっとしたした集まりに出かけた。
地元鹿児島でのいろんなフォーラムには必ず参加。
講師に質問をぶつける、いやなタイプの受講生でもあった。
それは質問と言うより目立たたせることのため、
と自分でもわかっていたからである。
良きにつけ悪しきにつけ、そうしたことに
一生懸命な時代が長く続いた。

それでいてなのか、だからなのか、仕事も多かった。
講演回数だけで年間365を超えて悦にいっていたこともある。
1日3回講演したこともしばしば。
車の1年の走行距離が6万で
地元のタクシーのそれを上回わっていた。

それがいつからだろう。
忙しさを厭うようになった。
疲れるから、といったことではなくて、
「こんな自分でいいのだろう」か、
と自分の生き方に不信感を抱き始めた。
それが、少しずつふくらみ始めた。

今思えば、それが自分の中から
何かを生み出した欲求に駆られた切っ掛けのような気がする。
外から入れたものを、かき混ぜあたかも自分の創案のように
はき出すことに、自己嫌悪感を覚えるようになった、
借り物ではない、なにか自分のものを生み出すだしてみたい。
そうした欲求に駆られた。

自分の能力から見ても、浅学ぶりから見ても、
そうしたこと難しい。望んでもやれはしないと思った。

ところが、それは違った。思いがけないぐらい簡単だった。

自分の個性、アイデンティティ、これまでの経験、
それに師から学んだ脳力開発のお陰だ。
それがほんとうに「自分のもの」かどうかは
別にして、そうしたものを考える魅力にとりつかれてしまった。

考えたものの中から経営に活かすものとして、
「田上脳開」(皆さんがそう呼んでくださった)が生まれた。
それに自分なりののエキス(理論)として、
「田上理論」、手法としてMMAP,田上式経営計画が生まれた。
生む為の苦労はなかった。
 
ところが、このことが結果的に大変な辛苦をなめることになった。
理由は、こうである。
こうしたものを一からげに、大胆に「主義・主張」と仮に名付けよう。
この「主義・主張」を外へ向けて主張し始めたとたん、
目に見えて人が引いていった。
それまで某大先生達から可愛がられ、
共著や分筆の依頼を受けそれまで20余冊の本を出版させて頂いた。
が、これがぴたっと止まった。
これはほんの兆し、一例だ。
多くの大先生たちが背を向けたのがはっきり見えるようになった。
県内外のあっちこっちで私の悪評が、私に入るようになった。
すーっとこれまでの人たちが、引いていくのがはっきりわかった。
だが強がりではなく、私は気にもならなかった。
あるいは軽く受け取り見過ごしていたのかもしれない。

長くなる。はしょろう。
外から既成を学ぶことには人は寛容だ。
だが、既成にないものを説くものには冷厳になる、
ということを学んだ。
裏返せば、外からの学びは謙虚さの象徴であり、
理論を説くことは奢りの象徴、ということもいえる。
そのときは、気がつかなかった。
が、それこそ私の奢り、天狗だったのである。

「与えるものは、与える優越感の故に、与えられる者の心情を見逃す」。
「教えることは、時には人を傷つける」、

自分が天狗であることを知らない天狗ほど始末に負えない。
だが、私には、この私が天狗であることを、教えてくれる人がいた。
いや本の中の、人である。それは「白圭」。

宮城谷昌光著「孟嘗君」(講談社)での白圭である。

彼は臨終の席で、養子 田文(孟嘗君)にいう。(一部抜粋))
「文どの、人生はたやすいな」
「そうでしょうか」
「そうよ。人を助ければ、自分が助かる。それだけのことだ(以下略)」

 目を閉じるまで、白圭が吐く言葉に、私は泣いた。
 訳も理由もなく、涙が止まらず一晩泣いた。

翌朝、重しを付けていた肩が、楽になっていた。



福田さん、その後明暗

2008年09月06日 | Weblog
誰を、何を信じていいかわからない、
といった不信感が講じると、経済面の不振を呼ぶ、
といったことを、以前書いた。

その意味以上に、大分県の教育委員会幹部や教師たちのなしたことは、
子供達の心そのものをダメにするような、
極めて残酷な事件だ、といえる。

信頼を裏切る、と言ったレベルではない。
信頼といったものを説くものが、信頼そのものを否定して、
それでも教室で、子供達に「信頼」を教える。
こんな残酷なことがあろうか。

信頼していた先生をも、
「ひょっとしたら、ボクたちの先生も不正合格?」
という疑心暗鬼を持たざるを得ない子供達。
これは大人の想像を絶する過酷さと思う。

政治家が何か、事件をおこしても、
「どうせ政治家なら、やりかねない」
といった風潮は、けして良くはない。
だが、「どうせ、教師なら、やりかねない」
という風潮が、定着としたら、この国は崩壊するのだ。
その影響は、のちのちまで及ぶことを考えれば、
政治家とは、比較にならない、といってよい。

と、断じ得るところに、元々は、この国の政治と政治家に、
その原因と責任があるのだが。

ここ3代の首相で共通なのは、スキャンダルが
皆無とはいえないにしても少なかったこと。

失言もまた少なかったこと。

とりわけ任期が短かったこともあるかも知れないが
福田さんは、私の知る限り双方とも皆無ではなかったか。

この3人の、先輩、あのおしゃべり盛さんにいたっては、
歴代最高の宰相と言っていいぐらい失言の多い人だった。

支持率も、5%代までおちて、盛の消費税内閣と言われても、
なかなか辞めなかった。
ハワイ沖で海難事故が起きても、ゴルフを止めることもなかった。
その彼は、自民の中では、気配りの盛と言われていた。
その点からいったら、潔さは3人共通している。


さて、次の総理。失言派か、そうでないか、増税・バラマキ派か、
改革・節約派か。男性か、女性か。 二世議員かそうでないか。

こうしたさまざまな対峙があると、
いきおい政治にも、選択のおもしろさがでてくる。

長い間、派閥のの選択を迫られていた国民からみたら、
民主党の、小澤閣下オンリー、選択肢のなさは、
彼が幹事長で豪腕を振るいたかっての自民党体質を彷彿させ、
いきおい「暗さ」がでてきた。

元々、暗いタイプ、そして党員にすら選択肢を失わせた
彼と、加えて民主党の暗さを、より浮き立たせるには、
「明さ」の演出を、という戦略は、自民としては当然でてくる。

選択の多さが、明るさを、
選択のなさが、暗さの分岐

であるなら、自民と民社の明暗は明確だ。

そして自民複数候補の中の「明るい」人が、
次の総理、そして首相に決まるだろう。

そういえば、と国民の多くは思うはずだ。

「小泉さんその後の二人に、明るい笑顔を
見たことがなかったっけ。ひさびさ、やんけ」。

解散なしでは意味がない

2008年09月05日 | Weblog
なにかあって、その瞬間、ふっと頭に浮かんできた言葉を、
きっかけにブログを書き始める。
福田辞任表明で、頭をよぎったこと。
「他人事みたい」

彼は、これを付かれ、曰く。
「私は、自分を客観視できるんですよ」。

これが、彼のいう客観だったら、ちょいと違うのでは。

ここでの「客」とは、国民、国家という大局観点だ。
国民からみて、最善手の選択ができるかどうか、が
問われる位置と状況にあって、そこから遊離して
国民や政治を「他人事」として、観る、というのは
こりゃ、身勝手な投げ出しだ。

ならば内閣改造、なんでやった。
サミット議長、何でやった

と問われれば、ぐうの音もでまい。

客観というのなら、内閣総辞職、解散をし、民意を問う
これが、真の客観、その行動版だろう。
この論議、いったん、おく。


瞬間的に頭をよぎるものがある場合、
直ちにせめて引き出しになる言葉だけでも書き記しておかねば、
多くの場合、その言葉は2度と出てこないから、
これはもう必死である。

書く切っ掛けになるものは、もうひとつある。
安倍さんにつづいて福田さん、と首相の政権放棄が続く。

なんでやろ、と考え込む。

この「なんでやろ」が、切っ掛けになって、
両者に共通する普遍性を調べたくなる。

首相の退任は、大きく2つある。
1つは、任期満了型。
これは案外に稀有で、最近では小泉さんがそうである。
2は、すべて途中辞任(病気、死亡も含めて)。
ここで、また別のことが頭をよぎる。
人気の長い人と、短い人との、違いはなんやろ。

こんなことを考えていると、
史上短命(1ケ月余)宇野さんは以後どうだったか、
気になり、年表を調べ始める。

歴代の内閣を年表で追っていると、また新たな言葉が頭をよぎる。
それは、国民の与信をうけずに自民内密室で、
妖怪達が決めた総理が、突然、あるいは嫌々ながら、
退陣していることに気づく。

早い話が、解散、総選挙といった国民の洗礼を受けていない総理が、
そうだ、ということである。

このことは、取りも直さず、主権者である国民をないがしろに、
その召使いどもが、談合で自分たちに都合の良い者を、総理に選ぶ、
といったことが、いかに多いか、ということに他ならない。
これは、見逃してはならない。国民は怒らねばならない。

彼らは、民主主義を唱えながら裏切り、否定しているからである。
番頭が、主人に隠れて、物事を進めているに等しいからである。


今度、だれが選ばれようと、そういう意味では、同じこと。

福田さんい、総辞職、解散の勇気は内のだろうから、

今度、総理、総裁に選ばれた人は、国会を開き、
その場で解散、総選挙へ持っていかない限り、

「おらたちが選ぶ人を、おらたちが選べねぇ」
「そったら人たつば、おらたちは信頼できるはずないべぇさ」

といった国民の不信、不満は、消えることは、絶対にない。


だれそれを総理候補に、といって、自民は姦しいが、
そうした個々の人選の以前の問題として、
民主主義のルール、定石を踏むことを、
主人である国民に明言するべきである。

「候補のリストアップを出しますので、
  ご主人達が、一番いいという方を、
    その中からお選び、決めて下さいな」

主権者をないがしろにした政治こそが、
2代にわたり短命政権、投げだしを産みだした真因である。

そのくりかえしがさらに、
主権者である国民が政治事に対する不信感をさらに拡げている。

自民は、いや自民だけではなく、議員達は、
民主主義の主義を、ないがしろにしてきた非を、国民に詫び、
速やかに、国民の総意を問うべきである、と強く申し上げたい。

主権者は国民であり、自民ではないこと。これを明確にしない限り
国民の不信は収まらない、と考えるからだ。

福田さんに国民栄誉賞

2008年09月04日 | Weblog
8月31日と9月1日。
何が変わったと、いうのだろう。
日付と月が変わった。これは確かだ。
では、福田政権は?
辞任の話はあったが、辞任したわけではない。

近く起こりえる「こと」に、反応し、
マスコミが大騒ぎしているだけ、
それ「だけ」のこと。そして、
それだけのことではない、と思っている一部の人。

大部分の国民が、それを心配して、
昼飯が喉を通らなかったということはあるまい。
喜んで、乾杯を上げたということも、
自民にはいても、国民ではあるまい。
ほとんどが、昨日、一昨日と変わらぬ
生活を営んだはずだ。


「こと」がおきると、プラスとマイナス、いずれかの影響がおきる。
それも、それぞれ短期的と長期的に、と時間軸を加えると、
まるで反対の結果になったりするから、
たしかに、「こと」は簡単ではない。

 太田大臣はどうだろう。
 自民はどうだろう。
 麻生さんはどうだろう。
 民主党はどうだろう。
国民はどうだろう。
経済はどうだろう。

こうした主語を付けると、「こと」の影響は、
区々立場によって異なるから、「こと」は複雑だ。

そうしたことを、総て、たとえば定量的に判断して、
「今回の辞任は、よかった」とか「影響はさけられない
(この場合、マイナスに解している)、
と、記者さんは判断して、報道しているわけではない。
新聞社や放送局で、社員総会を開いて議論し、
多数決により決めて、報道しているのでもない。

個人的見解よりも、巾の違いはあっても、そう差があるわけない。
個々人の立場や利害に踏み込んで判断していることはないから、
結局、その記者さんの個人判断の枠内で、報じているにすぎない。
然し、個人的見解とはいえないから、
総じて、とか一般的、とか、概ね流れとしては、という
ぼかした表現をとっているわけだが。

こうしたことを咎めようというのではない。
流れてくる情報をそのまま、鵜呑みにしない。
そのことを、ことあるたびに自戒を含めて、言いたいのだ。

そのためには、
1に、そうしたことを念頭に置き、
情報(ここでは報道)を、受け取ることが不可欠だ、ということ。
2に、上に触れたように、
それぞれのフィールターを通して、判断してみること。
3に、主語を自分にしてその影響を考えてみること。、
たとえば、「福田さんの、辞任は、自分にとって、
プラスか、マイナスか。
区々、長短期的にみて、どうか」
といったように、多角的に、考えてみる。
そうした習慣つくりが、「こと」には肝要だ。

そして、最も肝心なことだが、それぞれの解を得たら、
自分はどうすれば良いのか。
打つ手、行動のイメージを描くことである。

情報は、「こと」、そのことは、不利でも有利でもない。
それを判断する人たちがそれぞれの立場によって、
「良い」、「悪い」、と解しているのである。

良い、という形容詞を付ければ、これは良い情報。

悪い形容詞を付けたのなら、悪い情報。

対応は、2つ。
良いことなら、良し。
悪いことなら、それに甘んじるか、
「良い」ことにするよう動き、良いことにした上で、、
看板(形容詞)の取り替えをやるか、である。



よって、のちのち、あのとき福田さんが、
辞めてくれたお陰で、

国民は、
「日本はこんな素晴らしい国になった」。

我が社は、
「お陰で仕事が増え、本社ビルを建てることが出来た」

個人的には、
「おれんちにも藏が建って、中には、金塊が一杯」

その結果、元総理の福田さんは、「国民栄誉賞」を貰う。
彼の辞任宣言のこの日を、国民は讃え、
福田記念日として、祝日になる、、

ということも、あり得ないとは断定できない、
そうした可能性も全くは否定できないと、

私は思わないことはないのである。

メデタシ 桃太郎

2008年09月03日 | Weblog
この今、この私は、この今におきていることに、
反応しているとは、限らない。昨日書いた最後の2行の続き。

ならば、とここで膝をうつ。

この今がどうでであろうと、ええふうに思い考え、
未来の結果を、ええふうにしたら、いいじゃないかと。

この今、とてつもなく楽しかったら、
その思いをもっと大袈裟に感じよう。

この今、とてつもなく哀しかったら、
悲喜交々、その選択は、己に任されているのだから
とてつもなく楽しく、思えばいい。
脳が、勘違いするぐらい。


過去のことは、どうしよう。
今、未来から、この今に向かって流れ込むものは、
かってその今に撒いたものだ。
それに対応したり、無視したり、それが因となって、
未来の結果を成す。

そしてその結果は、未来にも、この今にも、
まったく関われない過去へ流れ去っていく。
流れ去っていくものを、追いかけて、
この今に引き戻すことは出来ないのだから。
出来ないことは、やらないことだ。

それでいい。
そもそも未来がどんどん、この今に運ばれてくるのだから、
それに夢中、集中した方がいい。
取り逃がし見過ごして、後の祭りと、過去に葬らないために。

クルクル寿司の寿司皿は、通り過ぎても
また回ってくるかも知れないが、人生ではそれがない。
一度限りの人生とは、そういうことだ。

だから、その未来には、1度限りの人生を送るために、
似つかわしい種を蒔こう。
大きな、充実した、絵を描けばいいのだが、
なんと不思議なことよ。
描くだけなら無料というのに、
何に遠慮、誰に気遣いか、私の描く絵の小さいことよ。

それに子供の頃、描いた絵が、だんだん小さくなって、
いつの間にか、別の小っちゃくなっているではないか。

未来は、未来だからいかようにでも描ける。
大富豪になるも良し、大統領でも良し。
何でも描けるが、その描くのはこの「今」に限られる。
今蒔いた種が、未来の結果を創るのだから。
このことは、なんども触れた。

おとなは大人と書く。
なのに、人は大きくなって、描く夢は小さくなる。
それは大人だから、そうなのか。
自分だから、そうなのか。

前者なら、大人はやっかいなものよ。
大きくなって、小さくなる。
先が短くなったからといって、
夢を小さくすることはあるまいに。


後者なら、この私、たいしたことないな。
脳のシプナスは無限の組み合わせがあり、
大人になっても、その3%も使っていない。
そのことを知っていながら、
さらに縮めようというのだから。

いずれにしても、赤ん坊に劣る。
その私が、この私なのだ。

この私ではならない。
そう悔しく思うのなら、この今。
大きな種を蒔こう。大きな絵を描こう。
それも、沢山、沢山。
半分が稔らなくても、残りの半分でも、
大金持ちか、幸せ者になれるよう。

自分の頭に描くのに、「こんな贅沢、いいのかしら」、
と縮こまることなど、全くないのだから。

年寄り夫婦が、川を流れ来る、桃に気がつき、
拾い上げたから、桃太郎が生まれ、
彼を育てたことで、(たぶんに)財宝を得た。
メテタシ。メデタシ

福田さんと私の違い

2008年09月02日 | Weblog
多くの人が書くであろうことは、
私が書いても意味がない。、

だから、奇をてらった内容でないかぎり、
書く気はない、と思う反面、
日本の行く末が国民の関心になっているところに、
「大事にしていた消しゴムを無くした」と、
いったことを書くのも、鈍感なことだと思う。


「投げ出す」を、慣用句辞典で見てみる。

・投げ出す(なげだす) 
1-投げて外へ出す。放り出す。
 用例:太平記-(省略  )
2-投げるように前へ突き出す。また、無造作に置く。
 例:「足を投げ出す」 
3-命や財産・権利などを、惜しげもなく差し出す。
 類:●擲つ 例:「財産を投げ出す」 
4-事が完了しないのに、途中で諦(あきら)めて
  止(や)めてしまう。放棄する。
 例:「仕事を途中で投げ出す」 
5-持ち出す。提出する。 
用例:省略


それぞれ微妙な違いながら、これだけの意味がある。
福田さんの場合は、どれが一番近いか。
1ではない。3ではまったくない。5でもない。
ここまでは異存がなかろう。
とすると、残りは2か4か。
一見、すんなり4のように思えるが。
だが、「事が完了しないのに」という前置きが気になる。

それで、次に「事」を国語辞典で引いてみた。
凄い。
その意味、3ページにまたがっての解説である。
全部を転記する紙面はないから、省略するが、
それらの中から、福田さん個人の「事」は、おいといて
政治家、首相としての「事」とは、何か。
いわずもがな、国の政「事」。政治は政事なのだから、当然だ。
「事」には、目的的要素、使命感、志的ニュアンスが含まれる。

では、彼は総理としての政事に、
彼なりの目標、目的、志があったが、
それを果たさない前に、投げ出して、ということになる。
だが、この 「 彼なりの目標、目的、志」が、
彼にあったのだろうか、

というのが、私の素朴な、いやうがった見方である。
志がない人に挫折はない。
投げ出すものを持っている人が、投げ出せるのであるから。
記者会見の、淡々さ。「私は、自分を客観視できる・・・」とは、
志、ある意味では執着するものすら描けなかった、
という述懐ではないのか。私にはそう思えた。

としたら、4ではない。
残るは、2しかない。
消去法で2、ということだけではなく、
私は、まさに、(積極的意味で)コレだ、と思った。
 1.投げるように前へ突き出す。
   →投げるように麻生さんに突き出す。
     また無造作に置く→
      無造作に、政権、国民への果たすべきことを措き、去る

→の右はむろん、私が補足したものである。

辞書の用例に、「足を投げ出す」とある。
これを見て、私は、自分の幼児の頃を思い出した。
自分の思うとおりならならないと足を投げ出し、
バタバタし、母を手こずらせ、欲するものを手に入れた。

我田引水で、私と福田さんの違いは、
私は足バタで、おもちゃを手に入れたが、
彼は政事をおもちゃみたいに、投げ出した、ということだ。

だから、私が総理にふさわしく、
彼は政治家として失格だ、と言う気持ちで、
書いているのではない。念のため。

安倍さんの時も書いたが、最近の子供は、あっさり感、というが
最近の政治家は、その子供から笑われるぐらい、あっさり的。
情けない、というのが、実感だ。