経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

天狗と白圭

2008年09月07日 | Weblog
どん欲に、外から内へ取り込むことに夢中だった時代があった。

本、講演、テープ、交流会、勉強会、等のために良く動いた。
手帳もテープレコーダーもメモもそのための手放せない道具であった。
東京、大阪、広島、博多、ちょっとしたした集まりに出かけた。
地元鹿児島でのいろんなフォーラムには必ず参加。
講師に質問をぶつける、いやなタイプの受講生でもあった。
それは質問と言うより目立たたせることのため、
と自分でもわかっていたからである。
良きにつけ悪しきにつけ、そうしたことに
一生懸命な時代が長く続いた。

それでいてなのか、だからなのか、仕事も多かった。
講演回数だけで年間365を超えて悦にいっていたこともある。
1日3回講演したこともしばしば。
車の1年の走行距離が6万で
地元のタクシーのそれを上回わっていた。

それがいつからだろう。
忙しさを厭うようになった。
疲れるから、といったことではなくて、
「こんな自分でいいのだろう」か、
と自分の生き方に不信感を抱き始めた。
それが、少しずつふくらみ始めた。

今思えば、それが自分の中から
何かを生み出した欲求に駆られた切っ掛けのような気がする。
外から入れたものを、かき混ぜあたかも自分の創案のように
はき出すことに、自己嫌悪感を覚えるようになった、
借り物ではない、なにか自分のものを生み出すだしてみたい。
そうした欲求に駆られた。

自分の能力から見ても、浅学ぶりから見ても、
そうしたこと難しい。望んでもやれはしないと思った。

ところが、それは違った。思いがけないぐらい簡単だった。

自分の個性、アイデンティティ、これまでの経験、
それに師から学んだ脳力開発のお陰だ。
それがほんとうに「自分のもの」かどうかは
別にして、そうしたものを考える魅力にとりつかれてしまった。

考えたものの中から経営に活かすものとして、
「田上脳開」(皆さんがそう呼んでくださった)が生まれた。
それに自分なりののエキス(理論)として、
「田上理論」、手法としてMMAP,田上式経営計画が生まれた。
生む為の苦労はなかった。
 
ところが、このことが結果的に大変な辛苦をなめることになった。
理由は、こうである。
こうしたものを一からげに、大胆に「主義・主張」と仮に名付けよう。
この「主義・主張」を外へ向けて主張し始めたとたん、
目に見えて人が引いていった。
それまで某大先生達から可愛がられ、
共著や分筆の依頼を受けそれまで20余冊の本を出版させて頂いた。
が、これがぴたっと止まった。
これはほんの兆し、一例だ。
多くの大先生たちが背を向けたのがはっきり見えるようになった。
県内外のあっちこっちで私の悪評が、私に入るようになった。
すーっとこれまでの人たちが、引いていくのがはっきりわかった。
だが強がりではなく、私は気にもならなかった。
あるいは軽く受け取り見過ごしていたのかもしれない。

長くなる。はしょろう。
外から既成を学ぶことには人は寛容だ。
だが、既成にないものを説くものには冷厳になる、
ということを学んだ。
裏返せば、外からの学びは謙虚さの象徴であり、
理論を説くことは奢りの象徴、ということもいえる。
そのときは、気がつかなかった。
が、それこそ私の奢り、天狗だったのである。

「与えるものは、与える優越感の故に、与えられる者の心情を見逃す」。
「教えることは、時には人を傷つける」、

自分が天狗であることを知らない天狗ほど始末に負えない。
だが、私には、この私が天狗であることを、教えてくれる人がいた。
いや本の中の、人である。それは「白圭」。

宮城谷昌光著「孟嘗君」(講談社)での白圭である。

彼は臨終の席で、養子 田文(孟嘗君)にいう。(一部抜粋))
「文どの、人生はたやすいな」
「そうでしょうか」
「そうよ。人を助ければ、自分が助かる。それだけのことだ(以下略)」

 目を閉じるまで、白圭が吐く言葉に、私は泣いた。
 訳も理由もなく、涙が止まらず一晩泣いた。

翌朝、重しを付けていた肩が、楽になっていた。