経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

威儀、異義、意義

2008年09月25日 | Weblog
起源の根底になるものを、はしょってニーズと呼ぼう。

商店は、近くに酒屋があったらどんなに便利だろう。
魚屋が近くにあったら、峠の先の漁師町まで、買い物に行かなくても良いのに、
といった住民のニーズに酔って生まれたものといってよい。

実態も歴史も見ないコンサルタントが、
「この町は、自然発生的商店ばかりで近代化が遅れている」とか
「不足業種だらけである」。
あるいは、「核がない」とか

こうした聞いたようなセリフを並べた「商店街診断報告書」
なるものをよく見かけるが、まさに噴飯ものと言わざるを得ない。

自然発生したのは雑草ではない。
生活の糧を供給するお店だ。
住民に、必要とされたからだ。

不足業種があるとは、
それがなくとも暮らしに不自由しないからだ。

核がないのは、各店が個々お得意さんを持っていて、
また遠くからお客を引っ張り込まなくとも、
穏やかに生活の中に溶け込んだ商いが出来ていたからだ。

もちろん、それでいい。これからもそのままでいけ、
と言っているのではない。

過去の意義を探求する。ここまで存続してきた実績に敬意を払う。
その上で、過去から学ぶ謙虚さが、
商店や街作りの近代化、高度化に携わる者に、駆けていたのではないか、
反省することだ、といいたいのである。

一方、商店側も、本来なら地域住民に必要不可欠とされ、
良き評判が浸透した店や街を、お客が容易に離すはずはない。
それがおかしくなるのは、自分たちのどこかに問題があるのではないか、
と謙虚に自己点検する姿勢が必要ではないか。

実のところ現状はどうか。
確かに、街の商人も言葉の形が丁寧になった。
だがそれが売らんがためであることが、みえみえだから、
地域消費者にはなんとなくよそよそしく思え、
背を向けお世辞をいわないセルフストアへ走らせたのではないか。

個性だらけのお店が、同一化、画一化、標準化してしまい、
どうせ同じなら、遠くても大きなお店に、と走らせたのではないか

同一化、画一化、標準化してしまうと、大きいところ、
名が売れているところを、社会的信頼性の意味からも
選択するようになるのは、当然である。

そのことを消費者から見たら、
買い物、選択のおもしろさ、楽しさを
そぎ落とされたことになる。
地域のお店、商店の、それらをそぎ落とした当事者はだれか。
商店主である。
側面から行政である。
それを手伝った経営コンサルタントである。
住民ではない。お客ではない。

こうしたことで、地域の商店街や商店が、
地元から心が離れたり、信頼を損なったりしたのでは、
何を持ってその存在意義を主張したらいいのか。

今、商店、街は、この設問にためらうことなく、
解を与え、金がかからぬすぐやれるとこから実践していく。
その機が来た、といっていい。

信頼は、日常の消費者との接点で生まれる。
日々の積み重ねである。
商店の威儀、誇りは、お客から信頼されている、
頼りにされている、ということで生まれる。

商店、街の本来の意義を問い続けること。

そうしたことが、信頼を取り戻す、本来のあり方だと、
異議をもたれるかたもあろうが、私は思っている。