経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

解散なしでは意味がない

2008年09月05日 | Weblog
なにかあって、その瞬間、ふっと頭に浮かんできた言葉を、
きっかけにブログを書き始める。
福田辞任表明で、頭をよぎったこと。
「他人事みたい」

彼は、これを付かれ、曰く。
「私は、自分を客観視できるんですよ」。

これが、彼のいう客観だったら、ちょいと違うのでは。

ここでの「客」とは、国民、国家という大局観点だ。
国民からみて、最善手の選択ができるかどうか、が
問われる位置と状況にあって、そこから遊離して
国民や政治を「他人事」として、観る、というのは
こりゃ、身勝手な投げ出しだ。

ならば内閣改造、なんでやった。
サミット議長、何でやった

と問われれば、ぐうの音もでまい。

客観というのなら、内閣総辞職、解散をし、民意を問う
これが、真の客観、その行動版だろう。
この論議、いったん、おく。


瞬間的に頭をよぎるものがある場合、
直ちにせめて引き出しになる言葉だけでも書き記しておかねば、
多くの場合、その言葉は2度と出てこないから、
これはもう必死である。

書く切っ掛けになるものは、もうひとつある。
安倍さんにつづいて福田さん、と首相の政権放棄が続く。

なんでやろ、と考え込む。

この「なんでやろ」が、切っ掛けになって、
両者に共通する普遍性を調べたくなる。

首相の退任は、大きく2つある。
1つは、任期満了型。
これは案外に稀有で、最近では小泉さんがそうである。
2は、すべて途中辞任(病気、死亡も含めて)。
ここで、また別のことが頭をよぎる。
人気の長い人と、短い人との、違いはなんやろ。

こんなことを考えていると、
史上短命(1ケ月余)宇野さんは以後どうだったか、
気になり、年表を調べ始める。

歴代の内閣を年表で追っていると、また新たな言葉が頭をよぎる。
それは、国民の与信をうけずに自民内密室で、
妖怪達が決めた総理が、突然、あるいは嫌々ながら、
退陣していることに気づく。

早い話が、解散、総選挙といった国民の洗礼を受けていない総理が、
そうだ、ということである。

このことは、取りも直さず、主権者である国民をないがしろに、
その召使いどもが、談合で自分たちに都合の良い者を、総理に選ぶ、
といったことが、いかに多いか、ということに他ならない。
これは、見逃してはならない。国民は怒らねばならない。

彼らは、民主主義を唱えながら裏切り、否定しているからである。
番頭が、主人に隠れて、物事を進めているに等しいからである。


今度、だれが選ばれようと、そういう意味では、同じこと。

福田さんい、総辞職、解散の勇気は内のだろうから、

今度、総理、総裁に選ばれた人は、国会を開き、
その場で解散、総選挙へ持っていかない限り、

「おらたちが選ぶ人を、おらたちが選べねぇ」
「そったら人たつば、おらたちは信頼できるはずないべぇさ」

といった国民の不信、不満は、消えることは、絶対にない。


だれそれを総理候補に、といって、自民は姦しいが、
そうした個々の人選の以前の問題として、
民主主義のルール、定石を踏むことを、
主人である国民に明言するべきである。

「候補のリストアップを出しますので、
  ご主人達が、一番いいという方を、
    その中からお選び、決めて下さいな」

主権者をないがしろにした政治こそが、
2代にわたり短命政権、投げだしを産みだした真因である。

そのくりかえしがさらに、
主権者である国民が政治事に対する不信感をさらに拡げている。

自民は、いや自民だけではなく、議員達は、
民主主義の主義を、ないがしろにしてきた非を、国民に詫び、
速やかに、国民の総意を問うべきである、と強く申し上げたい。

主権者は国民であり、自民ではないこと。これを明確にしない限り
国民の不信は収まらない、と考えるからだ。