8月31日と9月1日。
何が変わったと、いうのだろう。
日付と月が変わった。これは確かだ。
では、福田政権は?
辞任の話はあったが、辞任したわけではない。
近く起こりえる「こと」に、反応し、
マスコミが大騒ぎしているだけ、
それ「だけ」のこと。そして、
それだけのことではない、と思っている一部の人。
大部分の国民が、それを心配して、
昼飯が喉を通らなかったということはあるまい。
喜んで、乾杯を上げたということも、
自民にはいても、国民ではあるまい。
ほとんどが、昨日、一昨日と変わらぬ
生活を営んだはずだ。
「こと」がおきると、プラスとマイナス、いずれかの影響がおきる。
それも、それぞれ短期的と長期的に、と時間軸を加えると、
まるで反対の結果になったりするから、
たしかに、「こと」は簡単ではない。
太田大臣はどうだろう。
自民はどうだろう。
麻生さんはどうだろう。
民主党はどうだろう。
国民はどうだろう。
経済はどうだろう。
こうした主語を付けると、「こと」の影響は、
区々立場によって異なるから、「こと」は複雑だ。
そうしたことを、総て、たとえば定量的に判断して、
「今回の辞任は、よかった」とか「影響はさけられない
(この場合、マイナスに解している)、
と、記者さんは判断して、報道しているわけではない。
新聞社や放送局で、社員総会を開いて議論し、
多数決により決めて、報道しているのでもない。
個人的見解よりも、巾の違いはあっても、そう差があるわけない。
個々人の立場や利害に踏み込んで判断していることはないから、
結局、その記者さんの個人判断の枠内で、報じているにすぎない。
然し、個人的見解とはいえないから、
総じて、とか一般的、とか、概ね流れとしては、という
ぼかした表現をとっているわけだが。
こうしたことを咎めようというのではない。
流れてくる情報をそのまま、鵜呑みにしない。
そのことを、ことあるたびに自戒を含めて、言いたいのだ。
そのためには、
1に、そうしたことを念頭に置き、
情報(ここでは報道)を、受け取ることが不可欠だ、ということ。
2に、上に触れたように、
それぞれのフィールターを通して、判断してみること。
3に、主語を自分にしてその影響を考えてみること。、
たとえば、「福田さんの、辞任は、自分にとって、
プラスか、マイナスか。
区々、長短期的にみて、どうか」
といったように、多角的に、考えてみる。
そうした習慣つくりが、「こと」には肝要だ。
そして、最も肝心なことだが、それぞれの解を得たら、
自分はどうすれば良いのか。
打つ手、行動のイメージを描くことである。
情報は、「こと」、そのことは、不利でも有利でもない。
それを判断する人たちがそれぞれの立場によって、
「良い」、「悪い」、と解しているのである。
良い、という形容詞を付ければ、これは良い情報。
悪い形容詞を付けたのなら、悪い情報。
対応は、2つ。
良いことなら、良し。
悪いことなら、それに甘んじるか、
「良い」ことにするよう動き、良いことにした上で、、
看板(形容詞)の取り替えをやるか、である。
よって、のちのち、あのとき福田さんが、
辞めてくれたお陰で、
国民は、
「日本はこんな素晴らしい国になった」。
我が社は、
「お陰で仕事が増え、本社ビルを建てることが出来た」
個人的には、
「おれんちにも藏が建って、中には、金塊が一杯」
その結果、元総理の福田さんは、「国民栄誉賞」を貰う。
彼の辞任宣言のこの日を、国民は讃え、
福田記念日として、祝日になる、、
ということも、あり得ないとは断定できない、
そうした可能性も全くは否定できないと、
私は思わないことはないのである。
何が変わったと、いうのだろう。
日付と月が変わった。これは確かだ。
では、福田政権は?
辞任の話はあったが、辞任したわけではない。
近く起こりえる「こと」に、反応し、
マスコミが大騒ぎしているだけ、
それ「だけ」のこと。そして、
それだけのことではない、と思っている一部の人。
大部分の国民が、それを心配して、
昼飯が喉を通らなかったということはあるまい。
喜んで、乾杯を上げたということも、
自民にはいても、国民ではあるまい。
ほとんどが、昨日、一昨日と変わらぬ
生活を営んだはずだ。
「こと」がおきると、プラスとマイナス、いずれかの影響がおきる。
それも、それぞれ短期的と長期的に、と時間軸を加えると、
まるで反対の結果になったりするから、
たしかに、「こと」は簡単ではない。
太田大臣はどうだろう。
自民はどうだろう。
麻生さんはどうだろう。
民主党はどうだろう。
国民はどうだろう。
経済はどうだろう。
こうした主語を付けると、「こと」の影響は、
区々立場によって異なるから、「こと」は複雑だ。
そうしたことを、総て、たとえば定量的に判断して、
「今回の辞任は、よかった」とか「影響はさけられない
(この場合、マイナスに解している)、
と、記者さんは判断して、報道しているわけではない。
新聞社や放送局で、社員総会を開いて議論し、
多数決により決めて、報道しているのでもない。
個人的見解よりも、巾の違いはあっても、そう差があるわけない。
個々人の立場や利害に踏み込んで判断していることはないから、
結局、その記者さんの個人判断の枠内で、報じているにすぎない。
然し、個人的見解とはいえないから、
総じて、とか一般的、とか、概ね流れとしては、という
ぼかした表現をとっているわけだが。
こうしたことを咎めようというのではない。
流れてくる情報をそのまま、鵜呑みにしない。
そのことを、ことあるたびに自戒を含めて、言いたいのだ。
そのためには、
1に、そうしたことを念頭に置き、
情報(ここでは報道)を、受け取ることが不可欠だ、ということ。
2に、上に触れたように、
それぞれのフィールターを通して、判断してみること。
3に、主語を自分にしてその影響を考えてみること。、
たとえば、「福田さんの、辞任は、自分にとって、
プラスか、マイナスか。
区々、長短期的にみて、どうか」
といったように、多角的に、考えてみる。
そうした習慣つくりが、「こと」には肝要だ。
そして、最も肝心なことだが、それぞれの解を得たら、
自分はどうすれば良いのか。
打つ手、行動のイメージを描くことである。
情報は、「こと」、そのことは、不利でも有利でもない。
それを判断する人たちがそれぞれの立場によって、
「良い」、「悪い」、と解しているのである。
良い、という形容詞を付ければ、これは良い情報。
悪い形容詞を付けたのなら、悪い情報。
対応は、2つ。
良いことなら、良し。
悪いことなら、それに甘んじるか、
「良い」ことにするよう動き、良いことにした上で、、
看板(形容詞)の取り替えをやるか、である。
よって、のちのち、あのとき福田さんが、
辞めてくれたお陰で、
国民は、
「日本はこんな素晴らしい国になった」。
我が社は、
「お陰で仕事が増え、本社ビルを建てることが出来た」
個人的には、
「おれんちにも藏が建って、中には、金塊が一杯」
その結果、元総理の福田さんは、「国民栄誉賞」を貰う。
彼の辞任宣言のこの日を、国民は讃え、
福田記念日として、祝日になる、、
ということも、あり得ないとは断定できない、
そうした可能性も全くは否定できないと、
私は思わないことはないのである。