経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

作用と反作用-後編

2008年03月21日 | Weblog
花粉症を酷くしないために、良い天気のときは、
散歩を控える。それで運動量が減る。これは反比例。

だから、これをどうしたら正比例に
持って行けるかを考えた。
要は運動ができればいいのだから、
散歩がだめなら室内でやる運動を増やせばいい。

だが、机に向かっての仕事に追いまくられて、
室内の運動時間をとれないときは、どうすればいいか。
これを考えたが、今はほぼ解決している。

私が室内で履いているサンダルは、
12年前、防府・ビジネスホテルあけぼの(石村義光さん経営)に
遊びに行ったとき、近くのスーパーで買ったもの。
見切り品で298円。
イボイボが付いていて、かかとがない。
これは実に重宝だ。歩くとかなりの負荷がかかり、
相当の運動量になるからだ。

では、机に向かっているときの運動、
すなわちじっとしていても運動になる、これはあるか、
ということになるが、これも結構ある。
事務所をサウナにすればいい。
腹筋バイブレーションを腰に巻けばいい、などなど。

だが、金がかかる。そこでいろいろ考え、調べた。
その結果、私は、イスのクッションの代わりに
空気を3分の1ほど入れたバランスボール、
1380円也を使っている。
これなら安く手軽と言う条件にも合致する。

これはイスに座ってパソコンのキーを叩くだけで、
不安定でゆらゆらする。これが全身運動になる。
3時間も座っていると腹筋がパンパンに張って、
お腹はすいてくる。

机から離れて、スクラップを作るといったときは、
先にふれた、かかと無しのサンダルを履いてやるから
これが、結構、いい運動になる、というわけだ。

だからこれで一日中事務所で仕事の日は、
座っていても運動、立っていても運動というわけで
一日中運動していることになる。

これが、冒頭に書いた、食パンとハムは、
作るハムサンドの数量に正比例する、
ということで、仕事量と運動が正比例。

その反作用が、腹が減る。食欲が増し、
結果的に太り出す、と言うことになる。

花粉症のお陰で考えついたことではあるが、
花粉症の対策は、未だもって出来ていない。
4年前尾碕雅裕さんから教えて頂いて甜茶を飲んだ。
効いた。だが、2年前から効かなくなり、
ベニフーキなんとかに、変えた。
これは私には効果なく次に紫蘇油。
これはうまくいった。
だが今年はその紫蘇油が効かない。
 
こんなことを繰り返していてはダメだ。
運動して、腹が減る。腹が減れば、余計喰う。
この反作用を、運動をすれば腹が満ちる
といったことにしないと、運動し、食欲が増し
余計に食べ、太ることになる。

これは、どうしても運動増えれば腹満ちて減量
こう持って行く必要がある。

花粉症にしたら、甜茶、紫蘇油と次々変えて
直らなかったいのであれば、意味がない。
いろいろやっても何もならない。

この正比例の連鎖を止める方策、または
できれば罹らない体質を構築する、
いずれかの反比例に持って行く必要がある

仕事柄、費用対効果を、常に考えてるわけだが、
この命題は、費用を最小で効果を最大にという
反比例関係を考えること。これがひとつ。
もうひとつは、費用をかければかけるほど、
そして望むらくはリバリッジ的な効果が得られる、
というシクミを創り上げる方法。
この2つが、考えられる。

だが不思議なことだが、この後者の方は
ほとんど手を付けられていない。
ならば、と私の関心に追加して、
考えているのだが、未だ普遍的な方法として
公表するには、至っていない。

作用と反作用

2008年03月20日 | Weblog
最近、運動過剰気味である。
やり過ぎのせいで、太る。これ反比例。

体重を減じる反比例を狙っていたのだが。

「なんでやねん?」


ハムサンドを作るとする。
作るハムサンドの数量が増えると、
使用する食パンとハムは、増える。これが正比例。
食パンとハムに投じた分だけ、
財布の金は減じる。これ反比例。

今、13冊の本を、読んでいる。
私は、速読法は知らないし、読む速度は遅いほうだ。
この13冊中2冊は、読み始めて3年経つが
まだ半分にも達していない。
6冊は2年越し。そのくせ、
一昨日買った本は、今日あたりで読み?終える。
これは、読みたいものを読み、その合間に、
気が向いたものを読んでいるためである。

本だけではない。
今、大急ぎの診断報告書の作成で忙しい。
だから、必然的に読書の量も増える。
この1週間で4冊も読み終えたのは、
診断書作成に飽きたら、読書するのだが、
たびたび、飽きがくるので、
読書量がどんどん増えるのは当然のこと。

これは、私が、正比例の法則を意識して
仕事、生活のシクミとしているからである。
 
ここ二日、暗い映画を見て、途中気が滅入った。
気分転換に、事務所のレイアウトを替えたくなった。

これは、これ以上滅入らないようにという気もあり、
またぼちぼち春バージョンという思いもあった。

映画をブックマークにして、机を動かし始めた。
思いつきで本棚とか、机を動かすのだから、
収まりが付かなくなった。
そこで止めてまた原稿を書いたり、映画を再開したり。

見終えたところで就寝。
重いものを動かしたお陰で、深い眠り。

今朝は、もう足の踏み場もない事務所のレイアウトを、
午前中かけて、なんとか収まりを付けた。

私は、昨夜のメモ、
「作用と反作用または正比例と反比例」
をもとに、この原稿を書いている。

長くなったので、ここまでを掲載し、
後半は、後ほど改めてUPしたい

花はパンツを動かせない-最終回

2008年03月19日 | Weblog
 前稿で、すべからく根本は、
 けして対立の「対」ではなく、
 対(つい)の関係。協力関係である、
 そう申し上げました。


 何度も書いていますが、一人一人の人間の脳力は
 もの凄い。それも天井知らず。
 ですが、一人の脳がものすごいのであれば、
 たくさんの脳を組織的に活用したら、
 もっと凄いことになる。

 そして、その脳力は有機的システムの中に
 あればこそ発揮できるものである、ということ。
 これが、組織の根底にある。私はそう思っています。

 どんなに自分が凄いと、自他共に認めていたにしても、
 一人より他の多くの脳を活用する方がより凄いことになる。
 また人それぞれが違い、得意不得意があるからこそ、
 相互に活かしあい、シナジー効果を発揮できる。

 他の多くと言うことは、数の多さもあるが、
 組み合わせの妙が、それこそ無限大に
 存在することになります。
 それも1つとして同じ組み合わせでない。

 だからこそ、その違いを、持ち味、得意として
 社会システムや組織の中で存在し得るし、
 貢献していけると思うのです。

 そうした方へ、方向性を向けて生きていくことこそ、
 ヘーゲルの弁証法でいう螺旋状の発展の法則、
 脳力開発でいう進歩発展志向の生き方ではないか。
 この 螺旋状の発展、進歩発展志向は、
 人にも企業にも例外なく通用する普遍の原理、
 といってよいのではと思います。

 私が、企業や人物を見るときの、
 ものさし以前の「ものさし」は、これです。

 庭の花が、咲き乱れるのも間近です。
 小さな庭が、花々で埋め尽くされる、

 毎春のことですが、
 通りがかりの人が、「まあ、きれい!」と、
 声を上げて下さるのです。
 その褒めて下さる対象物は、庭ではない。
 とっくに春を過ぎた妻でもありません。
 一輪の花でも、ないはずです。

 花々全体を、「きれい」と褒めて頂いている。
 花が喜んでいるか、花の気持ちはわかりませんが、
 明らかなのは、妻がいかにも嬉しそうな
 至福の顔をすることでです。

 物干し竿の私のパンツをみて、「きれい」と
 褒めて頂いたことはありません。

 幸せも、良い気分も、喜ぶにも、それにふさわしい
 客体の選択が不可欠であることが、わかります。
 選択されるもの、それを材料として、組み合わせて
 幸せで、良い気分、喜び得る、そうした「シクミ」を
 創り上げていく、仲間との楽しい営み。

 このことが、私たちが生きていく目標、
 私たちの企業の目標である。

 そう思うのです。 (了)

花はパンツを動かせない-3

2008年03月18日 | Weblog
太陽は、動く。
(いや、正しくはこちらの地球が動いているのですが)
日の当たる場所が東から西に変わる。
花もひまわりのように顔の向きを、
太陽に対応して変えてはいますが、
我が妻のごとく、洗濯物の場を移動させる、
といった選択と動きはできません。

変化に対応のこと。
縷々書いてきました。

対応する、対応しない。
ちょっとした対応、ちゃんとした対応、いろいろあり、
いろいろあるから「選択の余地」がある。
選択がいろいろあるから、
得られる結果にも違いがでる。

「選択によって違いが出るということ」。
このことに力を入れたくて、
くどくどと遠回りしてきました。

要は、
私の、この文章を読んでくださった方が、
良い選択の一つであったと喜んでいただく、
という結果を生み出すこと。
これが書いている楽しみで、書く目的であれば、
私は良い気持ちになれる、ということ。

そこから、この長話が始まったのです。

つまり、私が良い気持ちになる、
その結果を創って下さったのは、
大勢の方の選択の結果に違いない。
これを言いたかった。

そして、売上は、大勢の消費者の選択の結果
というのは、「ここ」に起因していると。

「私」と私以外の人たち
「作り手」とそれ以外の人たち
「売り手」とそれ以外の人たち

は、対(つい)の関係だ。協力関係なのです。

けして対立の「対」ではない。
そう申し上げたいのです。
(続く)


花はパンツを動かせない-2

2008年03月17日 | Weblog
 花にはできないが、人には出来る、この「意志決定」。

 その意志決定の「組み合わせ&積み重ね」が盛衰を決める、
と私は信じています。
 これは、
  1-一発の判断ではない、と言う意味
  お金持ちになるのも、宝くじを当てて一発で
 といったこともあるけど、これはどうかな、と言うこと。
  2-組み合わせは、一人での組み合わせもあるが、
 それより自分以外との組み合わせが重要、
 決め手になるのでは、と言うこと。
  3-この「積み重ね」には、継続、し続ける、という要素と、
 線香花火やシャボン玉では、
 考えたこと、やったことが堆積していかない。
 ここは信頼の梯子かけみたいなものでなければならない。
 それも螺旋状(スパイラル)だと思う。
 毎年、毎月、毎日同じような風景をみて過ごしているようが、
 実は進歩発展している。そんなイメージがスパイラル。
 螺旋階段、或いは山をぐるぐる回りながら上っていく観光バス。
 
 こうしたニュアンスを一切内包して、
 私は「シクミ」と言う言葉を使っている。

 期する成果を得るためには、
 そのための「組み合わせ&積み重ね」、
 すなわちシクミを脳に構築すること。
 これだ、と思っている。

 以前書きましたが、
 豆腐を作るには、豆腐ができるシクミが必要。
 豆腐を作りたいのに、ところてんをつくるシクミは
 代用にすら成りがたい。

 このシクミがなかったら、何が出来るか。
 出来たところ出任せ、になってしまう。
 シクミなしでは、豆腐、ところてんだけではなく、
 思考もモノ、サービスもまともなものは生産できまい。

 人生は、選択の「組み合わせ&積み重ね=シクミ」による織りなしで
 生成されていくものだ、と私 は思っている。
 だから本来、進歩発志向なのは当然です。

自分の選択の結果を、自分だけで喜ぶのもいいが、
 「君のお陰でたすかったよ」、
 「いやぁーっ、嬉しいね」、
 「おかげさまで。感謝しているよ」

 と、自分以外の人から賞賛されるのはもっといい。
それは、自分の意志決定の「組み合わせ&積み重ね」の結果が、
出来るだけ多くの方々の選択が、間違いない「良きもの」に
結実してこそ自分の仕事の成果、という結果を得ることになり、
それでまた、さらなる「積み重ね」の意欲が生じて、
螺旋状(スパイラル)にステージが一段上がることになる。

これが、私の描いている仕事のイメージです。
花には意志決定は出来ない。だから場を選べない
だが人は自らの意志決定で進歩発展でき場を選べる。

 妻は、乾いていない洗濯物を、西側に移しました。
 花はそのままです。久しぶりの太陽ですから、
 もっと欲しかろうに。(続く)

花はパンツを動かせない-1

2008年03月15日 | Weblog
朝から良い天気だ。

妻は、朝の工程を変えて、
今朝は、調理の前に洗濯を選択した。

その結果、私のL寸のパンツやシャツが、
花たちの上を覆っています。
花には、はなはだ迷惑でしょうが、
それを自らでは避けることは、
はなから出来ません。

花の運命でしょうか。
でも人にも同じ人はいるのでは?。

これが、本稿を書き始めた動機です。


このブログを選び、そして今書いているこの文章に
目を通すか、通さないか、そうしたことは、
日々、刻々、瞬時瞬時の
おびただしい天文学的選択肢の中の一つ。
選択だから無意識にということはあっても、
厳密には、偶然の選択はない。

今、小さな食品店の店頭で、レジ前の棚にある
16種のチュウインガムの中から、1個が売れた

といったことは、作り手、売り手から見たら
別にたいしたこともないことだろう。
といった意識。あるいは多分にそうした意識すらも、
考えることもない当たり前のことと思うだろう。

こうした1個の売上は、一人の消費者の選択によって、
選ばれて、それが総和され、今日の売上が立ち、
それが自分たちの月給の原資になっているなど
考えても、いまい。

選択の結果、その選択の結実が、この今の状況
と考えることは、実に重要である。
それは、今からの選択によって望むべき結果を
得られることの確実な「証明」だからである。

このことから、過去は変えられないが、
こちらに向かってくる未来が結実したものは
変えられることが、仮説として言える。
 
そこでこの仮説を実証してみた。
妻が先週の土曜日に作ったカレーが、まずかった。
妻も珍しく「このカレー、まずいよね」と同感した。

二人がかりで悔やんだとしても、
「覆水盆に戻らず」だ。どうしようもない。

そこで昨夜は、妻はカレー粉を変えてみた。
今度は実に美味かった。
先週のカレーがまずいのではなく、
「まずいカレー粉」を選択した、まずい選択が
まずいカレーの因と言うことが、ほぼ実証できた。

これを、私にから見たら、
カレーを食べない、妻を取り替える
妻にしたら、
豚肉を牛肉に取り替える

といった後から間違いとわかる選択を
しなくてよかった、ということになる。
ということを意味する。

だが、今回は、たまたまかも知れない。
たまたまといった選択肢は存在しないから、
次はタマネギ、その次はご飯、次は肉
こうしたものも検証しなければ
カレー粉が理由だったとは言えないのだ。

私たちは、売上の起死回生を期するときに、
どこかに奇跡を期待している。
従業員の努力を期待します。

しかし多くは奇跡は起きず、努力も虚しく、
「これまで」が続くことになる。

それは、起死回生もまた日常の中の
小さな意志決定、その選択の組み合わせと
積み重ねで具現しているからです。

だから「うまくいかない」ということは、
「おまくいかない」やり方を選択していて、
うまくいくという、それを押さえた対策、
アプローチを選択してない、ことになる。

花にはパンツの位置を動かせないが、
人には、出来る。愚妻にも出来る。

だが、花は出来ることをかまけないが
人は、かまけることが出来る。

以下、次稿。

睡眠仕事

2008年03月14日 | Weblog
昨夜は、五味川純平原作、山本薩夫監督の
「戦争と人間」をみた。
この日は3部作(9時間)の前編だけ。

たしか3度目だが、見たということぐらいの記憶がない。
2回目は、学生時代に、土曜日夜ぶっ通し、新宿シネマの
オールナイト上映だったか。

その記憶すら怪しいから、
初めて見るのと変わりがない。

ついていることに、この日は愛飲日。
肴は、おもしろい映画が一番良い。
必然的に焼酎の度が過ぎた。

第一部を見終わった1時頃には、
一人酒に酔っぱらっていた。

映画の中程で、満州事変の首謀者、河本太作が登場。
それで彼と中国の牢獄で一緒した師の城野 宏のことが
頭に引っかかり、気になった。

見終えたあと、知っているつもりの
師を知りたくなり、検索にかけ、1時間ほど調べた。
就寝2時過ぎ。


夢を見た。
第一部は、父母から、えらく叱られているシーン。
それに切れて、私が言い返している。
その激しさに、父がたじたじ。私はここで目が覚めた。
トイレに立ち、またバタンキュー。
続きを見たかったが、次に見たのは、別のもの。

第二部は、今年の9月、長崎・佐世保で開催される
実践経営学会全国大会で、私が企画、担当する
フォーラム「長崎観光、内から外から探る」のこと。

なんと、パネラー4人の役割、発言の概要、
コーディネーターの私のセリフまで含めて、
シナリオ、会場からの発言、微細まで夢に出たのだ。

九州支部長の村上先生から拝命受けたままで、
まだ間があることもあり、テーマだけを決めて
放置していただけなのに。

2本立ての夢をみることは珍しくはない。
だが、これまで内容どころか、
何を見たかも記憶していたことなどない。

それが、珍しいことだ。
もっとも1本目は、亡き両親に逆ギレした
最後のシーンだけしか覚えていない。

だが2本目は、朝目が覚めてからも
鮮明に細部まで記憶していた。
実に稀有なことである。

6時に目を覚ました。
頭は冴えている。

夜更かしの影響なし。OK!
二日酔いの影響なし。OK!

急いで事務所に行って、紙に2本目の夢を復元した。
これで、9月の舞台のシナリオは、完全に出来た。
ジョークあるいはまじめな話として、
睡眠学習は聞いたことがあるし、経験もある。

これはなんと言えばいいのだろう。
「睡眠仕事」????


7時半。ボランタリーのリサイクル。
そして自治会の仕事を9時までにかたづけた。
夢の中で一仕事が片付いてしまったので、
ものすごく得をした思いがし、気分が最高。

一方、なんで?なんで?といつもの、
理由を知りたくなる怪訝癖が頭を占め、
これを解く楽しみが加わった。

これが普遍化、ルール化出来れば、
寝ていて仕事が出来る。
凄いことになる、と真顔で思っている。

南の国から、北の国のMさんへ

2008年03月13日 | Weblog
倉本 聡さんの「北の国から」を頭に浮かべています。
以下、「南の国から」北の国のMさんへの
お便りの一部です。
            *

行き付くところ、「信頼、信用」、これに陰りがでると、
対人関係、交渉事、取引といったことに、どこか陰りが
出る、という仮説が頭にありました。

でも、これではテーマとして暗すぎるので
少し大胆に、「信頼、信用」が、これらがうまくいく
必要十分条件ではないかという仮説の表現を変え、
これを探求して参りました。

このことによる最大の収穫は、何により、だめな自分が
誤りを糾され、磨かれ、成長できそうな気がすることでした。
我ながら、いいテーマだった、これならもっと早く、
といった気もしないではないですが、後半でも遅くはない、
自分で楽しみながら研究していけそうと喜んでいます。

それに、「信頼、信用」という抽象度の高いテーマを設定した
お陰、ほんとうにそう思うのですが、今の経営が、「経営」と
いうものにいかに拘束されているか。その結果、枝葉末節の
技術、テクニックといったものの広がりに太陽をふさがれ、
視界を遮られ、幹を見失った状態であること。
そしてまた経営という言葉に経営自体がいわれのない縛りに、
制約されているかが、わかってきました。

この収穫は、私にとっては大きいものでした。
今の経済、あるいは経営に陰りがあるとすれば、
ここにあるのではないか。
拡散しすぎて幹、根本が見えなくなった、
この状態の中にあるのではないか。
そうした新たな仮説に出会えたのですから。

私は、「機会損失」と言う言葉を、これに当てて、
よく使っていますが、ここにものすごい、巨大な
損失が生じているのでは、と思ったのです。

昨年、せっかく旭川にお招きいただきながら、
あの混雑で、行列の中に並べず、旭山動物園の実際を
見ていないことが悔やまれます。
それで、TVのビデオやDVDを、見てみました。
そんないわば、聞きかじりでのコメントということで
許していただきたいのですが、それらをみて、思ったことが、

上に書いた
「経営は縛られている」、
「私たちは、束縛され、囚われている」
といった2点です。

「旭山動物園の集客力は、単なる話題性ではなく、
動物の本来の姿を見ていただくと言う、基本的な考え方が
園長初め職員がコンセプトを共有化しているからでしょうね。
これがナレッジかな」と、

Mさんが書いてくださったことに、思わず
「そうなんだ、そうなんだ」
と、膝を打って、その足でもいちどDVDをと、
ツタヤに足を運びました。

 ナレッジか。そうなんだ。語彙が少ない私は、
この「ナレッジ」に関しても、後追いの同感です。

よく経営者に申し上げていることですが、
共感、共有を消費者に求めたり、訴求するのではなく、
作り手、売り手、自分たちが、いかに消費者に共感できるか、
どれだけ消費者の思いを、自分たちの五感でもって
受容できるか、共有できるものを得られるか、

ではないか、というのですが、「同じことではないか」と、
流してしまう人が多いのです。

此方(こちら)を知ってもらう前に、相手を知る、
ということに本質がある。このことを
理解していないところに、
共有も共感もないではないか、と思っています。

その意味でも、「売れシク研」は、まだ、
少しも前に進んでいません。
「ヨウイ、ドーン」とかけ声をかけたに過ぎません。
生まれたばかりから、前に進んでいません。

でも、目指している方向には、間違いがない。
不遜かも知れませんが、その思いは間違いがない
正しいとMさんのこのメール、
そして旭山動物園のことで確信できました。

幹が掴めたら、これから自然に枝を伸ばし、
葉を付けていけばいい。
と今、穏やかな気持ちでそう思っています。

このメールで、こんなにも貴重な
触発を頂きました。心より御礼を申し上げます。

南の国、鹿児島の春も啓蟄を経ても
まだまだのようですが、
北海道の春は5月とききます。
長い冬の後半、どうかくれぐれもご自愛ください。

追伸:必ず旭山動物園へ行きます。
   Mさんが在職中に実現したい。
   それもあの富良野に
   ラベンダーが咲き乱れる頃に。                                敬白   

揺れ

2008年03月12日 | Weblog
公民会長連合会の会長職を
4期も務めた愛甲さんが、引退する。
後任に私の話が上がっている。
私が、来期も上野自治会長を続ける、ということを
おりこんでの話である

自分の集落の自治会長のこと。
これだけならだれもやり手がないだから、
やろうと心づもりしていた。
いやいやではなく、「喜んでもう一期、二期はやろう」、
と4日までは、そう思っていた。
だから、役員改選のある10日まで、後任について、
これまでみたいに根回しなどの心配も、
必要ないと思っていた。

4日、鹿児島に行った。エキスパートの会である。
新しい年度から委嘱を受けるある仕事のことで、
関係機関の友人から、事前情報を得ておきたかったので、
その会の後、その友人に会った。

結論は、兼職はとうていできない、と言う思いだった。
やるなら徹底的にやりたい方だが、自治会と、仕事の両立は、
何とか不器用な私でも、これまでもやれてきたし
大丈夫だと思っていたが、友人から話を聞いて
引けた。

 会長を続けると、会長会の会長も逃れられなくなる、
これは「仕事」に専心の択一をせざるを得ないと思った。

手抜き、気抜きでは、忙しい中、
軽くはこなせばなんとかなる、といったことでは
すまない意義のある仕事だ。
択一といっても、どちらを選ぶかに迷いなど有るはずがない。
意義がある、私でなければ、と気負い立つ、やりたい、
やらねばならない仕事は、今のこの仕事だ。
迷いなどあるはずがない。
問題は、「選択しない方」にある。自治会の後任のことだ。

本来なら、今の副会長だが、サラリーマンで、
しかも鹿児島市へ通勤している。夫婦共働き。
以前から、会長は絶対に出来ないと言い張っている。
ではだれが。

とりあえず長老の一人、佐久間翁に相談に行った。
81歳、元教員の彼は、理解してくれた。
だが後任の話になると、私と一緒で代わりに
当てがあるはずがない。
年寄りと寝たきりと、家のローンを背負った
新しい住民だけの集落である。
候補者は、全部で3人しかいない。
その3から私と副会長を引くと1。その1人は私の前任者。

「私の」任期は、無事終了。では失礼」ではいかない。
正直なところ、押しつけられて
嫌々ながらでは、やれないし、やって欲しくない。

条件を付けなくても候補がいないのに、
佐久間翁も私も、こんな条件を付けてあれやこれやで、
結論が出ないまま、また後日ということで別れた。
後日になれば解決することでもないのだが、
次はやれない、という噂を流して欲しい、といった
期待もある。

あと2-3人回るつもりだったが、
明日にすることにして、帰宅。
4月からの新しい仕事の下準備に入った。
こうした迷路を解くのも、新しい、いい仕事への下準備。
 

ここに機会損失

2008年03月11日 | Weblog
将来(さき)をみて、今手を打つ。
情勢判断学は、師の城野 宏が提唱した
情勢を読みとるための考え方の理論、
実践手法である。

最盛期は、全国に会員が大勢いて、
多くの県に支部もあった。
鹿児島支部では、
私が世話人をさせていただいた。

師の死後
情勢判断学を口にする人たちを
見かけなくなったのは、寂しい。
が、私は、これは残すべきもの、
いや、拡げていくべきものと思って、
今でもタノウエ脳力経営塾のメンバーと
ともに勉強を続けている。

あるスーパーのこと。
チラシの頻度が増え始めた。
それも激安に始まって、100円均一セール
といったチラシが頻繁に撒かれる。
これは、倒産の兆しだ、とメモを取っておいた。
予想通り、今回のチラシは、完全閉店売り出し。
メモをしたのは4年前の3月初めのこと。

決算書など数字を見たわけじゃない。
結果を見て判断するのは、
手品のネタバレを人に披露、
悦に入っている人と同じ。

情勢判断学は、心を形と動きで、
その兆し、前兆を読む、脳力開発を活かした
考えと技術である。
だから、私はそんな馬鹿なことはやらない。

子供でもできることで、つかんでいるのだ。 

人が買えば売上になる。
その数が増えているかどうかで、
上がっているか下がっているか、
だれでもわかる。

人の心の動きは、お店で言えば、
チラシ、宣伝広告の有り様、売り場に必ずでる。

それに時系列で見ること。
たとえば、宣伝コピーが、回を追うごとに
過激になっているようであれば、
苦しい証。
それも値段を落としても売れていないのだ、
ということになる。

子供でも、と上に書いたのは、
足し算、引き算、かけ算、割り算の算数レベルと
時系列で、つかめるからである。

要は、大まかでも起こるべき、
来るべき結果、結論を、
先に読みとることが出来れば、
それによって防げる機会損失、身の災いは、
計り知れない。

情勢判断ができるかどうか、
その違いは巨大だ。