花粉症とは、「人間(私)は、体内に異物がいると、
それを排除しようと免疫反応を示すが、
(最近の私は)、
花粉を異物として反応し、その結果、鼻、目・・・」
ということだ。
「花粉を異物」、すなわち、異なる意見は、受け入れない。
異見の主は的、他宗派を受け入れない一神教、
他民族を排斥する順民族主義が、
この私の身体にあるということか。
あるいは脳が判断ミスしているのか、
いずれにしても問題は花粉にあるのではない。
では、だれが?。それは私が、だ。
私の心か身体かが、花粉を敵と見なして敵対行為して、
応援兵(甜茶、紫蘇油)を頼んで、戦いを拡大している。
なんということはない。
私が問題だったのに、相手(花粉)に問題あり、
とした私の判断ミス、その姿勢のまま、
それを元に花粉問題の戦略を考えた、
この未熟さこそ、問題を大きくした根本なのだ。
相手を敵と見るのと、そうではないのと
相手が危害を加えていると思うのと、
そうではないのとおもうのでは
180度、対応が異なる。
このことは、私にとっては、
「花粉症が私に気づきを与えた」などと、
聞いたようなセリフで軽く流せない
私の浅さを突いた大きな反省課題である。
同時に、大きい再発見である。
花粉症のこと、現に今朝もキツイ症状なのだが、
そもそも私の戦略が誤りとわかったことで、
私の心中は晴れ晴れとしている。
「これ」を改めれば、
戦術はいくらでもある。
だから、シクミ作りを一からやり直せば、
時間はかかろうが、まず解決できる。
その見通しがある。
サルも木から落ちる、と言うが、
戦略に関してはプロと自認していた私は、
このサルにも劣る。
このサルの落下原因は調べていないが
私のほうは根本的な未熟さが原因。
このサルと私に共通するのは、
当たり前のこととを軽視した慢心ではないか。
だが、「サルものは、追わず」ともいう。
猿はともかく、私は落ち込みは引きずらない。
次の課題が与えられたのだから、
今から早速、脳力開発の研鑽に努めたい。
それを排除しようと免疫反応を示すが、
(最近の私は)、
花粉を異物として反応し、その結果、鼻、目・・・」
ということだ。
「花粉を異物」、すなわち、異なる意見は、受け入れない。
異見の主は的、他宗派を受け入れない一神教、
他民族を排斥する順民族主義が、
この私の身体にあるということか。
あるいは脳が判断ミスしているのか、
いずれにしても問題は花粉にあるのではない。
では、だれが?。それは私が、だ。
私の心か身体かが、花粉を敵と見なして敵対行為して、
応援兵(甜茶、紫蘇油)を頼んで、戦いを拡大している。
なんということはない。
私が問題だったのに、相手(花粉)に問題あり、
とした私の判断ミス、その姿勢のまま、
それを元に花粉問題の戦略を考えた、
この未熟さこそ、問題を大きくした根本なのだ。
相手を敵と見るのと、そうではないのと
相手が危害を加えていると思うのと、
そうではないのとおもうのでは
180度、対応が異なる。
このことは、私にとっては、
「花粉症が私に気づきを与えた」などと、
聞いたようなセリフで軽く流せない
私の浅さを突いた大きな反省課題である。
同時に、大きい再発見である。
花粉症のこと、現に今朝もキツイ症状なのだが、
そもそも私の戦略が誤りとわかったことで、
私の心中は晴れ晴れとしている。
「これ」を改めれば、
戦術はいくらでもある。
だから、シクミ作りを一からやり直せば、
時間はかかろうが、まず解決できる。
その見通しがある。
サルも木から落ちる、と言うが、
戦略に関してはプロと自認していた私は、
このサルにも劣る。
このサルの落下原因は調べていないが
私のほうは根本的な未熟さが原因。
このサルと私に共通するのは、
当たり前のこととを軽視した慢心ではないか。
だが、「サルものは、追わず」ともいう。
猿はともかく、私は落ち込みは引きずらない。
次の課題が与えられたのだから、
今から早速、脳力開発の研鑽に努めたい。