経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

考えが違うから、皆、友達」

2005年05月09日 | Weblog
 ある大学でのこと。研修を終えてアンケートを採ったら、班編成方式は撤廃し、一人でやる方がいいのでは、という意見が出たそうだ。MMAPのことではなく、大学のゼミの話である。共同研究は妥協の産物になる。1人が1テーマで、最初から最後まで個人作業の方がいい、というのである。

 人は皆違う。1人の考えが、全体、絶対でない。同時に全体は、個人の考えの総和ではない。
個々違うものを、1つにまとめることは、物理的な圧力でもかけない限り不可能に近い。だから民主主義国家では、そうした無理なことをやらないで、「多数決」にしている。だから、どうも国会で満場一致が続くと、うさんくさい感じがしてくるのである。

 だが、それぞれの違いを並列ではも困る。せいぜい優先順位でも付けてくれないと、実効性が失われ無意味だ。
 そういうことで妥協点を見いだす、という意味ではなく、徹底的に議論をして、皆で一本化ではなくそれに近いものを創り上げる。これを妥協の産物という。そういう人は、哄笑ないしは苦笑いしながらそういっているのかも知れないが、私は社会だと思う。

 ゼミや研修でも5人なら5人のそれぞれの個性を生かしつつ、5人分の総和でない新たなものを創り上げる。ここに私は意義があると思っている。

 川内駅に行く途中に、100余年の歴史を持つ平佐小学校がある。校門に大きな看板が掛かっている。「考えが違っていても、皆、お友達」
 その通りだ。
 これを少しいじって、「考えが違うから、皆、友達」。

営業の仕事・私の仕事

2005年05月08日 | Weblog
お願いすると媚びになりますし、無理して押しつけると強制になります。それを超えると、「脅迫」で、犯罪になります。営業は、買う買わないを相手の選択に委ねる、ここまでが領域です。
 
 なぜなら無理や強制は、次の購買の阻害要因になるからです。何事でも、「し続ける」という命題がありますが、営業にはその視点が抜けていた。無視していた歴史が長かったのです。だから営業マンの勤務寿命は短く、転職が多かった。使う方からみたら、使い捨て。
 またそのことが、今の「売れない時代」を招いた大きな要因の1つになった、といえましょう。

 生きている事自体、「引く」ではなく「出ている」に属しますから、それに逆らっての生き方は万有引力を敵に回すに等しい。自然を対応し活かすることに、生きることの基本があるのです。

 「だから営業は、やはり押せ押せ、積極的に、ではないか」ということとは、本質的に異なる。なぜなら自分の押せ押せにより、相手がたじたじでは相手は逃げだし、かりにそこで成約できても、リピートがきかないからです。ですから微妙な違いですが、全く異なるもの、という理解が不可欠なのです。

 営業には、「手を相手に渡す」ということが大切です。それは手を渡した時点で、相手が「快諾、これからも君に頼むよ」ということが確立されたなかったら、出来ないことです。ここに真の営業の奥深さがあるわけですが、皆この奥へ踏み込めない。
 それで、やっていることは、空の缶詰をどうしたら売ることができるか、といったテクニックのお勉強か、「がんばり、努力、根性、粘りが足りんぞ。それいけどんどん」といった特訓道場。セールスや営業の教育は、そのどちらかでした。

 缶詰を買って、中が空だったら、消費者は皆怒る。だが、「役立つセミナーだよ」といって役立たなかったとしたら、怒る経営者は、まず少ない。
 飲みに行くと言ったら、妻はいい顔しないが、勉強会へいく、ということなら文句は言われない、といったことでセミナーが大流行。
 
 まじめな経営者でも、そのセミナーが、成果に結びつかなくてもあまり気にしない。引いているというか諦観の境地か。中には、無意識あるいは意識的に、行動したくないための口実、あるいは現実逃避のためにお勉強に夢中になる人も結構いる。彼らにとっては、成果が出るということは、現実に戻ることを意味するから勉強をやめることはむしろ恐怖になる。だから次々勉強して回る。こうなるともうセミナー病。やめると不安で禁断症状まで出る。
 
 講師の方も同様。なかには「実行しないことを前提に」といった話をする人もいないとはいえません。実践を前提ではなく、知識だけを与える講師もいるでしょう。

 さて、かくいう自分のスタンスはどんなんだ、と言うことですが、これが私がこの仕事に入ってから目指している課題なのです。それでもう20年もの間、長く自分を問いつめてきました。その結実を、名古屋で5月21日から月1回,5回シリーズで行う「カムサ 真・商人塾」http://www.kamsa.cc/kamsa_keiei.html で出してみる覚悟です。

 その概略を簡単に言えば、参加者に1つの試み(疑似事業)をやっていただき、その成果をセミナー最終日に決算する。その決算に如何が、私のセミナーの成果如何になる、ということです。

 このカムサでのセミナーでは、1に成果を出す。1にMMAPを体得。1に脳力開発の真髄をつかんでもらう、の3つを目的とする。その狙いは、次で述べます。
 
 鹿児島の昔からの言い伝えに「泣こうか、飛ぼか。泣くより、ひっとべ」という有名な言葉があります。飛べるか飛ばないか悩むより、飛んでしまいなさい、という教育訓話?です。
 私の専門の、脳力開発でいう脳のシクミがそうなんです。やらないこと=動かないこと=死、を意味する。行動することが根本なのです。
 
 考えることは、行動しないことを意味します。先に、経営者の勉強、セミナー好きが実は行動先延ばしの口実、といったのはそういう意味です。

 倒産した経営者は、表向きは放漫経営などと言われますが、私からみたらどうしてどうして、みな勉強好き、セミナー好き、D社の元会長N氏などその典型例。

 経営者にとって、経営の勉強は手段のはず。それが目的化し、本来の目的を失い、経営をダメにする、といったことは結構多いのです。参加された方には、そんな馬鹿なことをやってほしくないと申し上げたい。経営を成すのに、よけいな回り道(知識もセミナーも勉強も視察も含めて)しなくてもいいよ、とも申し上げたい。

 青い鳥のチルチル、ミチルが探していたものは、こんな手近にあるんだ、と気づいてほしい。
 私は、なにも教えることはしません。そんな必要もありません。私がやることは、「皆さんが自分自身で正しい(=売れて儲かる)経営判断を出来るようにしていただくことです。 

 師の城野 宏から「営業の仕事は、営業がいらなくても売れてしょうがないようにすることが本来の仕事」とたたき込まれ、それが私のライフワークになり、今日まできました。

 5月21日から、私は、今度は自分で立てた自前のライフワークへの新たにチャレンジを始めます。それは「私の仕事(経営指導等)を、必要としない企業を創ること」です。翌22日、62歳になる予定(^_^)ですから、30年以内に30社ぐらいまではやる決意です。


「五月蠅い(うるさい)」

2005年05月07日 | Weblog
 五月にはいっても、最近は蠅をみることは少なくなった。
だが、自分が楽しいことやっているときに声をかけられたり、別のことをやらね
ばならない、こうした五月蠅いことは、むしろずいぶんと増えているのかも知れ
ない。

 商人は買ってもらうために、しっこくつきまとう。声をかける。それが五月
蠅い、煩わしい、という消費者ニーズが、無人販売という新しい業態を作った。
 無人であることが、「(セルフ)サービスのひとつ」ということは、店主の顔な
どみなくてよい。声も聞こえぬということが、サービスというのだから、商人にとっては侮辱。心ある商人なら怒らねばならぬとおもうのだが。

 それはそうとしても、そうした嫌われる接客を、人件費というコストを投じながら、未だ続けている店主の経営センスというか金銭感覚は、どういうものなんでろうか。私には、それがふしぎでならない。ブロブにも書いたが、お客が店には入ろうとすると、ずかずか近づいてくる店員を見かけることは珍しくない。
 そのあれである。

 彼、彼女らの仕事は、消費者を蠅と見立て、蠅を追い払うのが仕事なのだ。な
ぜか。蠅は五月蠅いからだ。商品を傷める。ましてや人間なら万引きするかもし
れない。追い立てなくてもどうせ冷やかしだ。冷やかしでなく買ってくれたとし
ても、自分たちの給料がナンボ上がる訳じゃない。それより同僚と昨日の子供の
日のこと、おしゃべり、じゃまされたくはない。
 「ちょっと待っててね。チカちゃん、今度は私が追い立てるわ、、、。」

 JR西日本の、社員たちの意識も、そうしたところにあるのではないか。
 今やっている楽しいボーリング、宴会。温泉、この楽しみを疎外するものは、
みな五月蠅いことと思っている人たちなのだった。
 だからあの大惨事も五月蠅い蠅に過ぎなかったこと。ましては他の地区の蠅のことまで関わりたくない。
  こうした、人が人をわずらわしい蠅としか思わない、そうした人たちの大集団が、あの大惨事を生んだ。 

お断り:この原稿は他のブログ「奔るジャッドンたのうえ追っかけ帳」http://plaza.rakuten.co.jp/jatsudon
にも掲載させていただきました。

大器晩成

2005年05月06日 | Weblog
 本来、人は足りているものでなしに、足りないものを求める。これが当然ですよね。この考えから「単品管理」も出来ている。

 時々、こうした仕事を通じて不思議に思うことは、経営者の多くは足りているものを欲し、足りないものを拒絶しがちなことなんです。

 会議がそうでしょう。「ごもっとも」、「社長のご意見どうりで」を喜び、違う意見だと「そりゃ違うぞ!バカ」。趣味まで自分と同じ人を周りに寄せ、反対意見を述べる人を敬遠している。
 このことは、私の本「羊たちの探しもの」http://www.geocities.jp/jatudonka/に書いていることですが、「だからこそあえて、諫言者を左右におく」。
 
 歴史をみると、これが国の経営、政権の長さを決めている、と断定できるようです。
 甘言を欲刷るが故に、あえて諫言を求める経営者でないと、成長が続かない。これで栄養のバランスがとれないからですね。成長しない経営者がやる事業は未成熟のまま、ダメになるわけです。

 早い成長のためには、車とおなじでブレーキはむしろじゃまになる。諫言者はブレーキになる。しかし成長は早さではない。一言で言えば、人も経営も大器晩成、終わり良しだと思うのです。
 
 熊本・白川中学の卒業式の後、友達と藤崎神宮へ行き。易者に占ってもらったとき、「君は、大器晩成」、と言われました。これが暗示になったのか、安心しきって、「あすなろう」と怠け、先送りして来たようです。ところが還暦過ぎても、「あすなろう」は檜にならない。
 今頃になって、やはり大器晩成のためには、成長期に人間的幹を大きくしておくこと、と怠けてきた自分を後悔しているんです。

 事業も、まずは停滞・愚鈍に見えても、今は幹を横に伸ばす。ゴーイングコンサーンのためには、幹を大きくする、大きな根を張ることを優先。大勢の消費者に支えてもらうには、横に広がっておかねばね。

 企業は横に伸びないのは、経営者がこぞって、上に上にを目指し、横に伸びることを、どこかで「怠慢」という意識がある。

 それにはまた、経営者が人間的に横に伸びていませんと、大器晩成にならな。というのが、私がこれまでやってきた経営革新の中間報告です。
 

「支えられる」

2005年05月04日 | Weblog
 自分は一人です。一人のエネルギーも時間も限りがあり、知れています。もっとこのことの意味するところを押さえて生きるべきではないか。GWを一人で過ごしながら考えた。

 たとえば何かの計画を立てようとするとき、何気なくWEBのナビをクリックする。ホリエモンを批判してはいても、ここでは自分がお世話になっているわけだ。

 かりに「自分一人では何も出来ない」と断定的に決めつけてみるといい。そうしたら「他者に支えてもらわにや、何にも出来んわな」ということが、理解されるだろう。
 その支えは妻一人より、他の有能な社員3名、取引先も1社より14社が有利。ここに規模の論理が出てくる。(このことは大きくなることが目標ではないこと意味していることも、ここで確認しておく)。
 こうして支えが、増えることが、「出来ることの広がり」になる。

 つまりは支えてもらうことが、盛衰の根本にある、ということである。国家が典型的モデルである。国家は支配論・搾取論の観点からとらえがちだが、王が王たるには、民が不可欠である側面を忘れてはなるまい。これに気がついたのが、商の国を創業した湯王。「民ありての王なり」と叫んだ、とされる人だ。これの延長に「民主主義」がある。あなたの企業、組織がある。

 話がそれた。私たちはなぜか、「俺が、俺が」といい、「俺がやらなきゃ、誰がやる」のいったように粋がる。ときには他者の介入を敬遠する。人は人財と叫んでいたコンサルが、リストラの本を書き、そして今、人財不足を嘆く。彼らが、自分が生きるために変節するのはとやかく言ってもしょうがないこと。だがそれで本質的なものが変わることにならないことだけは、はっきり言える。

 そうした変節・迎合に振り回されて、「人に支えられるという本質・根本があって、それが組織、経営の本質」だ、ということが揺らぐようであってはならない。

 支えてもらうにはどうしたらいいか、といった考え、戦略を欠いて、経営の問題はあり得ないのことを、もういちど確認しておきたいのである。


甘い芥子

2005年05月03日 | Weblog
脳力開発のセミナーで、必ずお話しすることですが、行動するとうまくいくか、うまくいかないかの2つのうち、どちらかである。これは10円玉を投げると、表か裏か、どちらかがでる。それだけの話だ。だから失敗という言葉はなじまないのだが、言葉の都合上そういう記号を付けた、とみたらいい。
 
 ここでは失敗を、私が好きな芥子と呼ぼう。芥子そのものには何の問題もない。ですが芥子を辛くないようにしていくと、それは大きな問題になる。(択一の対象から外れてしまう。このことは存在そのものの否定になる。詳細は省く)。二度と立ち上げれないものになる。

 S工業の塩さん、ヤオゼンブのWさん、それにITの、板意さん等々の共通は「失敗を売り」の講演を大手セミナー会などではじめたこと。
 最初は芥子でしたが、だんだん甘い芥子になって、やがてその芥子の苦みは無くなってきた。もうだれも、そんな芥子など必要としなくなりました。

 自分の大切な芥子は、自分の中で、一番辛いときのまま保管しておくべきだった。それでこそ芥子の値打ちがでようというもの。だが、それに耐えきれなかった。

 喜びは拡散しなければ、妬みを招きます。
 辛さは保管しなければ、奢りを招きます。
 
 自分で保管し、臥薪嘗胆として一人で、時折嘗め嘗めしてこそ、芥子の値打ち。
 辛い話は、みな頭を縦にフリ、ときには額にしわを寄せ、ときには涙を流して同調してくれ、それは甘美すら生みます。
 しかし、心は別の所にあります。(ブログのどこかに書いています)。

 人は人の不幸で幸福を覚え、人の幸せで落ち込むもの。これは自然なのです。お風呂に入ってなぜ、暖かく感じるか。自分の体が冷えているからですね。コレと同じです。

  絶対幸せは、神の世界だけ。人は哀しいことですが、相対幸せなのです。

 ここで冒頭に戻します。やれば、うまくいくかいかないかどちらかだ、と言いました。
 では、うまくいかないことをおそれて、やらなかったら、という問、疑問があります。
 多くの人は、やったらうまくいかないこと(失敗)を恐れ、案じ、メンツをイメージし、「やらない」。

 やらないことこそ、繁栄の原則の反対概念、生の反対概念、滅、死を意味します。
 これでおわかりでしょう。失敗は、繁栄の範疇、生に内包されもの。
 
 芥子の苦さは生きている証。
 これが苦くなくなったのは、芥子が甘くなったんじゃない。
 あなたが、甘くなった証。無意識に死を選択している証。

 
 

 

私の願い

2005年05月02日 | Weblog
以下の文章は、このブログを通じて、私の本やビデオを購入くださった小川さんとのやりとりで触発を受け、生まれたものである。小川さんの会社HP; http://www.re-live.com/index.html。心から感謝したい。


事業も形。その形は経営者の心が形となったもの。その意味での形は、メールでもHPでも、同じ。心は見えませんが、形は見える。ところがこの形は、心とは無関係に、見栄えのいい形のものを作れるのです。その専門の人が詐欺師、あるいは粉飾やる経営者、そうそう政治家の一部(?)。
心と形はイコール、少なくともそれを目指すしているか、どうかは、時間軸、場による格差などの指標でよく見たらわかると思います。前者は、同じ人と長くつきあい、じっと追っていたらわかりますよね。後者は、人前で優しく、従業員には威張るといったように、「場」によって態度が違う、といったことです。

皆、成功を目指す。これがそもそも間違い、問題の根源だと、私は思います。企業は、人もそうですが、目標は成功ではないはず。繁栄し続けること。幸せの金太郎飴を作る、といったことだと私は定義しています。

 中内さん、今、だれも成功者とは言わない。和田さんもそう。堤さんもそう。心と形の粉飾、乖離の分だけ、いいときからの落差が大きいことになります。


 事業の成否の根本は、自社や己の努力や能力ではありません。その証拠に戸板に乗っていかに力んでも1センチも持ちあがりません。どうしたらいいか。人に持ち上げてもらうこと以外に無いのです。

 ここに組織の要諦がある。ここに繁栄の要諦がある。 一過性の繁盛ではなく、一時的な幸福ではないものを目指す、そうした理念と戦略を培う人がほしい。そうした教育機関がほしい。そうした事業を目指す人を、生涯かけて応援したい。





不確だからこそ。

2005年05月01日 | Weblog
4月としては最高の暑さ。「いや、暑いな、どうしょうもないな」は,ふつうの人のぼやきだ。 「暑いな。売れない」は、売れない商人のぼやき。
「売れないのなら、がんばれや、工夫うして手を打てや」と尻たたきするのは、積極的な商人。
「暑いな。暑ければ、逆に余計売る方法はないかな」と考える人は、賢い商人。
 
 だがいずれも彼らは、自分中心の範疇を脱していない。

 これを消費者中心主義に脳のシクミが出来ている商人は、「この暑さで、うちに来られるお客さんは、さぞ暑いだろうな。だったら私は何をしてあげたらいいのだろう」という式を考える。

 こうしたことを、以前プログに書いたら、あの新潟・十日町の高橋クリーニングの高橋新治さんは、来店されたお客様に、熱いおしぼりを出しはじめた。
  
 お客が喜ぶ式をたてる習慣を3月続けたら、愚痴を言わなくなった自分と上がった売上げに、築くだろう。
 
 ここでまたしたり顔が口を挟む。「それは、プラス思考ですよね。脳開では陽転思考といいますね。ボク、汗水たらし先生の講演で聴いたことあります」。

 まずこのタイプはだめだ。私は「式をたてる習慣を」という知恵と行動、つまり流動化の話をしたのだが、したり顔はそれを自分の手持ち在庫にひっつけて、知識という固定化資産を増やし、さらに、それを鼻を高くする道具として使おうというのだから。商人としては最低だ。。

 中には、「それで売れたらいいですよ。売れなかったらどうなるんですか?」といった子供みたいな質問をする、大人の顔をした商人もいる。

 私はいう。
 「ねぇ、お孫さんが生まれると決まっていてですよ。生まれたらいいですよ。もし生まれなかったらどうなるんですか、って考えたりしますか?」。

 ついでにもう1つ言う。
 「店のシャツターを上げたからと言って、必ず売上げが上がるかどうかはわからないですよね。それでもあなたは、お店を毎朝開いている、ではないですか。


 確実なことなど何一つないのだ。不確実だから、確実にしょうと人は努めるし、おもしろいのである。一打したら例外なしのホールインワン。5-6分で勝つとわかっている人との将棋。何がおもしろかろう。