ある大学でのこと。研修を終えてアンケートを採ったら、班編成方式は撤廃し、一人でやる方がいいのでは、という意見が出たそうだ。MMAPのことではなく、大学のゼミの話である。共同研究は妥協の産物になる。1人が1テーマで、最初から最後まで個人作業の方がいい、というのである。
人は皆違う。1人の考えが、全体、絶対でない。同時に全体は、個人の考えの総和ではない。
個々違うものを、1つにまとめることは、物理的な圧力でもかけない限り不可能に近い。だから民主主義国家では、そうした無理なことをやらないで、「多数決」にしている。だから、どうも国会で満場一致が続くと、うさんくさい感じがしてくるのである。
だが、それぞれの違いを並列ではも困る。せいぜい優先順位でも付けてくれないと、実効性が失われ無意味だ。
そういうことで妥協点を見いだす、という意味ではなく、徹底的に議論をして、皆で一本化ではなくそれに近いものを創り上げる。これを妥協の産物という。そういう人は、哄笑ないしは苦笑いしながらそういっているのかも知れないが、私は社会だと思う。
ゼミや研修でも5人なら5人のそれぞれの個性を生かしつつ、5人分の総和でない新たなものを創り上げる。ここに私は意義があると思っている。
川内駅に行く途中に、100余年の歴史を持つ平佐小学校がある。校門に大きな看板が掛かっている。「考えが違っていても、皆、お友達」
その通りだ。
これを少しいじって、「考えが違うから、皆、友達」。
人は皆違う。1人の考えが、全体、絶対でない。同時に全体は、個人の考えの総和ではない。
個々違うものを、1つにまとめることは、物理的な圧力でもかけない限り不可能に近い。だから民主主義国家では、そうした無理なことをやらないで、「多数決」にしている。だから、どうも国会で満場一致が続くと、うさんくさい感じがしてくるのである。
だが、それぞれの違いを並列ではも困る。せいぜい優先順位でも付けてくれないと、実効性が失われ無意味だ。
そういうことで妥協点を見いだす、という意味ではなく、徹底的に議論をして、皆で一本化ではなくそれに近いものを創り上げる。これを妥協の産物という。そういう人は、哄笑ないしは苦笑いしながらそういっているのかも知れないが、私は社会だと思う。
ゼミや研修でも5人なら5人のそれぞれの個性を生かしつつ、5人分の総和でない新たなものを創り上げる。ここに私は意義があると思っている。
川内駅に行く途中に、100余年の歴史を持つ平佐小学校がある。校門に大きな看板が掛かっている。「考えが違っていても、皆、お友達」
その通りだ。
これを少しいじって、「考えが違うから、皆、友達」。