経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

私の「旅の宿、選定法」

2005年03月13日 | Weblog
 旅行業界は、旅行エージント(団体)が仕切っていル、といっても過言ではない。集客のためである。大きいところほど安定した宿泊客を確保するためにエージェントに依存せざるを得ない。

 来年まで予約が入り、泊まれないといった超名旅館でも、彼らをはずすことに恐怖を覚える、とオーナーに直接伺ったことがある。知れば知るほど相互依存症的なところが意味合いが強い。
 旅館・ホテルは、彼らのスポンンサーであるとともに、そのエージェントの会員である。エージェントは彼らへどうお客を配給するかを仕切っています。

 ツアーウェブサイトも然りです。消費者からみて、必ずしも中立でははないことを知っておかなければ、とんでもない不快な、あるいは不都合な経験をすることになります。おおざっぱに言うとし、お客のためのサイトと考えない方がいいのでは、と思います。

 はっきりいえば自分で集客できない旅館のためのものです。人気があり自分で集客できるところ不要なのですが、上に述べたようにしがらみもあり、切ることは恐い。だからおつきあいしていますが、本音は、手数料を取られるだけ損と考えて、消費者へのそれなりの対応でバランスをとります。私の体験事例で言えば、トイレやエレベーターが近い、自販機が近い、部屋へ配する。料理を落とす。部屋での食事が、団体席で、といったことはごく当然の如くやられていると行って良いと思います。
もちろん例外的に、絶対そうした差別をしないところもあります。こうした所こそ私が探している「本当のお宿」です。

 宿屋ホテルを決めるときに最近は、宿泊体験者専用サイトを参考にされる人が多いと思いますがこれは私はお勧めできません。こうしたBBSの書き込みすら操作されていることがあるからです。自作自演の書き込みや、よいしライターに書かせることすらあります。
 ましてや、猛烈な苦情を載せると思いますか?載せるか載せないかの選択は、消費者ではない。彼らだ。このことを知っておくことです。
 
 BBSでも、たとえば「秀水園」と検索かけて、ツアー専用サイト以外のBBSにひっかかってくるものは、これは参考になります。私は、この方法で目安を付けています。


 私はビジネスホテルは、原則として、2-3の所に決めています。そして常連である実績を作ります。不都合をがあればきちんと支配人に言うことにします。そうするとブラックリストの載る。これに載せてもらっておけば、つぎから間違いなく対応が違います。彼らの情報力すごい(^_^)。みな私が、過去かみついた記録がデーターべース化されており、それをみながら対応する。それを私は、活用させていただいているわけです。

 ここで以上の要約をしますと、初めての旅館を探すと時には、息のかかっていない人の情報を一応は参考にし、次にその旅館のサイトをみます。

 WEBの作り方、表現などででお客様への対応が、ほとんど読めます。HPでいやな感じがしたら、実際に泊まったら、もっといやな宿といって間違いないと思います。
 ポイントはいくつかあります
 たとえば、こちらが知りたいことが、なかなか見つけられないところ×、どこかで聞い
たようなコピーが多いというところ×。やたらに自慢ぽいところ。経営者や女将が前面でているところ。豪華な広い宴会場を売り、といったところ。その他、何となくわかるものです。
 
 それで、次に電話し、いろいろ聞いてみるてみる。たとえば「旅の窓口(現在楽天トラベル)」で申し込んだ場合と、直接とではなにか変わりますか」といったことも、率直に聞いてみる聞いてみる。 この時の対応で判断します。
 
 そうしたことで、まず旅館を絞り、決めておいて、こんどはそうした「楽天トラベル(旧:旅の窓口などで、その旅館の割安企画を探すのです。特に直接が高い、WEBが安い、とは限りません。

 上にもふれましたが、難しいことは抜きにして、1に、不快や不都合があったら、きちんとフロントではなく、上の人に伝えること。これが最高の秘訣です。対応がびっくりするぐらいがらりと変わりますよ。
ほんとうはこんな事ではいけないのですが、この業界は、おとなしい何も言わないお客は無視し、うるさいお客を優遇する傾向が強いのです。ですから、職業「旅行作家」とか「旅行コラムリスト」と書いたら、対応違う、といった話があるぐらいです。事実私は、初めての所は「観光コンサルタント」と書きます。ところが実はそれで良い対応されたことはない。

 それは、そうした書き込み、彼らはほとんどみていないからです。その実験のために、性別欄に「女性」、年齢欄に「17歳」と書き続けましたが、ばれたのはここれまで40年間で1回だけです。ちなみに未記入は、気づきます。つまりお母さんにとっては、机に座っている子供をみてあんしんしているが、子供は漫画を見ている。同じです。書いているかどうかで、内容はどうでもいい

 2に、 フロントの人の個人名を覚えて名前で呼ぶことです。特に常連になれば、彼らとの人眼的なつきあいで、実によくしてくれます。

 私は、予約はインターネットでやりますが、一度泊まったところなら「山本定彦さん、鹿児島のタノウエです。ご無沙汰です。また901のいつものお部屋、お願いしますね。この部屋、窓から海が見えてすっかり気に入っていて、、、」と、まあ苦労して「備考欄」などに、注文と希望を書き入れるわけです。山本定彦さんは、フロントで名札をメモしておいただけの人ですが、彼にしてみたら私のなど記憶がないから、それだけに対応をよくしないと、恐いとかってに思ってくださる。(^_^)。

1と2を一言にまとめますと、自分自身を彼らからみて「不特定多数の一人の客」と思わせないこと。これがサラリーマン時代から、自宅宿泊数より、ホテル・旅館泊まりの方を余儀なくされた(楽しんでいる)私がつかんだ方法です。

経済問答-3

2005年03月10日 | Weblog
Q:つけ回しが、まだ尾を引いている。

A:そう。少なくともこれまでの政治家は、根本的な解決なんてこれっぽちも考えていなかったと思いますよ。ニューヨークタイムズの経済欄を辞書なしで読めるパーフーマンで、差別化するような首相を祭り上げる連中ばかりでしたからね。だから首相も含めて、大臣のなすことは、改革したようなふりして、やらねばならないこと、自分たちに都合が悪いことを先送りすることでした。

 ババを早くまわす、自分のツケを回す、それが「仕事」でした。ですからどこか行き着いた先で、ばばばばばばとたまったところで(笑)、バーンと破裂する。だから着任したらすぐ次へ回すことを考えた。自分ところで爆発させたくないから。

 流通業界もそうですよ。駐車場の土地が上がる時代は、誰がやっても利益が出せた。金が借りられた。テナント料もも得られた。

Q、ダイエーなどはテナントが出てしまい、それが発端になった。

A:そうです。客寄せパンダにお客がよらなくなったら、だれが家賃や管理費払って、売上金預けて、ともに手と手をとって、いきますかいな。落語ででてくる芸者さんだって、大店のぼんぼんだからつきあった。勘当されたら、もうおしまいよ、で終わっている。

Q:「銀行にはまだまだ不良債権あり」という竹中さんの確信がなかったら、今頃日本は大変だった。しかしデフレである限り、固定資産という概念が、変わらない限り、目減りという形から生じる不良債権は、銀行へなだれ込んでくる。

A:まったく同感です。ほんとうにそうです。
 ですから以前、申し上げたように、マクロは別にして、安心(?)して倒産、廃業、失業ができるシステムをつくらないと構造改革は、血を見る。現にそれを理由とした自殺者がきわめて増加している。

そうした庶民のソフトライティングを用意にした上でなかったことは、やはりよくない。小泉さんにしては、急がなくちゃ間に合わない、という事情があったのでしょうが。

20階のビルから飛び降りる人がいたとしても、ライフネットは用意しておく。これ抜きにしてサッチャー的改革といっても、統計数値に出てくる一軒の倒産には家族、社員、取引先・・の命がかかっているのですから・・・ネエ。

 それに自殺しても、「借金がチァラにならない」ということをきちんと知らせる。少しどきついですが、そうしたことでもしてでも、国民の命を救うことが、私は国家の基本的使命だと考えます。

Q:話を元に戻して、国家と国民の取引自体をいくら繰り返しても國や民を富ますことにはならない。それだけでなくマクロ的、絶対額は増えることは絶対にない。でもミクロ的には富の分配の寡占化はどんどん進捗していく。富を増やすってことはどういうことを言うのでしょう???。

A:私と男前さんだけの世界で1万円持っていて、私がそれを持っていることは男前さんゼロ。私が富む、という裏側には、その分貧困者がいる。だから東京にはホームレスいっぱいでるが、徳島のたとえば鷲敷町にはいない。昔の中国は居なかった。ハエもいなかった。皿をきれいになめていたから、といったジョークあるぐらい。
 今は物乞いがいっぱいいるそうですね。蠅は昔からいた。トイレがひどかったから。

Q:お金儲けをして、好きな車がほしくて、ついでに旅行も、家も、彼女も・・・ってどんどん買っていける状態が富を増やすってことなのでしょうか??僕はそうしたいですが
A:ミクロ(ぼく)単位なら、おおいにやれる。それが資本主義。先生のその欲を平等に分け合うと本当の意味の共産・社会主義社会になってしまう。また、みんながやり始めると競走が激しくなり、一時的に真(純正)・資本主義を得るが、やがて人類は地球上に1人残り、その人の死をもって、おしまい。
 理論的にはそういうことになります。問題はオトコマエさんが最後の一匹として残るか、、池乃メダカが残るかですね。あんがい山田花子がのこるかも。
 その答え、誰も手をつけない(笑)。

Q:何パーセント成長っていうのは何が何パーセントなんでしょう?誰が、いつその基準を決めたのでしょうか?それは今からの時代に合致したものなんかな?って思うのです。
A:難しいですね。成長という概念は(1)成長することを絶対条件にしていること(成長しないという概念を想定していないこと。-これさきに少しふれましたが。)(2)どこかを基準点(モデル)として相対概念であること)。

 私は、男前さんと並ぶと、前年割れ(背が低い)、でも池乃メダカとならぶと成長していることになる。大事なことは、男前さんと池乃さんいなったら、いったい私や成長しているかしていないのか、背が高いのか、低いのか、。それだけではない。わたしや、いったいだれなんや、ソフィの世界になりますね。

Q:銀行が不良債権を処分したら特別損失がでて、赤字になり、自己資本がマイナスになるなんて議論、まったくナンセンスですよね。経営実態は何にも変わらないのですから・(会計基準の変更により経営実態が変わるなんてこんとはないわけですから・・・表
現方法が 変わるだけですから、でもそれによって信用がなくなり、取引ができないってことにはなるけど)
で、プラス、マイナスってやつも、もとの基準をうたがってかかる必要があるんじゃ
ないかな??っておもうのです。

A:そうそう。そうなんですよ。そうなんです。銀行が不良債権抱えていることと、その銀行が取引きしているところがそれを抱え込んでいることは、花見酒の論理なんですね。日本という船の中で、ババをどこに座らそうとババはババ。ギャルになる訳じゃない。 メートルを鯨尺に変えたら、私の身長が、男前さんを上回るってことない。望んでいますがね。

ですから先に振れたとおり、マイナスというのは、現在の経済学では想定していないと考えるべきではないでしょうか。彼、学者はらはわかっているんです。彼らは認めませんよ。認めたら経済学そのものを否定してしまうから。マイナスという概念はプラス(成長)を表すための、あくまでバーチャルなモノ、という取り方なのです。

 宗教が、天国という概念を説明するために地獄をつくりました。おそらく天国もバーチャルなのに、これをリァリテイ化するために地獄というもう一つのバーチャルが必要だった。地獄だけでは、だれもついてきませんからね。

 元総理の某箸さんや盛蕎麦さんなど(実在しない人)がお得意のロジックとして、よく活用してましたよね。嘘に嘘を重ねて前の嘘がほんとうに見えるようにする。あれ。
ましてや、マイナス経済学というフイールドは今後はともかく、コレまで存在して
いないし。

Q:現状の基準では最終的には消費が拡大しないと成長はないみたいなことになっているのでは?

A:そうなんです。だからと指標を幸福度に置き換えたって同じに、相対的、定量的メルクマールで表わしてしまうから。
 それに、ババをギャルと呼び変えても、実態が変わるわけはない。

G:でも、限りなく浪費を拡大していかなければいけなくなりません??

A:計画してもそうなりましょうし、ほっといてもそうなるでしょうね。どっちが良いかと言うことは、長い論議になっているようですが。資本主義にしても、今のは、純正ではなく、実は計画(修正)資本主義なのですね。
「ねばならない」とか、「目標設定」が意識されると言うことは。特に日本は共産主義に最も近い国ということは、実態から見てそうだと思いますね。

Q:かって瓶為さんは、「家も二つもち、車も一人2台持ち、海外旅行にも何回も行き、これで経済回復する。だから公共事業に金を」、なんてこといってましたが、純正資本主義の論理からいうと、確かに経済成長は浪費が一番効果的であることは確かなんでしょう。

A:江戸中期でしたか、水野忠茂は、付け火をして、大火事を増やし、経済の構造改革を計ったという説があります。事実に近いと私は思っています。
 資本主義が絶対論だ、ということを前提にすれば、ご説の通り浪費は是になる。そもそも戦争などが典型的な例。でも他人の悲劇・不幸の、反対側が豊かさの創出、とは表向き言えない。まだどこかで社会主義もう一度台頭を狙う人たちがいて、事実潜在的にそれを恐れていますしね。

 しかし、資本主義の最大の恥部。恥部をあからさまにいうのはやはり小人。政治家として言うべきことではではない。「泥棒がいるおかげで、わしゃ警視総監になれ、ひいては政治家になれた」といっていることと同じですからね。
                   * 
 おもしろかったですね。また議論の相手、お願いします。

(この経済問答は、数年前に、徳島の川人先生(税理士)とのメールチャットを、田上が記録、編集したものです。良い聞き役に恵まれ、楽しい対談?ができましたことに、深く感謝を申し上げます。)
 

じゃっどん経済問答 その2

2005年03月09日 | Weblog
Q-4 その公的資金ですが、もし借入金であるとしても、残高を一度に返済することはないですよね?

A-4 いわれることが、いっぺんに借金返せるかということであれば、答えはノーなのですが「一度に返済するようなことは起こりえない」ということで経営分析などは静態会計を前提にしてやるわけですから、ここで危険と見ても、現実は動態的ですから、(そうした自体が起こりえず)助かっている例が一般的なのです。倒産(静態化)したとき以外は起こりえない、という前提で見ていることが通例です。
 これは甘い観測ということより、動いているものを止めてとらえざるを得ない静態会計の限界、そのものに理由があるとおもうのです。
 で倒産するということになると、この前提が崩れるわけですから。それをどう見るかということでしょう。

 問題は、この精算する時におだやかに精算できるだろうか、という観点を重視するかしないかと言う論議になってくるわけです。
 曾野綾子風に言うとやはり、人間生まれた限り死ぬわけだから、「もし死んだら」ということでなく、「死んだ時のこと」、そののちのことも、生きている間に考えておくべきだという考え方が、最近では強くなっているようです。
 なにしろ、やめても(死しても)生きていたときの借金の責任追及される、ということが明らかになりましたからね。辞任は、責任や借金の棒引きということにならなくなった。

 さらにいえばこれは返済の間題というより、その裏側にある担保資産の目減りの間題なのです。つまり、これが不良債権の増加となり、特損処理すると、銀行の場合、自己資本比率が14%でしたか、基準を大きく割り込む。これが次の公的基金なり外部資本注入せざるを得ない状況の引き金になる。これを怖がっていたのだと思いますよ。

Q-5 それとこれまた、素朴な疑問として、マイナス成長はいけないのでしょうか?
 GDPが何%かの成長をしないと、国民は幸せになれないのでしょうか?どんどん贅沢に消費しないと幸せになれないって概念自体がおかしいような気がするのですが?
 成長の測定基準が成長率から幸せ度指数てきなものに変えないといけないのではないでしょうか?

A-5 プラス成長を前提に構築された概念やストラクチャー下では、マイナス成長は悪とみざるをえないのでは、と思います。
 はっきりいっちゃうと、これまでの経済の理論概念は、マイナスを想定していないという疑いがあります。
 実態経済の歴史においても、マイナスの経験は稀有です。過去数回マイイナスはありました。ありましたが、それはプラス成長を前提に、ゼロから上のプラス、その反対概念上のマイナスだったといえましょう。プラスを狙っていたが結果として、ということ。これは企業が通常、損失(マイナス利益)を前提にしていないことで、おわかりでしょう。
 
 ですからゼロ以下のマイナスの世界は、現在の経済学では想定していないと考えています。マイナス経済学というフイールドは今後はともかく、これまで存在していないので、そのあり方、対応方法を研究した人もいないのでは、と思います。
 
 ですから、経済学としては、幸福感みたいな定性量フィールドは、経済学の関知する分野ではありません。そのことに関しては、付加価値という概念を敵視し、経済学を魔女扱いしてきた宗教(キリスト教)の方の専門。彼らは「そちら(宗教)へおたずねなさいな。わしらの担当ではありませんから」というのが経済学者の答えにならざるを得ないのではないでしょうか。
 
 これはあくまで私の予見ですが、経済と宗教の相対する概念のこれまでの歴史的経過を考えると、経済分野の対象は、幸せでなく富、宗教分野の対象は富ではなく幸せ、と現実はどうかということとは無関係に、お互い建前を主張し続けるのではないかと考えています。

 要は経済が経済であり続ける限り、幸せといったものは歌舞伎の黒子と同じで、「考えないことにする」という立場でもって存立しているということです。

  逆に宗教は,貧を救済する概念が強いわけでして、そのツールとして、当然経済以外のたとえば「愛」を根底においているわけです。
 「金がなくても愛があれば幸せ」は宗教では成立し、経済では成り立たないということで当然、宗教は、利益とか儲かるという概念に対して、強い排他性をもつことになる。
 この両者は油と水で、けして妥協も融合もあり得ない。敵対関係を、(建前上は)続けていくことになります。

 こうしたことで、世界の対立概念の中で、最大のものが経済と宗教といわれる所以です
でも昔から、こうしたことは建前で、現実は今の中国みたいで、建前は共産主義、現実は資本主義。でなければお寺さんが、駐車場経営する気持ちにもなれない。

 で、ご質問を子供っぽく答えると、経済派は限りない経済成長(だからマイナスは不幸への道)が、幸せへの道。宗教派は、お金みたいな俗っぽいものではなく(だからお金を求めるものは地獄への道)、愛が幸せへの道なんだ。だから、お金を持っている人は,喜捨しなさい。(笑)
 
 要は、この2つの概念も、人が作ったものだ。人が作ったものは、人が勝手に解釈もできるし、変えることもできる。このことが私は、もっと重視されなくてはならないと思っているんです。
 
 男前先生のご質問、難しく鋭く、浅学で経済音痴の私には、手に余り、上に書いたことは、あくまで私の独断ということで。

じゃっどん経済問答 その1

2005年03月08日 | Weblog
Q-1:素朴な質問なんですが、

 公的資金の注入といいますが、あたかも国民の税金を銀行に贈与しているような報道に感じるのですが、ホントはどうなんでしょうか?私は出資みたいなものが殆どで、売却できればかえってくるものと思っているのですが、違うのですか?

A-1:現実は、銀行はトンネルみたいなモノで、銀行の焦げ付き融資先に流れるわけですから、まずかえりません。

Q-2:国債が多くて日本は倒産寸前だというのですが、僕の周りには国債をもっている人は多くありません。(相続税の申告をしていると、お金持ちは持っている人もいますが、そんなに多額ではないような?)
 いったいだれがもっているのでしょうか?僕は中期国債ファンド等になっているものもあるけど、多くは銀行等がもっているのではないか?と思うのですが??

A-2:さすが。すごい着眼点です。持ち合いという言葉ありますよね。概念的には、それやっているのです。政策的に国同士での持ち合いもある。

 主として銀行、財界、政府系特殊法人、息のかかったところに、実質的な割り当てで流しているのです。それを、またそれぞれが下請けなどに割り当て流し込んでいる。
大義名分としては、安定株主の概念と同じ。外国人に購入されるのが、國としては一番いやなわけですね。利回りが良いときはともかく、今はみなこのババを、いやがるわけです。

Q-3公的資金、国債が多いとどうしていけないのでしょうか?一般企業でいう借入金とは異なると思うのですが?

A-3國の借金の、貸し方(でしたっけ)は国民の債権、という論理、よく麻生太郎さんが使っていますね。しかし、これは、インフレー基調であること。それに國は絶対滅びないという2点を前提にしています。。高い利息をつけて釣って、返すときはインフレですと、チャラ以下になり、国はホクホクです。デフレですと、金利は安いから借り手はいやいや。償還するときは国には金がないかもしれない。それに國が返す頃には、値打ちが上がっているわけですから、国は償還を嫌がり、借り換えを勧める。こういうことは見通し済みですから売れないのですね。
 このことは、私が持っているお金を女房にわたす。それで私は小遣いもらう。この商取引で田上家の資産が増えるわけはない、いわゆる花見酒の論理。そうこうしているうちに、貨幣価値が上がる。これは国から見たとき紙をお金で買い戻すのと同じことになり、悲劇です。。

 また国家と国民の取引自体をいくら繰り返しても國や民を富ますことにはならない。それだけでなくその間,他に投資して稼げる取引の機会を逸していること(機械損失)になりますから、経済行為から見たら、実態は大いなるマイナス、私は滅びの論理といっていますが、この悪魔のサイクルに、今日本はこれの入り口にいると危惧しています。
 
 取引としては、一般企業のそれと國の場合とは、おなじだと思いますが、その規模の違いと花見酒の経済になるということで、ご指摘通り、全く異なります。

 公的資金は、注入されるほうのメンツ,信用、それに国家権力に支配されるというような漠然とした恐怖といったことも大いにありましょうが、やはり「そこまで悪いのか」というレッテルになってしまうことを一番嫌がっているのではないでしょうか。2に、見返りりにこれまでの経営責任と改善を迫られる。この2点がいやなんだろうと思います。

  でも本当はほしいので、1.2.3.みんないっせいに赤信号なら、応じるということできまるのじゃないですか。いやいやながらというポーズをとって。(笑)~続く

「花の生き方」

2005年03月07日 | Weblog
 名古屋の朴さんとメールでお話しして、書いたこと
ですが、自分の生き方イコール仕事にもそのまま、と
なれたらというのが、私のスタンスです。

 これですと左辺を高めないと右辺が増えない。私の
の事業が細く小さいのはこの左辺が細く小さいまま。
なかなか大きくなれないからです。

 当然ですが、もう一つ右辺を大きくして、結果左辺
を、というスタイルもあります。

 この左と右、大きく二つのスタイルがあります。

 迷って迷って、それでも右辺から左辺に、というス
タイルに固守して、自分なりにがんばってきました。

 でも、それは私の道ではなかったのです。がんばり
にがんばってうまくいかない。あるいはうまくいって
いるのに楽しくない。こうしたときに気づいたことは
「これは俺の生き方じゃない」。 

 で、私は前者を自分の道として選択(やりなお)し
たということです。

 あくまで自分のスタイル、スタンス。これを他の方
へかぶせていこうなどとは、けっして思っていません。

 黙って「この指、止まれ」、とそっと指を立てて、止
まってくださる人がいたら、ほんとうに嬉しい。幸せを
しみじみ実感できます。

 止まってくださる人がいなかったら、さびしいです。
この寂しさが続くと、食えないという現実があります。

 経営コンサルタントを生業にしているも者が、自分が
「食えない」なんて、口が避けてもいっちゃいけない。

 そういうときこそ、「俺は売れっ子だ」、「俺は分刻
みの忙しさ」とはったりいわなくちゃ。
 そういう声が聞こえてきます。
 右辺にいたときの自分自身の声です。

 でも決めているんです。右辺から、どんな誘いがあっ
ても私は、左辺の道を歩む。

 寒い朝ですが、庭にはもうたくさんの花が蕾をふくら
み始めました。やがて大小さまざまな花々が開花する。
 
 花は動けない。「この指止まれ」と、虫が止まってく
れることを願い、動かないままやれることをやる。
 それ以外にすべがない。お見合いも、売り込みも、戸
別訪問もできない。チラシもDMもITも使えない。
 それでも、永遠に「この指止まれ」です。

 花のこの生き方で、私も生きたい。

魚と風船

2005年03月05日 | Weblog
たとえば、ここに200万という数字がある。これが過去のものであれば、それは何かを成した「結果」であって変えることはできない。もしこの200万が未来のものであったた、それはバーチャルなもので、絵に描いた餅に等しい。これを前者の状態、「結果」にするためには、その結果を確実に生じさせるプロセスが不可欠である。確実に、という意味は願望や夢であってはならない。厳密には、自動販売機に120円を投じたら120円相当のドリンクが出てくるようになっている。これを経済学では、「取引」といっている。取引が確定したわけだ。

 だから120円入れて150円の商品が出てくることもないし、80円の商品が出てくることはない。なぜならそのようにセット(取り決め)しているからである。だからそのようにセットしていなかったらそのようにならない。200万円の売上げを確実に1年後に達成するためには、確実に達成するようにセットしておく必要があるということだ。

 もし1年たって、結果としてそれが未達であるということは、そのようにセット(取り決め)していなかったということを意味する。もちろん、自販機みたいにはいかないから。200万の結果を確実化するには、リスクを考えて230万はいけるようにセットしておく、といった念入れが必要だろうが。目標を上回っての不都合もあろうが、下回った場合よりはましだろうから。

 1年先の結果を200万円と固定しておいて、それが確実化するためには、その目標にまっしぐらというやり方と、200万売り上げるためには、その間何を成すべきかと、未来から手元へ引き寄せるありかたがある。

 二つあるなら、二つ法やる手もあるが、ふつうはより確実、よりコストなりエネルギのかからない方を択一するはずだ。

 2メートル先に大きな風船がある。これを手にするには、大きくは2つの方法がある。つかみに行くか、引き寄せるかだある。水中で魚を捕まえたいとする。二つの方法がある。追いかけるか、引き寄せるかでさる。

 風船も魚も手を伸ばせば、先に逃げる。だから引き寄せる方がいい。風船なら、団扇を口に向かって仰ぎ、引き寄せる。掃除機で吸い寄せるのも良い。魚なら、彼らの好物のミミズを撒き、引き寄せる。方法は戦術だからいくらでもあろう。

 目標、ここでは200万円の売り上げだが、これも追いかけるのではなく、引き寄せる方法をとった方が良いのでは、というのが私の提案である。

 なぜなら、引き寄せるという戦略は、風船にしろ、魚にしろ、彼らの協力を得るわけだから、こちらの金やエネルギーがかからないからだ。来ていただくという行為は、車を使えばガソリンダイ代がかかるが、これを風船持ち、魚持ちということになる。

 売り上げようとするから、孤独の作業になる。おまけに売上げ恋しやと、遠いかければ消費者は「わしゃ、あんたを恋しゅうはない」と逃げる。それで追いかける。追いかけると逃げるから、競争になる。競争はダイエット効果はあるが、それはエネルギーの消耗だ。第一疲れる。

 だか消費者の方が、こちらへ自らの経費できてくれ、200万買いたいんだ。頼む、とすり寄ってきたらどうだろう。

 ごちゃごちゃ理屈言わずにどっちが楽か素直に判定したら、誰しもほんとうは後者を選択するだろう。だったらどうしてその方法を考えない、なぜその方を選択しないのだろう。




どちらが?

2005年03月01日 | Weblog
 晴天で気持ちのよい日曜日、多くの人々が戸外でレジャーで楽しんでいるとき、狭い教室で健康や成功のセミナーで熱心にメモを取る者もいる。

 どちらがほんとうなのだろうか。どちらがズレているのだろうか。
健康な子供は坊主の説教を嫌う。大好きなものをプレゼントされた子供は、にこっと笑って夢中で包装紙を破るであろう。それが嬉しさというものである。それを「感謝、感激、神様と仏様にお祈りしたおかげです」といったとしたらどうだろう。

 妻が、トイレ掃除を自慢したり,洗った茶碗の数を人に言ったり,記録を誇ったりしたら、どうだろう。

 日常の凡事は,健康な子供が,健康食品に関心がないのと同じで、口に出すこと自体,不自然なのである。不自然さから生まれるものは,不自然なもの。すなわち災いをなす。

 私に感覚のズレがあるとしたら、それは首の骨のズレと同じで必ず痛い思いという災いを招いている因となっている。これはあくまでわが身が招いた災いであって世間や他の人の責任ではない。
 

一見客商法

2005年03月01日 | Weblog
博多空港ターミナルでのこと。これから青森へ発とうというのに、朝から食事をしていなかったので、入った店。貼り紙に、「うまい、出来立て、手打ち、秘伝のだし」とある。こうした店はまず強調されていることの逆が事実だ。なぜならうまければうまいと強調しなくても流行るからである。だからこういったことを常設の看板に打ち出している店で看板どおりのうまい店はあったためしない。このことを確信したのは、もう8年も前になるが、瀬戸の大橋の某ドライブイン。看板にだまされ注文した肉うどんは、箸を付けたまま食べれなかった。それでも行列であった。新聞のコラムにも書いたこの店、とっくにつぶれた。こうした貼り紙を書くのは、意識的、無意識的に店主が、この3点に弱点があることをどこかに認識していることが多いのだ。弱みの補強をと抜書しているのである。惰性の場合もあろう。まさか「まずい、作り置き、市販の出汁(だし)」とは宣伝できないから。

 ところが一度どこかで、こうした経験をした消費者は、建前翻訳機で、「うまい、出来立て、手打ち、秘伝のだし」を「まずい」、「冷凍、作り置き」、「安上がりのだし」と、本音に訳すからリピートが効かない。

 それでもしばらくは繁盛するのは、まさに立地と条件に恵まれているからだ。繁華街、観光地、ターミナル、などなど、入り込み客に対して、相対的に店が少ないところでは、どこも行列だ。満席である。一見のお客が多く、しかも時間に追われている。長く並ぶより、すぐ席に着ける暇そうな店を選ぶ。その結果「いいや、とにかく腹におさまりゃ」といった客が行列せざるを得ないおかしな現象が起きる。

 そうなると店主はうまさより、早さを優先する。もっと勉強している店主は、早さに加えて、まずさを狙う。なぜか。まずいければ残す。だから量を落とせる。その結果原価率は落ち、客回転が増える。よく勉強しているのだ。

 これは作り話ではない。私が実際、例の瀬戸の大橋のうどん屋の親父から聞いた、「客回転を上げ利益が取れる秘中の秘伝」なのだ。

 他にも彼らなりのコツがある。看板、店が構え、つまり外から見える部分は、それなりの専門店らしく演出する。一元客は外面で」判断するからである。これは繁華街のバーが客引きに美人を使い、店内はばあさんと恐いお兄さん、というノウハウと同じである。

 さてこの店、あつあつうどんの出来立てだが、部分的にひやっこい部分が残っている。レンジでチーンで解凍した1人分の麺を、どんぶりに盛り、あついつゆをかけ、トッピング載せれば、時にはこうなる。ちなみにこの店は2階だが、下の1階にあるスパ&喫茶の店に、閉店前に行くと、一人前ずつ袋に麺を入れ、冷凍庫に入れる作業をお客の見ているところで実演している。そして翌朝行くと、それがチーンで、でき立てとして出てくる。ここも同じなのだ。

 若い私、診断士は、「こうしたリピートが効かないお店は長続きしませんよ」とアドバイスする。だが、彼らは内心、そうした世間と実態を知らない先生を笑っている。
 「あんたらは、ばかやんけ。がぼっと最初に儲けて、すぐつぶれる。ええやないか。それでまた名前変えて出す。そのくりかえしでゴーイングコンサーン。これがわてらの経営戦略。それ、せんせ、いうはる長続きする経営やんけ。これらがわてらが苦労してつかんだ商売のノウハウちゅうもんやんけ。」

 名付けて「一見客商法」。彼らなりに「一見客の専門店」のノウハウを確立しているのである。