Q-4 その公的資金ですが、もし借入金であるとしても、残高を一度に返済することはないですよね?
A-4 いわれることが、いっぺんに借金返せるかということであれば、答えはノーなのですが「一度に返済するようなことは起こりえない」ということで経営分析などは静態会計を前提にしてやるわけですから、ここで危険と見ても、現実は動態的ですから、(そうした自体が起こりえず)助かっている例が一般的なのです。倒産(静態化)したとき以外は起こりえない、という前提で見ていることが通例です。
これは甘い観測ということより、動いているものを止めてとらえざるを得ない静態会計の限界、そのものに理由があるとおもうのです。
で倒産するということになると、この前提が崩れるわけですから。それをどう見るかということでしょう。
問題は、この精算する時におだやかに精算できるだろうか、という観点を重視するかしないかと言う論議になってくるわけです。
曾野綾子風に言うとやはり、人間生まれた限り死ぬわけだから、「もし死んだら」ということでなく、「死んだ時のこと」、そののちのことも、生きている間に考えておくべきだという考え方が、最近では強くなっているようです。
なにしろ、やめても(死しても)生きていたときの借金の責任追及される、ということが明らかになりましたからね。辞任は、責任や借金の棒引きということにならなくなった。
さらにいえばこれは返済の間題というより、その裏側にある担保資産の目減りの間題なのです。つまり、これが不良債権の増加となり、特損処理すると、銀行の場合、自己資本比率が14%でしたか、基準を大きく割り込む。これが次の公的基金なり外部資本注入せざるを得ない状況の引き金になる。これを怖がっていたのだと思いますよ。
Q-5 それとこれまた、素朴な疑問として、マイナス成長はいけないのでしょうか?
GDPが何%かの成長をしないと、国民は幸せになれないのでしょうか?どんどん贅沢に消費しないと幸せになれないって概念自体がおかしいような気がするのですが?
成長の測定基準が成長率から幸せ度指数てきなものに変えないといけないのではないでしょうか?
A-5 プラス成長を前提に構築された概念やストラクチャー下では、マイナス成長は悪とみざるをえないのでは、と思います。
はっきりいっちゃうと、これまでの経済の理論概念は、マイナスを想定していないという疑いがあります。
実態経済の歴史においても、マイナスの経験は稀有です。過去数回マイイナスはありました。ありましたが、それはプラス成長を前提に、ゼロから上のプラス、その反対概念上のマイナスだったといえましょう。プラスを狙っていたが結果として、ということ。これは企業が通常、損失(マイナス利益)を前提にしていないことで、おわかりでしょう。
ですからゼロ以下のマイナスの世界は、現在の経済学では想定していないと考えています。マイナス経済学というフイールドは今後はともかく、これまで存在していないので、そのあり方、対応方法を研究した人もいないのでは、と思います。
ですから、経済学としては、幸福感みたいな定性量フィールドは、経済学の関知する分野ではありません。そのことに関しては、付加価値という概念を敵視し、経済学を魔女扱いしてきた宗教(キリスト教)の方の専門。彼らは「そちら(宗教)へおたずねなさいな。わしらの担当ではありませんから」というのが経済学者の答えにならざるを得ないのではないでしょうか。
これはあくまで私の予見ですが、経済と宗教の相対する概念のこれまでの歴史的経過を考えると、経済分野の対象は、幸せでなく富、宗教分野の対象は富ではなく幸せ、と現実はどうかということとは無関係に、お互い建前を主張し続けるのではないかと考えています。
要は経済が経済であり続ける限り、幸せといったものは歌舞伎の黒子と同じで、「考えないことにする」という立場でもって存立しているということです。
逆に宗教は,貧を救済する概念が強いわけでして、そのツールとして、当然経済以外のたとえば「愛」を根底においているわけです。
「金がなくても愛があれば幸せ」は宗教では成立し、経済では成り立たないということで当然、宗教は、利益とか儲かるという概念に対して、強い排他性をもつことになる。
この両者は油と水で、けして妥協も融合もあり得ない。敵対関係を、(建前上は)続けていくことになります。
こうしたことで、世界の対立概念の中で、最大のものが経済と宗教といわれる所以です
でも昔から、こうしたことは建前で、現実は今の中国みたいで、建前は共産主義、現実は資本主義。でなければお寺さんが、駐車場経営する気持ちにもなれない。
で、ご質問を子供っぽく答えると、経済派は限りない経済成長(だからマイナスは不幸への道)が、幸せへの道。宗教派は、お金みたいな俗っぽいものではなく(だからお金を求めるものは地獄への道)、愛が幸せへの道なんだ。だから、お金を持っている人は,喜捨しなさい。(笑)
要は、この2つの概念も、人が作ったものだ。人が作ったものは、人が勝手に解釈もできるし、変えることもできる。このことが私は、もっと重視されなくてはならないと思っているんです。
男前先生のご質問、難しく鋭く、浅学で経済音痴の私には、手に余り、上に書いたことは、あくまで私の独断ということで。
A-4 いわれることが、いっぺんに借金返せるかということであれば、答えはノーなのですが「一度に返済するようなことは起こりえない」ということで経営分析などは静態会計を前提にしてやるわけですから、ここで危険と見ても、現実は動態的ですから、(そうした自体が起こりえず)助かっている例が一般的なのです。倒産(静態化)したとき以外は起こりえない、という前提で見ていることが通例です。
これは甘い観測ということより、動いているものを止めてとらえざるを得ない静態会計の限界、そのものに理由があるとおもうのです。
で倒産するということになると、この前提が崩れるわけですから。それをどう見るかということでしょう。
問題は、この精算する時におだやかに精算できるだろうか、という観点を重視するかしないかと言う論議になってくるわけです。
曾野綾子風に言うとやはり、人間生まれた限り死ぬわけだから、「もし死んだら」ということでなく、「死んだ時のこと」、そののちのことも、生きている間に考えておくべきだという考え方が、最近では強くなっているようです。
なにしろ、やめても(死しても)生きていたときの借金の責任追及される、ということが明らかになりましたからね。辞任は、責任や借金の棒引きということにならなくなった。
さらにいえばこれは返済の間題というより、その裏側にある担保資産の目減りの間題なのです。つまり、これが不良債権の増加となり、特損処理すると、銀行の場合、自己資本比率が14%でしたか、基準を大きく割り込む。これが次の公的基金なり外部資本注入せざるを得ない状況の引き金になる。これを怖がっていたのだと思いますよ。
Q-5 それとこれまた、素朴な疑問として、マイナス成長はいけないのでしょうか?
GDPが何%かの成長をしないと、国民は幸せになれないのでしょうか?どんどん贅沢に消費しないと幸せになれないって概念自体がおかしいような気がするのですが?
成長の測定基準が成長率から幸せ度指数てきなものに変えないといけないのではないでしょうか?
A-5 プラス成長を前提に構築された概念やストラクチャー下では、マイナス成長は悪とみざるをえないのでは、と思います。
はっきりいっちゃうと、これまでの経済の理論概念は、マイナスを想定していないという疑いがあります。
実態経済の歴史においても、マイナスの経験は稀有です。過去数回マイイナスはありました。ありましたが、それはプラス成長を前提に、ゼロから上のプラス、その反対概念上のマイナスだったといえましょう。プラスを狙っていたが結果として、ということ。これは企業が通常、損失(マイナス利益)を前提にしていないことで、おわかりでしょう。
ですからゼロ以下のマイナスの世界は、現在の経済学では想定していないと考えています。マイナス経済学というフイールドは今後はともかく、これまで存在していないので、そのあり方、対応方法を研究した人もいないのでは、と思います。
ですから、経済学としては、幸福感みたいな定性量フィールドは、経済学の関知する分野ではありません。そのことに関しては、付加価値という概念を敵視し、経済学を魔女扱いしてきた宗教(キリスト教)の方の専門。彼らは「そちら(宗教)へおたずねなさいな。わしらの担当ではありませんから」というのが経済学者の答えにならざるを得ないのではないでしょうか。
これはあくまで私の予見ですが、経済と宗教の相対する概念のこれまでの歴史的経過を考えると、経済分野の対象は、幸せでなく富、宗教分野の対象は富ではなく幸せ、と現実はどうかということとは無関係に、お互い建前を主張し続けるのではないかと考えています。
要は経済が経済であり続ける限り、幸せといったものは歌舞伎の黒子と同じで、「考えないことにする」という立場でもって存立しているということです。
逆に宗教は,貧を救済する概念が強いわけでして、そのツールとして、当然経済以外のたとえば「愛」を根底においているわけです。
「金がなくても愛があれば幸せ」は宗教では成立し、経済では成り立たないということで当然、宗教は、利益とか儲かるという概念に対して、強い排他性をもつことになる。
この両者は油と水で、けして妥協も融合もあり得ない。敵対関係を、(建前上は)続けていくことになります。
こうしたことで、世界の対立概念の中で、最大のものが経済と宗教といわれる所以です
でも昔から、こうしたことは建前で、現実は今の中国みたいで、建前は共産主義、現実は資本主義。でなければお寺さんが、駐車場経営する気持ちにもなれない。
で、ご質問を子供っぽく答えると、経済派は限りない経済成長(だからマイナスは不幸への道)が、幸せへの道。宗教派は、お金みたいな俗っぽいものではなく(だからお金を求めるものは地獄への道)、愛が幸せへの道なんだ。だから、お金を持っている人は,喜捨しなさい。(笑)
要は、この2つの概念も、人が作ったものだ。人が作ったものは、人が勝手に解釈もできるし、変えることもできる。このことが私は、もっと重視されなくてはならないと思っているんです。
男前先生のご質問、難しく鋭く、浅学で経済音痴の私には、手に余り、上に書いたことは、あくまで私の独断ということで。