ヘブル人への手紙 3:1-6
そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。 家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。 さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、 キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。
御使たちの働きに次いでモーセの働きについて言及しています。ユダヤ人にとってモーセは律法すなわち旧約聖書を代表する人物であり、すべてのユダヤ人が尊敬している人物です。そのモーセの働きとは、神の家であるイスラエルのために神と人との仲裁役として仕えたことでした。しかしそのモーセに優る仲裁者となられたお方こそ、神の一人子なるイエスです。モーセは神に選ばれ、命じられてユダヤ人のために仕えましたが、イエスは神の子として、人の中から選ばれたのでも、命じられたからでもなく、父なる神の御心を成し遂げるために、広義の神の家、すなわちイエスを主と告白するキリスト者のために仕えられたお方です。この救いの確信と希望、そして神の民としてのアイデンティティ、聖なる民族としての誇りを最後まで保ち続けるならば、私たちは神の家となることができますから感謝いたします。
https://www.bible.com/bible/81/heb.3.1-6.ja1955
*****
ヘブル人への手紙 3:7-13
だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、 しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。 そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
モーセに言及した著者は出エジプトでの出来事、すなわち神とモーセとに言い逆らったために荒野で40年も放浪した挙げ句、約束の地に入ることができなかったユダヤ人の祖先たちのことについても言及しました。出エジプトの出来事は、ユダヤ人にとって大きな教訓として語り継がれてきた、誰もが知っていることです。神の御心に聞く耳を持たず、自分の考えや人の言い伝えに聞き従って心を頑なにする者は、たとい神の民イスラエルであっても約束された永遠の天の御国に入ることはできません。これは神の選びではなく、人間の自由意志による選択です。ですから私たちは自分の意思を表明するチャンスが与えられている「きょう」という日に、神の御心に適う選択を行う必要があるのです。
https://www.bible.com/bible/81/heb.3.7-13.ja1955
*****
ヘブル人への手紙 3:14-19
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
イスラエルの歴史の中で、出エジプトでの失敗は最大の教訓、反面教師の代表例として語り種となっていた出来事です。神の大いなる憐れみと恵みの故にエジプトでの奴隷生活という屈辱から解放されながら、救い出してくださった神に信頼せず、その御声に聞き従わず、神に逆らい、自分の好き勝手に振る舞い、約束の地まであと一歩というところまで来ながら、元のエジプトでの生活の方が良かった、帰りたいとまで言い出す始末で神の怒りを引き起こし、結局その世代の人々は荒野をさまよった挙げ句、安息の地に足を踏み入れることなく死に絶えてしまいました。彼らの不信仰また不従順に、私たちは決して見習ってはなりません。
https://www.bible.com/bible/81/heb.3.14-19.ja1955
そこで、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たちよ。あなたがたは、わたしたちが告白する信仰の使者また大祭司なるイエスを、思いみるべきである。 彼は、モーセが神の家の全体に対して忠実であったように、自分を立てたかたに対して忠実であられた。 おおよそ、家を造る者が家そのものよりもさらに尊ばれるように、彼は、モーセ以上に、大いなる光栄を受けるにふさわしい者とされたのである。 家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。 さて、モーセは、後に語らるべき事がらについてあかしをするために、仕える者として、神の家の全体に対して忠実であったが、 キリストは御子として、神の家を治めるのに忠実であられたのである。もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。
御使たちの働きに次いでモーセの働きについて言及しています。ユダヤ人にとってモーセは律法すなわち旧約聖書を代表する人物であり、すべてのユダヤ人が尊敬している人物です。そのモーセの働きとは、神の家であるイスラエルのために神と人との仲裁役として仕えたことでした。しかしそのモーセに優る仲裁者となられたお方こそ、神の一人子なるイエスです。モーセは神に選ばれ、命じられてユダヤ人のために仕えましたが、イエスは神の子として、人の中から選ばれたのでも、命じられたからでもなく、父なる神の御心を成し遂げるために、広義の神の家、すなわちイエスを主と告白するキリスト者のために仕えられたお方です。この救いの確信と希望、そして神の民としてのアイデンティティ、聖なる民族としての誇りを最後まで保ち続けるならば、私たちは神の家となることができますから感謝いたします。
https://www.bible.com/bible/81/heb.3.1-6.ja1955
*****
ヘブル人への手紙 3:7-13
だから、聖霊が言っているように、「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、 荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。 あなたがたの先祖たちは、そこでわたしを試みためし、 しかも、四十年の間わたしのわざを見たのである。だから、わたしはその時代の人々に対して、いきどおって言った、彼らの心は、いつも迷っており、彼らは、わたしの道を認めなかった。 そこで、わたしは怒って、彼らをわたしの安息にはいらせることはしない、と誓った」。 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
モーセに言及した著者は出エジプトでの出来事、すなわち神とモーセとに言い逆らったために荒野で40年も放浪した挙げ句、約束の地に入ることができなかったユダヤ人の祖先たちのことについても言及しました。出エジプトの出来事は、ユダヤ人にとって大きな教訓として語り継がれてきた、誰もが知っていることです。神の御心に聞く耳を持たず、自分の考えや人の言い伝えに聞き従って心を頑なにする者は、たとい神の民イスラエルであっても約束された永遠の天の御国に入ることはできません。これは神の選びではなく、人間の自由意志による選択です。ですから私たちは自分の意思を表明するチャンスが与えられている「きょう」という日に、神の御心に適う選択を行う必要があるのです。
https://www.bible.com/bible/81/heb.3.7-13.ja1955
*****
ヘブル人への手紙 3:14-19
もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。 それについて、こう言われている、「きょう、み声を聞いたなら、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
イスラエルの歴史の中で、出エジプトでの失敗は最大の教訓、反面教師の代表例として語り種となっていた出来事です。神の大いなる憐れみと恵みの故にエジプトでの奴隷生活という屈辱から解放されながら、救い出してくださった神に信頼せず、その御声に聞き従わず、神に逆らい、自分の好き勝手に振る舞い、約束の地まであと一歩というところまで来ながら、元のエジプトでの生活の方が良かった、帰りたいとまで言い出す始末で神の怒りを引き起こし、結局その世代の人々は荒野をさまよった挙げ句、安息の地に足を踏み入れることなく死に絶えてしまいました。彼らの不信仰また不従順に、私たちは決して見習ってはなりません。
https://www.bible.com/bible/81/heb.3.14-19.ja1955