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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

金木犀

2005-10-30 12:56:01 | 季節・週末散歩

以前にお話した庭の金木犀の南半分に、まだ緑がかった黄色の小さな花が芳香を漂わせています。濃い黄色にならないと目立ちませんが、この薄い色の時の芳香は一段と奥ゆかしく思います。南側に花が咲きましたから、これから冬に向かうんだなあと思います。自然界は季節のめぐりにきちんと順応していつも驚かされますが、自然の一部である人間の本当の姿もこのようにめぐっていなければならないなんですよね。

東京の友人に今ごろ木犀?って言われたことがありますが、東京はほぼ一ヶ月早いんですよね。関東と九州ではこれくらい違うんですね。だとしたら私たち自然人(マクロビアン)はその季節差も大事にすべきだと思います。流通の利便性も、裏を返せば私たちを自然から遠ざける危険性であることを思い出すべきでしょう。自然の美しい花や木々や名もない植物は、自由をたくさん持っている私たち人間にたくさんの事を教えてくれます。自分の周りを時々ぐるっと見回すとたくさんの発見がありますよ。


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食費と節約とマクロビオティック

2005-10-27 10:03:01 | 出版記事
景気後退以後特に節約の二文字が奥様雑誌の特集に載るようになって久しくなります。その節約のターゲットは大抵食費と日用雑貨です。そして相も変わらず飽食が一方で不健康の原因の槍玉にあがっています。何か変ではないでしょうか。

以前なるほどと一人の主婦の倹約奮闘の工夫に感心したことがあります。それはえのき茸のくっついている根元のほうが帆立貝の食感に似ているというものでした。えのき茸は根元のほうを切り落とすと大抵の本には書いてあるし、やや黄変していることも多い。私は栽培方法か肥料の問題と思っていました。まあそれはさて置いてこんなに皆工夫して食費に関しては涙ぐましい努力をしているのに飽食(?)なんですか?

こう考えてみると、問題は食べ方にあるのではないかということになります。土台になっている栄養学のほうに問題があるのではと疑ってみる必要があります。現代の食卓の常識に問題があるのではないかと考えねばなりません。ここでマクロビオティックの登場となります。どうか皆さん一度マクロビオティックの本を手にとってお読みください。間違った栄養学の常識に立脚して節約の仕方を間違っては、医療費の増加で節約にはなりません。

そもそも食費とは何かということになります。エンゲル係数という経済学の問題ではありません。食費とは自分の命をはぐくむための他者の命の値段にかかる費用です。動物も植物も生きていることに変わりはありません。食べるという行為に自然界の動物も経済社会に生きている(?)人間も本質的に何の変わりもないことをはっきり認識すべきです。
今食べるという行為と食べ物と食べ方について、考え直すべき時を迎えています。マクロビオティックは地球上の生命としての身体を持つ人間の食べ方についての提案をしています。経済界に住む人間の食の意識を、身体の仕組みに沿う現実的なものに戻そうという提案です。

食費は命の費用ですから、経済効率とは無縁です。しかし命はもったいなくありがたいものですから節約は必要です。でも安いものを買い込むことではないのです。安いものを探すことは必要かもしれません。でも安上がりに生産するものではないのです。消費現場でも生産現場でも、安さのみが指標になってはいけないものが、食物ではないかと思います。

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女は度胸

2005-10-24 20:10:21 | Weblog
主人がブログで私が男は愛嬌、女は度胸と子供達に教えたといっていますが、真相は少し違います。女は度胸と娘達に確かに教えましたが、男が愛嬌(?)については私の関知するところではありませんので、男が愛嬌かどうかは男親が息子の教えるべきことだと思います。

なぜ女が愛嬌でなく度胸だと教えたかというと、女も度胸を据えてかからねばならないことに遭遇するからです。もっとも端的な例が出産です。初めての出産では体験したこともない奇妙な出来事に遭遇するのです。私の経験では体がばらばらになるような感覚でした。でも突き進むしかないのです。そうしなければ母児ともに無事にはすみません。引き返すことは出来ないのです。

私は4人の子供を産みました。もうすぐ35歳になろうというときに一番末の子供を産みました。その出産の最中、私はふと度胸を忘れて引っ込み思案になりました。アーアまたあのバラバラの感覚まで進まなければならないのかとちょっと躊躇したのをよく覚えています。当然度胸を据え直して出産に臨んだのですが、可愛い我が子は結膜に内出血を起こしていました。まあその程度はたいした事はなかったのですが、「あんたが途中で休むからだ」と、舅からよく言われたものです。出産の事は大抵忘れましたが、奇妙にそのことだけはよく覚えています。

生涯の伴侶を決めるのも、子供を出産するのも度胸なしには出来ません。女は人生の早いうちに度胸を据えてかからねばならないことに遭遇します。だから見た目は手弱女でも、女は度胸なのです!

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少子化とマクロビオティック

2005-10-23 12:54:59 | 出版記事
少子化が社会問題として浮上しています。少子化はいまや国の存亡にすら関わる事態です。少子化はある日突然絶壁から落下したような打撃を社会に与えることと思われます。ですがその時となっては最早遅いでしょう。2億の人口が1億になるのにかかる時間と1億が5千万になる時間とは同じではありません。少なくなればなるほど滝の水が落下するように減っていくのです。目前にならなければ分からない庶民に代わって政治家たるものが手を打たなければ一体誰が何をするというのでしょうか。子育ての保育所を増やすなどと言うごまかしのようなことではどうにもならないと思います。

個人が一人一人できることとして、マクロビオティックの食の提案は少子化にも大きなヒントを示しているように思います。地球上の生物はみな生殖活動をしていますが、珊瑚の放卵と言うのでしょうか、地域の珊瑚が一斉に卵を生み出す映像をテレビで見たことがあります。その卵を食べるために沢山の動物が寄って来るのですが、食べられても食べられてもちゃんと珊瑚が残っていけるような仕組みが出来上がっています。いたいけな子亀の孵化もそうです。海に辿り着くまでには鳥の餌食となり、海では魚の餌食となります。それでも亀はちゃんと亀の個体数を自然の中で維持できるようになっています。草食動物は一定の範囲に生息可能な個体数が食によって決められており、肉食獣にはもっと過酷な個体数が自然の掟です。ライオンなどはオスによる子殺しも現実ですし、それは猫の社会にも見られることです。

自然界では子供の数は生理で決められています。それが自然の秩序を維持しているのは既知のことです。では生理は何によって規制されているのでしょうか。進化の仕組みを考えれば、食によってであることは疑いようもありません。肉食獣はたくさんの個体数を育てられない生理機能になっていまです。それは1頭の食の確保に広い面積を必要とするからです。だから肉食獣はテリトリーを持っているのだと思います。人間が肉食傾向になれば、人間の精神を含めた生理傾向も当然そうなってくると思います。人体は地球上の生物の掟の上に立っていることを忘れてはならないと思います。

もちろん環境ホルモンの所為もあるでしょう。それは食の累積によって食の上位にあるもの程影響を受けるのです。原因物質の問題も当然あると思います。これは人間による地球環境汚染の問題です。地球環境を人間社会のわがままが破壊しているのです。この自然破壊は生理上の影響とは別にダブルパンチとなっていると思います。

マクロビオティックの食の提案は、人間が地球上でどのように生きていくかと言う提案です。人間が目指しているものは何か、私達は何を知りたいのか、どのように生きていきたいのか、死後どうなるのか、なぜこの地球に生まれてきたのか、私達は一体何なのか、マクロビオティックはこういったことを知るために食べて生きていく道を示しています。

古い予言の書に、子供が生まれなくなると書いてあるそうです。昔は考えられない事態でしたが、現実に広がりつつあります。自分たちの生活を見つめなおして、食というものが如何に生命活動の中心であるかを深く認識したいものです。食に関わる社会活動が、単に経済活動ではなく、生きることそのものであるという共通認識の上に、私達の社会を築いていきたいと思います。正しく食べることが、正しく生きることです。マクロビオティックを、たくさんの人が実践してくださるといいなあと思います。
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マクロビオティック食事講座

2005-10-21 11:20:18 | Weblog
明日一時中断していたマクロビオティックの講座を再開します。今回は前のクラスに参加して下さった方にしか特にご案内をしませんでした。と言うのも7月にお約束したことですから実現しなければと思うのですが、近々娘のお産を控えていることもあって、なんとなく足が地に付かない感じがするからです。それでよく知っている皆さん方とアットホームに出発しようと思いました。

勉強って同じことを見聞きしても、自分が変わっていれば違うことを発見しますよね。同じ本を読んでもいつも新しいことに気付きます。桜沢先生や久司先生の本を読むといつもそうか~あと今まで抱えていた疑問がとけたり、解けない飛び飛びの島みたいな疑問に橋がかかったみたいになったりしますよね。でもこれが学習と言うことでしょう。学びて時にこれを習う!疑問が解けた時が習った時だと思います。心の中で繰り返し繰り返し引っかかっていたことが氷解する時の喜びは、孔子様ならずともです。

自分は縦の(本当はスパイラルの)時系列で同じ物に対する感想が違うのですが、横に広げて考えれば、自分が見ている物事を他人が同じように見ているかどうかはわかりません。昔の自分や未来の自分がいるかもしれません。これが師弟のおそろしさであり、ありがたさですよね。一緒に教えたり教えられたりしましょう。楽しみにしています。

ところで余談ですが、近頃テレビで非常に気になる言葉を二つ三つ。
一つ目は、他人様。多くの方が、「たにん」様と言っていますよね。でもあれは「ひと様」が正しい。ついでながら、同じように他所様というのがあります。あれは「よそ様」と読みます。他所ながらお祈りします、とかも言いますよね。

もう一つひどく気になるのは、アナウンサーが金曜日の夕刻以後、口をそろえて「よい週末を!」と言います。皆様はどう思われますか?外国語直訳の言い方です。日本人ならたとえ週末という言葉を使ったにしても、楽しくお過ごしくださいか、お元気でお過ごしくださいかだろうと思います。お食事を食べて、グッドと言う外国人の言葉を、よいと訳するでしょうか?美味しいと言うに決まっていますよね。国語は伝統によっているのですから、食事と同じように身土不二の環境を破壊すると、精神の組み立てが混乱すると思います。

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とんご柿

2005-10-19 09:34:18 | 出版記事
秋になりました.実家には樹齢80年と思われる柿の老木があります.私が覚えている限り形は変わりません.50年前から今のようだった気がします.その柿木に今年はたくさんの柿の実がなりました.昨年は不作でしたが、今年はまあまあの大きさでたわわに実がつきました.とんご柿という野生に近い柿です.甘柿で、ごまが入った黒味を帯びた色合いの柿です.栽培種のように甘くはありませんが、栗の甘みくらいの甘さです.私はこれが大好きで、久司先生、すみません、弟子の失態をお許しください!一年に二週間くらいこの柿を食べ過ぎ(?)ます。娘から私の弟は、あまり沢山届けるなとくぎを刺される始末です.

とんご柿は私には父の思い出と重なります.父は陸士第56期です。父は昭和20年8月14日に特攻に出ることになっていました.それが上官のはからいで15日の詔勅の放送を聞いてからに延期になったのです.一日の差で父は生き残りました.茫然自失の間に武装解除され公職追放の身となり父は故郷に戻ったのです.そして56期やそれ以前の沢山のお仲間方の犠牲の上に私は生まれることになりました.このことをもってしても私は多くの方々の鎮魂の思いの灯を胸にともし続けねばなりません.

私は年子の弟も生まれた所為か、お父さん子になりました.秋には父が農作業から帰ってくると、「おとうチャ、なっといねえ(なってるねえ)」と言ったそうです。すると父はすぐにもう暗くなっていても、もぎ竹を取り出して幼い娘に柿をもいで来てくれるのだそうです.とんご柿は私にとって父の愛情の味なのです.父の前に特攻に逝かれた方々の愛情の味なのです.涙なしに思い出すことは出来ないものです.

私は父を心から敬愛して育ちました.母が父を敬愛していたからかもしれません.とにかく父は娘の私にとって世界一の人でした.父は何でも知っていました.学校で教わることももっと深く教えてくれました.歴史物語も熱く語ってくれました.父の懐は私の愛の心の源泉です.私から出てくる愛は父の心を源泉としているような気がします.戦後は今では考えられないような貧困の時代でしたから、乞食のような人もたくさんいましたし、みんなその一歩手前のようなものだったのです.そんな人達からも父はとても好かれていました.庭を若ダンしゃあ、若だんシャあと駆け寄っていく人をよくみました.そんな人達は私をも可愛がってくれたに違いありません.私もそんな人から好かれるタイプになりました。

世のお父さんがたに申し上げます.娘にとって父親は、独り立ちをした後の心の支えです.たとえ善かろうが悪かろうが心から自分を愛してくれている人がいるとの思いが娘を支えてくれます.世の娘が心の支えとなる父を持っていたら、きっと世の中は明るくなります.
家庭を支えるのは女です.でもその女を支えるのは男です.男は伴侶である妻を支えるのが当然ですが、夫婦はともに若く未熟です.結婚して妻となり一人前の女になった娘を、父は自分をこの上なく愛しているという記憶が支えることになるのです.

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山の神とおかみさん

2005-10-18 14:11:37 | Weblog
現代社会は男女平等だと言われて、現代以前は男尊女卑の社会だといわれています.そもそも男尊女卑なるものはどのように発展(?)してきたのでしょうか.個体の単位で生きている動物には尊だの卑だのという関係はなく、単に力の優劣で決まる一対一の関係でしょうから、社会を持って初めて分けられる、それも大脳の発達によって獲得した関係だと思われます.では霊長類の社会ではどうでしょうか.なるほどサルの社会もゴリラの社会もボスザルの統制下にありますが、仕事というものに評価を与えるような社会ではないので男尊女卑はないと思われます.男尊女卑はあくまで社会における役割上の観念的意味合いを持っていると思われます.

ではなぜ男尊女卑ということを社会は受け入れてきたのでしょうか.それは観念こそありませんがやはり群れのボスの意識の中にその萌芽はあると思います.もっと古くオスのテリトリー意識がその源かもしれません.オスにとっては縄張り、テリトリーの死守こそが自分の生きる道なのです.縄張りを守ることが平和の維持であり幸福の継続ですから.私達人間の男にとっても同じことであり、それを守るためにより高度な社会組織を作り上げてきたのです.社会は男の営為努力によって構築されてきたといっても過言ではないと思います.メスである女はどうしてきたか、多分メスは極論するとオスのものを勝手に好きなように食べてオスメス両方の願いである子供を育ててきたのです.社会の維持にあまり関心を示さなかったのです.それで社会は男の視線で作られてきました.この生理上の違いが男尊女卑の始まりではなかったかと思います.

しかしオスはメスのためにテリトリーを主張するのです.メスは圧倒的に優位にあったのです.だから暢気に構えてオスのプレゼントを当然のごとく食べてきました。時々テレビで放映されるいじらしい涙ぐましいオス鳥の求愛の姿を見ます.今でも私達は夫の働きを当然のごとく食べています(?)それがオスの幸せであり、目的です.なぜでしょうか?せっかく集めたものも、メスがいなければ永遠に維持は出来ないし、その夢すら持つことも出来ないからです.オスの社会はメスがいなければ、その意味が成り立たないものなのです.したがって男尊女卑という言葉は、社会を維持する上で男だけがその義務を負って女は負っていないという男の自負の言葉だと思います.それが女を束縛した時代もありましたが、そんなものは男に勲章としてあげていればいいような気がするのは私だけでしょうか.そんな男社会を支えているのは、あくまで女の寛容と忍耐の精神だと思います.女はもっと実質的な生き方をしてきたのだと思うからです.女には女の苦労が当然あります.産婦人科医であった舅は私によく言いました.「あんたは家を四軒建てたようなもんじゃ」と.出産、育児一人につき家一軒建てる苦労だという意味です.舅はそういって嫁に勲章をくれたのです.

日本人はそれでも西洋社会とはだいぶ違った男尊女卑の社会を作ってきたと思います.それは言葉に表れています.社会という男の縄張り争いのステージには女を出てこないようにし裏の山の中では女は神になりお供え物を頂くことになりました(?)それで自分の女房は山の神、他人の奥さんはおかみさんになったのだと思います.要するに社会は縄張り争いの場が変形してきたのだと思います.もし女が社会というものに進出しようと思うなら、男の社会の仕組みに男のように入ろうとしても女の幸福は生み出さないと思います.男の社会を山の神の社会と重ね合わせなければ、多分何にも解決しないだろうと思います.

私は山の神のほうを選びます.しかし男社会が山の神の社会を無視しては男の幸福も得られないだろうと思います.マクロビオティックでも分かりますよね、裏が表になり表が裏になる世界なのです.氷山だって海に浮かぶには裏の部分が大きくないと釣り合わないのです.表は裏を規制し、裏は表を支配しているのです.

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うたた寝と風邪

2005-10-14 09:33:58 | 出版記事
うたた寝をすると風邪を引く(?)と、マクロビオティックを始めて数年経つまで思っていました。体の調整機能が眠っている間は低下するのだと思っていました。それで冷えに対する防御が完全には出来ないのだと思っていました。でもある時何も掛けずにうたた寝をしても何とも無いことに気がついたのです。

え?、うたた寝をすることと、風邪を引くことは全く別のこと?っていう問題に気がついたのです。翻って世界を見回してみれば、うたた寝をして風邪を引くのは独り人間だけですよね。皆動物はうたた寝のような寝方をしていますよね。寝る時は布団を掛けて暖かくして寝るというのが、私達にはもう当然のようになっています。でも動物は体が風に吹かれるとか、雨に濡れるとかという特殊な状態に曝される防御はしますが、ことさらに暖めたり密閉状態にはしませんというより出来ません。それで風邪を引いたりしていては生きていけません。健康体は風邪を引かないはずなのです。それで動物達は生きています。健康な個体のほうが少なかったら絶滅するはずです。でもちゃんと生きています。うたた寝をして風邪を引くようだったら、自分の生活を反省しなければいけないのです。健康体でないことを知って改善しなければいけないのです。

今般おかげで出版されました久司先生の「マクロビオティック健康診断法」を翻訳している時、あざの項で青あざ(いわゆる黒ガイ)は本来出来るものではない、というものがありました。え?そうなのかな?と思っていたのですが、未熟にも不注意で車のドアで向う脛を打ってしまいました。腫れて傷口が出来ました(当然痛かったのですが、、)。あ~あ、黒ガイが出来るなあとおもいました。ところが出来なかったのです。当然出来る筈のものが出来なくて、骨が怒ったような腫れが自然に引いて傷口もまた自然に回復していきました。なるほど青あざが出来るのも健康体でない証拠なんだと思いました。

青あざというのは末梢の血管がきれて内出血を起こした結果です。本来血管が切れた場合、体は(血管も血液も)止血の反応を起こします。体の反応がカバーできないほどの血管の損傷は死に至るのですが、それでも体は防衛のために最大限の努力をします。血管の切り口を収縮させ、血液凝固分子を急行させます。青あざの大きさは、その防衛能力の程度に反比例するのです。健康なほど出血しないものなのです。ですから病院で採血や注射をしたときにいつまでも出血するのも同じことです。

私達は日常生活の中に、沢山自己評価の材料を持っています。謙虚に受け止めて自分を見直し、悔い改める(食い改める)材料にしたいものです。

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ルール違反と恩知らず

2005-10-13 20:29:30 | Weblog
ルール違反と恩知らず、マクロビオティックではどちらが罪が重いでしょうか?ここ数年知的財産権とかいうものが物議をかもしましたよね。何億円の損害賠償という判決が出たりすると、考えてしまいます。インド人がゼロを発見して以来数学の発展は完全にインド人のおかげでしょうし、私達は改良版とはいえ未だにカエサルに暦の恩恵を受けている、、、、、知識や発見って完全に自分のオリジナルってあるのでしょうか?でもまあこれはそういうルールを、善悪や真理、正義というものとは全く別の次元できめただけの話なんだからと思います。法律というものは人間社会において、昨日は悪でも、今日は善になり、また明日は悪になるかもしれないものですよね。

でもたとえ法律がどう決めようが絶対に変わらないものってありますよね。道徳上のもの、例えば裏切りとか殺人とか、こういった道に外れた事柄は、いつの世でも許されないこととして認識されてきました。戦国時代だろうとどういう時代だろうと、罰せられるか否か、咎められるか否かに関わらず、悪いこととして認識されてきました。

恩知らずもそんな部類に入ると思います。マクロビオティックを知りえた喜びを思う時、食卓で頂きますと祈る時、いつも身震いする思いにかられます。久司先生のご恩、久司先生の先人たちのご恩、久司先生まで私を導いてくれた方々のご恩、直接具体的に教えてくださった方々のご恩、この人生を生きていることに関する父母の恩、主人の恩、子供達の恩、私に食べられる食事に対する恩、限りがありません。私達は本当に一人では一刹那たりとも存在し得ないのですねえ。繰り返し繰り返しこのありがたさと海山の恩を思うこのごろです。恩知らずにだけはなりたくありません。マクロビオティックの道を歩む者として、私の一番大切な心構えとして日々おそれて暮らしています。

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酸化と酸化防止剤

2005-10-12 07:45:06 | 出版記事
女性だったら(男も?)毎日の食事の仕度で加工品を手にすると酸化防止剤という文字を必ず目にしますよね。酸化防止剤にも天然のものと人工のものとがあって、現在の商品化した流通社会では特に加工された食品は多かれ少なかれ酸化防止剤のお世話にならざるをえません。医薬品や化粧品にも、のりなども事務用品にも、生鮮食品にも消費社会という経済市場にあるものでおよそ酸化するものには酸化防止剤が含まれている物が多いと思います。なぜ酸化するといけないのでしょうか。その理由は全ての生物がみな本能的に知っていますよね。酸化というと学問的ですが、端的に生活上の言葉では腐れるといいますよね。腐れたものは食べてはいけない、皮膚に塗ってもいけない事を皆知っています・・・・・・・なぜか?体は自然に下痢を起こし、皮膚の表面は炎症を起こします。なぜか?

身体は体内に腐れたものを取り込まないように下痢や嘔吐で排除し、害を受けた皮膚は腫れたりただれたりしてやがて剥がれ落ちます。万が一吸収されたら各段階で皮膚の反応と同じように炎症反応を起こしたり熱を出したり、細胞を一部破壊したりして排泄過程に取り込まれます。要するに酸化した物は排泄されるのです。酸化とは排泄、つまり分解還元過程の始まりです。酸化と還元は理科では反対の逆行程のように習いますが、同じ直線(?)上に並んでいます。酸化が進めば行き着く先は還元です。この地球という大気圏内にあるものの生成分解の過程は酸化還元の過程として現われます。現在の地球上では先ずスタートは酸化から始まります。先ず酸素無しには一分と生きていけません。酸化の熱で私達は生きています。酸化という化学変化を基盤に生命は生命の維持発展過程を作り上げました。老化も酸化と同じです。新陳代謝という行程で新が勝っている間は陳のマイナスが相殺されていますが、新が落ちてくると陳が目立ち始める、つまり老化が目に見えてくるのです。そして酸化は分解の過程(陰性化)であり、分解はやがて分解され尽くして(極陰状態―極陽状態)還元の過程(陽性化)に入るように、宇宙の秩序(法則)に沿って展開しているのです。そして天然の生物はみな独自の酸化防止機構を持って酸化のスピードを制御しています。これが寿命をきめています。この酸化防止機構を如何に正常に働かせるかによって寿命を早めたりいっぱいに使ったり出来るわけです。

では人工の酸化防止剤は何をしているのでしょう。これは生きているものの寿命を延ばしているのではありません。みな死んで急激な酸化の過程に入ったものを、なるべく死んだ時のままに維持しようとしているだけです。つまり自然な宇宙の法則の例外を作って、その展開を阻止しているのです。そんなものを食べると体内では酸化防止剤はその食物と同じ消化過程で吸収されます。今度は私達の体の中で、宇宙の法則に従って運営されている体内のメカニズムの邪魔をすることになります。私達の体は宇宙の法則の展開のままに酸化という方向性を一貫して持って動いているのです。良くて余計なもの、悪いと過剰作用や逆作用の毒という負担を体にかけることになります。酸化防止剤は商品を長持ちさせるかもしれませんが、結局のところ自分の体の「もち」を悪くします。極端に言えば酸化防止剤を入れなければ食べられないようなものは食べてはいけないのです。収穫して腐らずに運ぶことが出来る範囲が、つまりは流通可能範囲です。塩蔵や乾燥などという自然の力を利用したもの以外の少なくとも食品の成分を不自然に変えるような保存方法は止めたほうがよいといえます。生のものは生のままでは保持できないのが当たり前です。どんなに文明が発達しても、東洋の思想やマクロビオティックでいう身土不二という原則は宇宙の秩序ですから絶対になくなりません。人間と環境(周囲の食べ物)は一体です。酸化防止剤は、食品や体につけるものを、極論すればミイラにするためのものなのです。ミイラは腐らないように、つまりバクテリアなどの餌にならないように考案されたものです。ミイラは虫も食べないのです。そのようなものは食品ではありません。人間の食品に許される酸化抑制法は、自然の人体の仕組みに害を与えない範囲でなければなりません。こういった保存方法はは既に伝統的な知恵として受け継がれています。

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マクロビオティック生活の余慶

2005-10-09 12:43:13 | 出版記事
マクロビオティックの食事を続けていると、何が一番楽になると思われますか?私の一番の実感は、汚れなくなるということです。考えてみればそりゃそうですよね。衣類は体からの排泄物を吸い取っているのですから。

昔の人は身体を今のように洗えなかったから、汚くて臭かったというのは早計なのです。だから香をくゆらせたというのも説得力はありますが、今の私達の想像するような獣くささとは少し違っているのではないかと思います。マクロビオティック食事法をほぼ実践していた社会なのです。自分が実感する事は、衣類が汚れない!、髪の毛が汚れない!、排泄物が臭くない!ということなのです。お台所からのゴミも少ない!、油汚れも無い!洗剤はいらない!ことが殆んどなのです。お洗濯の洗剤は少ない、シャンプーも少ない、ボディシャンプ―も少ないとなるのです。

これはずいぶん社会を変えることではないでしょうか。先ず水の汚染が少なくなりますよね。水の汚染も環境破壊の一つの根源であることを考えるとこれはたいしたことではないでしょうか。家計に与える影響も少なくないかもしれません。翻って考えてみると、私達は体に負担のかかるものを食べて自分の体を壊し、汚れを撒き散らして公害の元を作り、わざわざ全てのステージで代価を支払っているのです。これが高度に発達した経済社会だとしたら、何と無駄な思い上がりでしょうか。

マクロビオティックは個人の生活様相を変えると同時に、人間社会をがらりと変えることが出来ます。経済は人間のためにあるのであって、経済社会のために人間の生活があるのではありません。マクロビオティックを実践してみてください。きっと何かが変わってきます。

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人口と飢餓と農業

2005-10-07 16:12:06 | Weblog
先日このまま人口が増えつづけると飢餓状態になるかどうかという問題にちょっとだけふれました。久司先生のお答えについても真中の結論をだけ書きました。しかしそこには大きな私達全体で考えなければならない問題があります。食料の限界が人口の限界なのは確かです。自然界でも、植物が増えると草食動物が増え、草食動物が増えると肉食獣が増えます。そして植物が食べ尽くされると草食動物が減り、肉食獣が減ってバランスの波が繰り返されるのです。

しかし私達人間の世界を考えてみれば、食物は自然に分布しているのではありません。人間社会は高度に流通化した社会です。つまり経済社会であって、豊かな国はお金を集めて農産国から買占めをしているのです。そして私達の日本も瑞穂の国をやめて(?)、その豊かとやらの経済人の国になっていることを認めなければなりません。私達個々人の思いとは別にそうなっているのです。このことに関しては私達も連帯責任を負わねばなりません。悪気はなくても便利を便利を、快適を快適をと求めた結果が目の前に広がっているのです。その結果私達日本の食卓は飽食、アフリカは飢餓というアンバランスの世界に住んでいます。私達は沢山の食物を無駄に捨て、アフリカでは多くのいたいけな子供達が死んでいます。もう少し社会の仕組みを自然なものにしたら、わざわざ食糧援助などと自分達の罪滅ぼしのような偽善をしなくてもいいのではないかと思うのです。

食物と食べるという行為自体をもっと突っ込んで考えてみなければと思います。もう少し食物が命そのものであり、食という行為が生きることの根本であることを考えてみなければなりません。そして農業が人間の興した技術でありながら生命行為に含まれていることを真剣に考えなければなりません。今日本農業の食料自給率は低下してしまって、何事か起これば私達はアフリカの惨状以下になるかもしれません。ヨーロッパ諸国は自給率の回復に努め、イギリスなどはほぼ100パーセントに回復しているそうです。日本人は暢気に戦争はあってはならないとお題目のように唱えていますが、ヨーロッパ人は天変地異のような災害が広範囲に起これば当然食糧争いがおこりうることを認識しているし、また起こると考えるべきです。憲法がいうように友邦を信じて平和を維持することは出来ないのです。少なくとも今のような酒池肉林のような食卓からは平和は生まれてきません。

日本の農業の健全化に勤めなければ、私達は自分達の健全さを維持できないでしょう。食が私達を決定しているのです。農業は食物を生産しているのです。食の連鎖を自然界に見れば、人間が多くの人口をどうしたら楽しく仲良く養っていけるか、火を見るより明らかです。豊かな植物が有って、多くの草食動物が生きており、そこに広いテリトリーを持った肉食獣が少数で生きています。テリトリーとは食糧牧場なのです。人間もそうした生命の冷徹な掟の上に文明を作っていることをはっきり認識すべきです。農業こそ、人間が人間らしく生きていくための基盤です。分業社会に生きている私達消費者が、農業をしなければいけないということではありません。よい農業を応援するために、消費行動を合わせればよいのです。食べるということは特別大事なことであり、食物を作る農業は一番大事な産業なのです。

そのことを根本的に解決しなければ、世界はやがて久司先生のいわれる通り、飢えによって人間の適正な数に至るでしょう。それに落ち着く前に人間は醜い修羅の世界を作るかもしれません。戦争によって人口を減らすかもしれません。その前に日本は完全に食糧という首根っこを抑えられた奴隷的な境遇になるかもしれません。食の現状はその危険性を秘めています。そうならないように久司先生は日夜努力をしておられます。私達マクロビオティックを知ったものも先生の後に続くことが大切です。子供達により良い世界を残していきたいものです。

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金木犀

2005-10-06 17:07:39 | Weblog
庭に樹齢50年以上の金木犀があります。大きな大きな傘のようになっています。あまり大きいので北側と南側とでは咲く時季にずれがあり、二度香りを楽しむことが出来ます。今年は暖かいのでどうかなと思っていたら、通り過ぎると香りが追いかけてきました。心嬉しさがこみ上げて振り返ってみると、北側にまだ固い色も密やかなつぼみが身を潜めてついています。

樹木は老木になっても美しさでは決して若木に負けませんよね。いつも見とれてしまいます。人間も斯くありたいと心の奥で願います。梅ノ木も桜の木も何の木でも、老木になっても美しい花を咲かせて、見るものの心を揺さぶりますよね。何で人間は老醜などというのでしょうか?老いて美しくなるべきですよね。これは多分体に滓を溜めると汚くなるのです。余分の無いよどみの無い体を作って、梅の古木のように枯れていたいですよね。そして凛とした枝を玄々と張っていたいですよね。

庭の金木犀のように一年のめぐりに合わせてまた今年もあなたに会えたというような、それこそ一期一会のような暮らしをすべきですね。毎日毎日の大切な繰り返しを、毎日毎日いとおしんで暮らしたいですよね。金木犀は香りを風に乗せて遠くまで届けますが、紫蘇や山椒の木のように触った刺激でぷーんと香りたつもののように、通り過ぎると香りが追いかけてくるというのもとても心しみじみとしたものがあります。そういうわけで庭の金木犀を紹介しました。

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陰陽その二

2005-10-04 09:59:44 | Weblog
陰陽はどちらか一つだけでは存在しません。両方があるから、というよりそもそもの始まりである無限というものに動きが生じた時にこの世は存在を開始したのです。動いたということは一時的にバランスを崩したということです。そして次にバランスを取ろうという反応が生まれ、この世の無限の変化が始まりました。最初の動きの方向を陰といい、次に生まれた帰りの方向を陽としたのです。その膨大な繰り返しで生々流転してきた多様性の先端に現在の私達があるというわけです。

そういうわけで陰陽は必ずバランスを取ろうという内在性の力と共に現われています。例えば果物を考えてみましょう。まだ青いうちは表面の皮は硬く実も締まっています。一番外側が陰性なのですが、硬いという陽性の力をたくさん持っています。段々熟してくるうちに、風船のようにパンパンに膨らんで皮は薄くなり糖分は増えて水分も豊富になり今にも破れそうになります。それでも皮はまだ耐え得るだけの陽性を持っているのです。しかし内から内から溢れてくる陰性の力に耐え得なくなって破れておちます。その時は中心に陽性の種が大きくなっています。陽性が十分に大きくなると陰性の力も大きさを増して自分の皮も破るのです。陽性の種は内部に大きな生命の陰性の力を宿して地に落ちるのです。

この私達の世の中は、変化の連続で出来ている世の中です。それが陰陽という力の二大構成でできているというわけです。陰陽に善悪はありません。私達日本人にもなんとなく、陽は明るく朗らかで、陰は暗く湿っぽいという太陽が温和な地域に住む人間の思い込みがありますが、マクロビオティックでいう陰陽にはそういう善悪の感情はありません。強いて言うなら適度(中庸に近い)が善で、極端(極陰、極陽)が悪ですが、それも本当は感情の世界ではないのです。変化の一局面で次のステージへ進む時、例えば果物が落ちるときには極陰になるのです。私達も死ぬ時には極陰になります。

でもどんなスピードで極陰になるかという話です。私達がしたいこと知りたいことを十分にやった、わかったと満足できる時間があるかどうかです。それを選ぶのが私達の口というわけです。口は肉体のコントロールパネルです。身体の前は口、後ろは肛門です。私達の人生は全部自分の口の責任です。もっと幅を広げると七代前の先祖からの口の影響をとどめているそうです。自分と子孫のために口を慎まねばなりません。

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陰陽入門その一

2005-10-02 16:55:45 | Weblog
マクロビオティックを実践する上での物差し、陰陽は最初にぶつかるややこしさかもしれません。特にマクロビオティック以外のところで、陰陽を勉強したことのある方にとっては、こんがらがってしまう最初の一歩になることが多いようです。陰陽の坩堝に入ったような感想をもたれるかもしれません。

マクロビオティックではもっともっと単純に、自分或いは地球の中心に向かってくる物や力(求心性)を陽性、中心から離れたり出ていく物や力(遠心性)を陰性といいます。この二つが、全ての物をもっとも単純に分類した場合の二大要素です。ですが、これは物の性質(力や傾向)として存在しているので、陽性だけ、陰性だけの事物は存在しません。ひとつのものの中には必ず陰陽を併せ持って存在しています。バランスの取れたものだけが、事物として現われる世界なのです。そうでない物は力として存在していますが、力はそのままでは止まることが出来ず、宇宙線のような形で降り注いで通過しています。こういう力は私達や地球の中心に到達するまでは陽性、中心を通過した途端に陰性になるという陽性でもあり陰性でもある無限そのものの性質をあらわしています。

ややこしい話はさておいて、マクロビオティックを始める上で最初に陰陽が問題となるのは、食べ物を選ぶという時点でですね。何を基準に陰陽を分けるかというと、人間の陰陽比である7:1の比率をもっているものを中庸としました。人間が何で7:1の陰陽比を持ったかというと、それは7:1の食べ物を主食としたからという堂々巡りになるのですが、それが真実です。人間が穀物を食べたから人間になりました。食が先にあるのです。食べ物が無いところには何も発生しません。久司先生はよくおっしゃいます。人口は幾何級数的に増加し、食物生産はよくて等差数列的に(つまり植付け面積に比例して)しか増加しないから必ず飢餓の時代を迎えるといわれているが、一時的混乱を除けばそんな事はありえない。つまり食の限りが人口の限りであると。

また横道にずれました。がそういうわけで、玄米が人間にとっての中庸です。人間の身体はそういう比率でうまく運営されるように発達してきましたから、そういう状態に身体を維持できるように自分の食物を選ばなければなりません。陰陽の極端なもの同志を食べればプラスマイナスゼロになるのではないかと期待しても、それは頭でゼロになる足し算を考えているだけで、身体のシステムがそのようには動きません。最終的にはなったとしても、身体の各器官はプラスからマイナスへ何度も時には全力疾走をさせられて疲れてしまうだけです。調理は体の働きを助けて、食べられるものを増やす手段です。調理、つまり火の利用のおかげで、人間は食の多様性という楽しみと芸術を手に入れました。お手元にいろいろな所から発行されている陰陽表がありますか?もう一度その便利なチャートを見て、陰陽を考えてください。

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