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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

ご飯の分量

2006-04-27 10:07:57 | 出版記事
マクロビオティックを始めて、玄米を炊くことが日常のことになってくると、一歩進んで分量が気になってきますよね.分量の問題は始めたばかりの方にも、長年実践している方にも起こります.主食を食事量の半分以上といっても、なかなか難しいものです.教室を始める前に計量して、重量パーセントといっても、実際のところかくかくしかじかですと、久司先生に比率と合わないことを申し上げたことがあります.やり直す必要があるねとのお答えでした.

それで最も簡単に自分のご飯の分量を調節する方法をお教えします.半々くらいにしたい方は、お汁を別にして、ご飯二口にお菜を一口.もっと主食の量を増やしたい方は、ご飯三口にお菜を一口.こうすれば間違いありません.そして満腹まで食べるか、八部目にするか七部目にするかは、これも自分の問題です.始めたばかりの方は、少食に憧れたにしても、九部目くらいがよいかもしれません.継続こそが大切です.

このところ、和歌や詩などの歌をよくご紹介していますが、何しろ春は歌心を刺激する季節です.“ウタ”という音の響きは、ほとばしり出る心です.喜びであれ、悲しみであれ、苦しみであれ、内面から外に出て来ずにはおかない響きです.芽吹きや,開花と同じです.それでこのブログを読んでくださる方と歌心を共有しようと,ご紹介しているわけですが,今日は子供の頃に強烈な印象を与えてくれた,斎藤茂吉の短歌を一つ.そろそろツバメの飛び交う季節にもなりますし.

  のど赤き つばくらめ二つ はりにいて 垂乳根の母は 死に給うなり

歌詠みの血を吐く悲しみの絶叫が聞こえてきますよね.これ以後悲しいと言わない悲しみの歌,嬉しいと言わない喜びの歌が好きになりました.そういう意味でこの歌は私の道標です.読む人の心に,新しく歌をわき起こす歌、そういう歌は言霊の歌だろうと思います.感情を隠した感情の歌を好んだことが,後日子供達に説明不足と悪評を招くことになりますが,それでも自分の感情を説明することの空しさと白々しさを,その感情が純粋であればあるほど感じてしまいます.自分の感情を説明するということの根底に,自分本位を感じてしまいます.言葉足らずの私にとって,教室はそういう意味で道場です.皆さんよろしくお願いします.
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マクロビオティック教室

2006-04-24 21:11:42 | 教室情報
また今年も道連れが何人か出来ました.若者あり、同年輩プラスマイナス・・歳あり、ご主人の参加も三組!楽しくやって行きたいと思います.久しぶりのせいか、最後は同窓会のようになってしまいました.どうして病気というものが現れるか、分かって頂けたでしょうか?病気も自然の成り行きなので、自然の仕組みで消すことが出来るはずですよね.早い段階であればあるほど簡単です.それは自然の道を知ることです.そして全ての事を知ることになるのです.マクロビオティックにふれた幸運に感謝します.本当に有り難いことです.有り難い事はおすそ分けをしたくなりますよね.私にとってはそれが教室です.

今日はお約束通り、蘇芳の花をご紹介しましょう.きれいで可憐な花です.もう終りになってしまいました.今は藤の花が満開ですが、写真でうまく写せません.平戸つつじもそろそろです.早稲の田植えも始まりました.緑の色を楽しむ季節になっています.都会の方は緑を求めて野や山にお出かけでしょうか.私ども田舎に住んでいるものは本当に幸せです.でも私も登ってみたい山があります.それは筑波山.横瀬夜雨の詩、“筑波山に登る”が好きなのです.

       嗚呼 山は筑波嶺
       天低く 立てれども
       命哉 ながらえて
       吾 終に登りたる

私もマクロビオティックの山に登ってこのような感慨を詩にすることが出来るでしょうか.日本人の心の山は富士の神山、誰の心にもありますよね.私の道連れさんにもマクロビオティック山と富士山がありますね.登りましょう!そして私は筑波山にもいつか登って、この詩人の喜びを実感してみたいと思います.

    
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今日は大手毬

2006-04-21 09:19:35 | Weblog
これが孫記念の大手毬の花です.白い本当に清々しい派手やかな雰囲気を放つ花です.なんとなく平安の昔の若い公達の蹴鞠を思い起こします.春の色でもう一つ好きなもの、それは葱や玉葱の緑です.あの白さと緑、心打たれずにはいませんよね.お料理する時も本当に嬉しくなります.

子供が小さい時、「今夜のおかずは何?」と聞かれたことがあります.咄嗟に名前を付けて答えました.「菜の花畑よ」.出てきたものは春キャベツだけの炒め物! 春キャベツだけの味を楽しみたかったのです.ほんのしばらくの間の春キャベツは、炒めると本当に黄色くなります.菜の花を連想するのは私だけでしょうか?連想を同じくする仲間を求めます.

明日は私の18年度のマクロビオティック教室の始りです.また賑やかに楽しく始めましょう.お待ちしています.次は蘇芳の花をお目にかけます.

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春爛漫

2006-04-18 09:04:28 | Weblog
春は植物界のエネルギーに圧倒されます.今日と明日はすっかり違っています.既に草の勢いは増して一日で倍くらいに伸びています.緑の輝きに目を見張っていたら、さつきは満開になってきましたし、藤の花も孫の記念植樹の大手毬もきれいに咲き始めました.

振り返って自分の身なりを見ると、まだまだ冬の名残の衣服に身を包んでいます.変わった(?)のは色の感覚くらいです.我が家の猫もやっと毛の抜け変わりのようです.動物界というのは植物界に先導されるのですね.初めに植物ありきというのが実感できます.動物は植物なしには生きていけません.自分の命は、植物の生まれ変わりですね.毎日の食というものが、その生まれ変わりを現実にする行動なのですから、私達は自分の命の親である植物、農作物にどんなに感謝しても足りませんね.

肉食の動物もいますが、草食動物を餌にしているし、何よりも肺で食べている酸素は、植物の力なしにはこんなに存在しないのですから.マクロビオティックは宗教ではありませんが、マクロビオティックは禅宗のような宗教の自力で本願を達する手段と相通じるものですから、マクロビオティックを実践していると自然に宇宙の真理が分かってきます.宗教が神や仏のありがたさにただ感謝する心を説いたものが多い中で、桜沢先生が禅宗とマクロビオティックを重ねられたのは当然のことです.しかし行き着いてみれば同じこと、ただ感謝するしかありません.善男善女の幸せは、日本の環境の柔らかさの賜物でしょう.春爛漫の季節です!

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小野田さんの講演

2006-04-16 09:56:22 | Weblog
昨日小野田さんの講演を聴きに行きました.小野田さんはご存知のとおり、元陸軍将校で戦後30年ルバング島で最後はお一人になられても戦い続け、苛酷な環境で目標を見失わず任務を全うされた方です.淡々と語っておられましたが、その現場はどんなであったろうとお察しするばかりで、如何なる状況にあろうとも実現可能なぎりぎりの目標に向かって努力することをあらためて思いました.

小野田さんが日本に帰ってこられた日の事は忘れません.私は長女出産のため、3月の初め一人で主人の実家に戻っていましたが、あの3月12日羽田に降り立たれる小野田さんをテレビで見て興奮し、産気づいてしまいました.舅も海軍で潜水艦搭乗の軍医だった人ですが、その父から1月あまりも早産になってはともうテレビを見ないで休むように言われたのを思い出します.それで娘の名前に小野田さんのお名前の一字も候補になりましたが、父から「女の子は嫁に行って姓が変わるから、8画の字にしなさい」とのアドバイスを受け、乃木大将の典の字になりました.典の字に親の願いを込めました.典雅な娘になるように、人々の大いなる助けになるようにと.

このようにして私達は親からそれぞれ名前をもらっていますが、私も実の父から聖徳太子の有名な一節を紙にかいて貰いました.何回かお話しましたとおり、実の父も陸軍将校で特攻隊の生き残りです.父と小野田さんのことについて話したことがあります.父は「当時の将校は皆あのようにしたんだ」と言いました.私も父なら出来るだろうと思いました.父はあの戦後の180度意識転換の時代を、転換せずに生き抜いたのですから、ある意味で小野田さんと同じく戦後を戦って暮らしたと思います.同じ軍人仲間だった人にも、世間の伝統無視にも憤慨することばかりでした.亡国の風潮を何とかしたいと微力を尽くしていましたが、世の趨勢はどうにもなりませんでした.子供たちも当世流の教育とは違って育てられましたが、私は良かったと思っています.娘の目には父は輝いていて、一番偉い人でした.

私達は今の常識で判断します.でもそれは大いなる過ちです.戦時下の事を平時の常識で判断しても歴史を見失うばかりです.平時には余裕があります.しかしその余裕は戦時下の状況を察するために使われるべきです.その証拠に今も沖縄は戦略的重要拠点であることに変わりがないのです.私達は平和だと思っていますが、アメリカの属領の位置に甘んじているだけです.防衛しているのはアメリカ軍なのですから.しかしアメリカにとって戦略的重要拠点だとは言っても、自国周辺ではないのです.だから漁業をしている人たちにも海上は大変な危険を持っているのです.日本が自前の国防軍をもつことが出来ても、沖縄の意味は変わりません.そこに在ることがそういうことの訳なのです.私達は沖縄にその意味の代価を支払うことしか出来ないと思います。

小野田さんは与えられた情況でもっている能力を鍛えて生きていくことの意味を話されました.本当に目標を持って生き抜くことに意味があるのです.目標と手段を考えずに叶いもしない夢を思うことは足が地面につかないことです.私達は平和に暮らすことによって、大切な任務遂行の能力を削がれています.戦後のある意味での戦争を今も戦っている拉致被害に遭われた同胞達を、私達はどうしようというのでしょうか.人間が生きている時間は限られているのです.戦争をしてでもと思うのが親心でしょう.私達はその気持ちをもっと共有しなければと思います.戦争は国民を守るためにするのです.それ位の覚悟をもって外交を後押しすべきではないでしょうか.

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夜半に嵐の吹かぬものかは

2006-04-10 14:18:04 | Weblog
続けて記事を書いています.それも深夜から大嵐で、桜も散ってしまったと思われるからです.平戸大橋を吊っているワイヤーもキーんキーンと物悲しい音を立てています.春にはいつも、のどかな春の気分に浸っている人間どもを驚かすような嵐が一度か二度はあります.そのたびに思い出すのが、親鸞上人のお歌です.

   明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

ありがたい春の嵐です.この歌を思い出すと、身も心も引き締まります.真実を知りたいという思いのまほし心です.後の親鸞上人は少年の日に、このような激しいまほし心を披露されました.それには遠く及ばないでしょうが、私達もマクロビオティックによって知ることの出来る真実の探求に、まほし心を持ち続けたいと思います.マクロビオティックという梯子を既に掛けて頂いています.芥川のくもの糸ではありませんが、この梯子は阿弥陀様のくもの糸のように強くて大きな梯子です.多くの人と分かち合いたいと思います。

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お箸について

2006-04-09 23:18:54 | 出版記事
私のマクロビオティック教室は、お箸持参ということにしています.三角巾、エプロン、筆記用具は何処も同じだと思いますけれど、あえてお箸持参という項目を最初から規則にしました.段々汚れていくお箸を教室では使いたくなかったこと、粗末な割り箸のゴミを出したくなかったこと、心になじむ上等の割り箸を用意するほどの余裕もなかったこともありますが、何よりもお箸に注意していただきたかったのです.

そもそも割り箸とは最も贅沢なものでした.上等の材質のものを一回しか使わない、お客をもてなす亭主の心だったのです.それが今では手に痛い使い難い使い捨てのゴミのお箸が多くなりました.これでは心意気も何もありません.お箸は手に馴染みやすいものがいいと思います。お箸を操る事は脳の訓練にもなります.最近は外国人が上手にお箸を使うのを良く見かけるようになりました.十八番を奪われないようにしましょう.子供たちが小さかった時、誰かが溝に落としてしまったおもちゃを、溝蓋の隙間から長い棒をお箸のように使って取ってやった事があります.子供達の嬉しそうな顔を良く覚えています.役に立ちますよ.日本人の平均的頭のよさもお箸の所為かもしれません.

もののけ姫という映画がありました.私も子供にお相伴して映画を見に行きました.大人が見れば大人の問題提起をしている映画で、小さい子供たちにも強烈な影響を与えたと思います.印象的だったのは主人公の一人アシタカが、朱塗りのお椀とお箸を持って旅をしていたことです.私達は今では物の溢れた使い捨ての生活をしていますが、生活道具というものをもっともっと大事にすべきではないでしょうか.もっともっと手を掛けた堅牢な用の美というものの追求にお金を掛けて、数を少なくすべきではないかと思います。

それは食べ物に対しても同じ事のような気がします.私達は食べ過ぎです.もっともっと食材を丁寧に作って大事に食べなくてはなりません.満腹になるまで食べるということは、本当は天に唾することなのです.必ず唾は自分に落ちてきます.腹6分か7分でよいのです.そうすれば自然に無形の食物が増えて、私達は“かすみを食らって生きる”というあこがれの仙人になれます.マクロビオティックでは少食が究極の手段です.何のためかといえば、自由のためです.究極の自由は無限です.人間は無限へとユーターンをした段階です.次の食べ物は”かすみ”のようなものです.人間が次に変化するもののために、人間の段階のうちに準備しておかねばなりません.死んだ後も地球のものに対する食い意地ばかりで、幽霊になってうろつくのは誰だっていやですよね.マクロビオティックって面白いですよ.仲間と話し合ってみてください.


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お料理というもの

2006-04-06 07:33:58 | Weblog
世の中にはお料理学校がたくさんあります。マクロビオティックのお料理教室でも、あちこちに私の教室のようなそれこそお隣でちょっと教えてくれるおばさん教室のようなものから、きちんと学校の体裁を整えているものまで色々あります。でもお料理とは一体なんでしょうか.ここで娘たちに昔から言っていた私の持論の出番です。「お料理とは自然科学である!」.お料理教室とは昔からの経験による知恵を伝達するところです.これは本来家庭の役目ですが、今はそうも言えなくなりました.また特別のプロの場合も、職場に住み込んで仕込まれたものです。プロの世界にはこうした伝統的な仕組みが残っています。

大工さんの世界、漁師の世界。医師の世界でも同じで、産婦人科医という外科系の医師の夫はこう言います。「内科などの世界と違って、外科系の医師には頭で覚えたことが如何にたくさん有っても、現実に止血が出来なければ何の役にも立たない。目の前に瀕死の患者さんをおいて手も足も出ない。」こういう世界には徒弟制度が生きています。これが人間世界に自然に発生した、知恵を受け継ぐ仕組みです。学校はこうした家庭などの代用品です。家庭の意義を再認識しましょう!家庭こそが学校の始まりです。両親こそが先生の始まりです。

お料理の技術は観察と経験から生まれたものです。お料理に働いている法則は、マクロビオティックを知っている方には耳慣れた(?)宇宙の法則です。温めるとはどういうことか?子供時代に習った小学校や中学、高校の理科や物理化学を思い出してください.海風山風のこと、お風呂のお湯のこと、高気圧低気圧の事、融解の事、化合の事、みんなお料理のお鍋の中で起こっていることです。そしてまた体の中でも起こっていることなのです。

宇宙の法則は物理や化学の法則として身近に実際に起こっています。それを知ってお料理に生かすことを知る必要があります。マクロビオティックのお料理原則は、宇宙の秩序です。これを壊さないように下拵えをし、これを再びお鍋の中で構築する――だから出来るだけ捏ね回さない、自然が首を傾げるようなものを入れない!自分の体から放出されているものの正体を知って、正しい心掛けでお料理をする!自分が勉強してきたマクロビオティックの知恵を、自分でお料理の中に生かしましょう。陰陽の中庸を図り、自分の体と自然の関係を測りましょう!そういう知恵を一緒に考えていく場として、私の小さな教室はあります。ブログでしか交流のないマクロビオティックを始められた方にも、少しは参考になればというのが密かな願いです。
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