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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

あごの季節

2016-09-29 12:27:13 | 平戸

今月平戸はあごの季節を迎えているはず・・・・・。あごはしいら(平戸ではひうお、秋のお彼岸のお刺身の定番です。)に追われて平戸地方にやってきます。昔は押し寄せたこともありました。最近はめっきり少なくなりました。海水温が高くなって海流に変化が起こったとか・・・・・言われています。我が家にも恒例のあごが届き、平戸の味とあご風を懐かしみ、そしてお助けメニューが出来ました。

 

そんなあごがヤフーニュースに上がりました。何と『あごだし』がブームなのだとか?????・・・・・それも粉末にされるのだとか・・・・・それでトロ箱一杯のあごの値段が10倍にもなりそうなのだとか・・・・・でも、平戸の伝統の知恵の『焼きあご』が認められたのではない・・・・・のですね。何だか訳の分からない商品の材料にされてしまうのは悲しい気がします。


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作陶体験2

2016-09-22 11:48:56 | Weblog

孫娘との夏休みの思い出・・・・・が届きました。

 

                                   

       

高台とその周辺が削ってあるので、思っていたのとちょっと違った雰囲気ですが・・・・・孫娘のところにも届いたようで写真を送ってもらいました。なかなかの出来で、感心しました。このお湯呑みを見るたびに、孫娘との多治見の夏を思い出すでしょう。

多治見にはこうした体験施設がかなりあって、年中開かれています。今回の私達の体験のように1~2時間のものから、数日間や長期にわたるものまであるようでお勧めです。結構楽しいものだと思います。


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内藤記念くすり博物館2

2016-09-11 10:29:18 | 季節・週末散歩

8月の最後の週、娘が訪ねて来てくれて、夫と三人連れで内藤記念くすり博物館を見学に出かけました。娘は初めて、私達夫婦は2度目・・・・・この博物館は何度も見学をする価値があると思います。2年くらい前の記事『内藤記念くすり博物館』では博物館についてご紹介したような・・・・・それで題名を『・・・2』にしました。

 

博物館前の庭園は薬用の植物園で、ここも様々な『名前だけは聞いたことがあるけれど・・・・・』という植物や樹木を生きた状態で見ることが出来ます。ボランティアで解説をしてくださっている専門員のお話しを聞きながら回ることが出来ました。(ありがとうございました!!!)面白いと思ったのは『名にし負わば・・・・・』と百人一首などに詠まれている『さねかづら』・・・・・『ていかかづら』という、藤原定家を『名にし負った』同種類(?)のかづらも並べて植えてありました。

外の温室には珍しい木が栽培されています。コラ(コーラ)の木、マンゴー、コーヒー・・・・・ミルラ(没薬)・乳香・・・・次の2枚は、そこで娘が撮ったカカオとパパイヤの写真です。   カカオの白い小さな花とゴロンと大きな実のなんとも奇妙な付き方には何度見ても意表を突かれます。

 

 

 


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従妹が亡くなりました・・・・・

2016-09-06 09:28:22 | Weblog

8月13日お盆のさなかに従妹が亡くなりました。この従妹はなんでも私より上手にこなすとても器用な人でした。年上の私が毬つきの手ほどきもしてもらいました。ゴムとびも・・・・・レース編みもしていました。運転免許も取り、私の出来ない高速道路の運転もしていました。私が感心すると、「自分の足の代わりだから、当たり前のことよ!」と言いました。従妹は幼いころ列車事故で手足の指を失うという大惨事に遭っています。

 

戦後軍人はみな職につけなくて父は平戸に帰って残された田畑で農業をしていました。従妹の母である私の叔母は同じ敷地内に住んでおり、二つ下のこの従妹と私と同い年の従弟(従妹の兄)とがおりました。私には年子の弟がおり、毎日四人でにぎやかに遊びました。このころの落書きが間もなく取り壊される家に残っています。そんなある日父と母が私達子ども二人を連れて農作業へ出かけようとしていました。その日のこの場面だけはまざまざとよみがえります。そこへ従妹がやってきましたが、仕事をしに出掛けるにあたって実の子さえ手を取るところ、従妹を連れて行かなかったのは仕方のないことだと思います。叔母のところへ行くように言ったのか何と言ったのかわかりませんが、従妹が手を振って見送ってくれた画面だけが鮮明です。私が実際の場面として覚えているのはこれだけです。

そのあと従妹は家のすぐ近くにあった踏切で汽車に敷かれました。体の弱かった叔母は自宅で休んでいたそうですが、けたたましい汽笛に飛び起きて現場へ駆けつけ、血まみれになった二歳くらいの娘を抱いて外科へと走ったのだと聞かされています。助けを待っていては死んでしまうと本能的に叔母は悟ったのだと思います。昭和28年ころのことで、戦後何もない時代でした。絶望的な状況の中で、従妹は命を取り留めました。そして従妹は両手の親指以外の八本の指と片足の指を失いました。従妹から「まだ指がある!」と大事にしている幼い日の写真を見せてもらったことがあります。私と二人並んで写っていました。私とは、大人になってからは大人ゆえのいろいろな問題もありました(考えてもみてください。世の中良いことがあれば反面は悪いことになるんです。従妹は慈善家でしたから、従妹の側にいる者は犠牲を強いられることになるんです。)が、ずっと特別な間柄でした。最近は平戸を離れているのでたまにしか顔を合わすことはありませんでしたが、亡くなってもう居ない従妹の母である叔母と私とは三人独特な精神的間柄を持っていたと思います。

 

その事件があってから事故現場の踏切にはお地蔵さまが祀られ子供の無事を祈っておられます。このお地蔵さまは我が家の敷地内に住んでいた芦塚さんという方が立ててくださったものです。私達はそこを通るたびにお祈りをささげました。従妹本人も、そして心の中に辛さを抱えたに違いない私の両親も・・・・・私達は父と母から祈ることを教えられました。従妹の事件を知っているたくさんの方も・・・・・いつもきれいにお掃除がしてありお花が供えられていました。

 中年になって従妹は障碍者福祉に全力を傾け全国的に活動をしました。障碍者施設のお手伝いもしました。それを生きがいにして一生懸命働いたと思います。当たり前の身体的条件を持っていても、人並み優れた幸せな環境にいても、生きがいを無くす人はたくさんいます。そういう意味では、生きがいをいつも鮮明に感じながら人生を過ごして終えました。そうしなければ辛かったのだと思います。色々な屈託を心の底に折りたたんできたと思います。外に行くのも誰か身近な者と二人で行くことを好みました。それは悪気はないとわかってはいるんだけど他人の好奇の目から身を隠すための盾がいるんだと本人から聞きました。それからは人前に手を出さなければいけない作業、例えばお金の支払いなどは代わることにしていました。普通の人間が思いもよらぬことをいつも感じて生きてきたのだと思います。

 

20~30年前だったと思います、従妹が真剣な表情で『相談がある』とやってきました。そして『乳房のしこり』なるものを見せてくれました。ですがその時その『しこり』なるものは既に地面に現れた松の根のようになっていて、従妹に私の狼狽が伝わらなかったか・・・・・と気になるほどびっくりしました。すぐに舅に相談して紹介状を書いてもらい受診することになりました。いつごろからそんなになっていたのか・・・・・・とにかくその時すべきことは現状の把握以外にありませんでした。それから従妹は手術を受け、どうやって知ったのか、東京で漢方薬を特別に処方してもらって数年間を無事に乗り切りました。私の食事の話も聞き、まあ従妹が受け入れられる範囲で受け入れてくれました。その10年後くらいにもう片方に癌が見つかった・・・・・と言って入院しました。受け入れ難かったと思います・・・・・手術をするかしないか・・・・・ずいぶん考えあぐねただろうと思います。そして今から5年ぐらい前には夜中に東京に電話がかかってきて、形成外科にも付き合いました。

 

 

そういう従妹に私は祈りをささげなければなりません。そして、毎日祈っている両親に対する祈り方とは違う、冥福を祈るということがどういうことなのか・・・・・今回の従妹の死で直面しています。


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