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靖国裁判

2005-10-01 09:50:57 | 父の懐
大阪高裁で首相の靖国参拝について違憲との意見が添えられました。これを前述したローマ人が聞いたらなんというでしょうか。多くのそれこそ真の血税(防衛の義務)で守り通した国家という民族の運命共同体に奉仕し殉職した人に対して、国家の最高責任者が参拝したらば、それが国家最高法である憲法に違反するというのです。

その殉死者の祭祀の仕方が気にくわないと言うのでしょうか?そもそも神道とは一体何なのでしょうか?私達日本人はおおかた各家庭に仏壇と神棚とを持っています。カソリックの人たちだってお正月の年神様をお迎えするのではありませんか?外国の新年は日本のように特殊ではありません。お正月の行事は完全に神道の生活風習です。厳密にいって神道は宗教ではありません。神道は先祖の祭祀です。祭祀というのは形ある人と形亡き人との交流の仕方の儀式で、その生活版が神道、神ながらの道です。今ある自分達と神に還った人達との共同生活が神道による生活風習です。仏教伝来は奈良時代、キリスト教伝来は戦国時代、色々な人がそれを受け入れてきましたが、もっともっと古い日本人固有の先祖達との共有意識は、決して忘れていないのです。それを忘れる事は、先祖との交流の断絶なのです。いいではありませんか。神道こそ太古の昔からの日本人と交わることの出来る方法なのですから。それに先の大戦でなくなった方達は、各家庭の持仏壇とは別に、靖国で会おうと誓って逝かれた人達なのです。靖国に降っていらっしゃるに違いありません。

そもそも宗教と祭祀は違います。宗教は真理の道(?)かもしれませんが、祭祀は真実の道です。あの方々が生きておられたという真実の道です。あの方々が生きておられなかったら私達はないのです。日本人の祭祀の心は、感謝と畏れです。感謝は先人達のお蔭様で、畏れは心残りへの鎮魂です。ですから共に直会いを楽しんで、心のつかえを解いて頂くのです。日々鎮魂の祈りを捧げるのです。形亡き人達の心のつかえは、ちょうど血液ドロドロみたいなものです。ドロドロの血液が私達の身体によくないのと同じように、心(波動)の世界のつかえという滞りも私達子孫の身体に波動の滞りをもたらします。子孫は先祖のお祭りをしなければならないのです。なぜって私達は先祖の一部だったのです。

靖国に祀られておられる方々は、国のためと固く信じて亡くなられました。そして子孫を残さずに若い命を捨ててくださった方が多いのです。その方達の鎮魂をする事は、国家の最高責任者の務めです。それは現国民の幸せのためなのです。そもそも死者を捨ててしまう国家とは、歴史を捨ててしまう国家です。そんな国家は国家ではなく、利益団体です。
国民とは、少なくとも過去2千年、未来2千年の国民全てを含むと思っていたほうが良いのです。選挙や国民投票が意味のあるものかどうかは、歴史を背負っているかどうかの一点につきます。政治は国民の幸福のためにあるのです。信教の自由とは、政治から人間性を消し去って、無機物的にすることではないはずです。

私達は子供から捨ててしまわれたいでしょうか?私達は親なくして生きていられたでしょうか?死んだ途端忘れてなかったことにしてもらいたいでしょうか?神道は素朴な日本人の心から生まれた生活習慣です。だから私達は今でも除夜の鐘を聴くと初詣に駆り立てられるのです。もっと素直に生きましょうよ!

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