inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

マクロビオティック教室の話

2006-05-24 09:11:06 | Weblog
5月の教室が終わりました.月にたった一度の教室ですが,それでも時間配分など結構気を使います.一段落して試食をしながら質問,感想色々と乱れ飛びます.それが面白くて楽しい教室です.結局終りは5時を過ぎてしまいました.冬などは遠くから来て下さる方のお帰りが心配になりますが,夏場は明るくて気が緩みます.最初の2回は具体的なマクロビオティックの進め方を中心にお話してきました.とりあえず毎日実際に食べて頂かなければならないからです.お料理は主に基本と工夫の仕方の実習です.私の教室は自分のお料理に対する態度を反映するしかありませんので,普通のお料理教室のようなレシピをお教えするというスタンスではありません.自分のお料理をするためのガイドラインの教室です.

雑談で死後の世界に話しが及びました.皆さん興味がおありのようでした.そのことについても何れ話しが及ぶと思います.生まれる前も死後も人生(?)なのですから.次回からはマクロビオティックの概要についてお話を進めていく予定です.暮らしの中のマクロビオティックの中心概念は食と身土不二だと思います.食は変化の法則,身土不二は表現の法則です.教室での話はこの周囲を色を変え形を変えてぐるぐる回っているようなものです.つまるところその二つしかないと思っています.また私のつたない話を聞いてください.楽しそうに聞いてくださるお顔を拝見するととても楽しくなります.有難うございました.
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たたなづく青垣山ごもれる

2006-05-15 10:26:44 | 日本語・古事記・歴史・日本人
このところお天気の思わしくない日が続いていましたが,昨日の日曜日は久方の五月らしい一日でした.日曜日は母の見舞いが日課ですが,歩いて行くことにしました.花の季節はすっかり終わって何処も彼処も新緑に覆われていました.それでふと心に浮かんだのが,日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の望郷の歌.

 大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 大和しうるわし

ああ,美しいなあというのが感想です.いまの季節の緑は人の心を洗いますよね.それにしても,日本武尊の故郷を慕うお心が伝わってきます.そして思うのが,異郷の地に屍を曝しておられる戦没者の方々のことです.異郷に果てることを余儀なくされた方々の望郷の念がひたひたと伝わってきます..「青山(セイザン)いづくんぞ 墳墓の地」という言葉がありますが,それは聖人ですっかりこの世の真実を諦めた人間のさとりです.マクロビオティックでは身土不二といいます.私は遺骨収集は残された国と国民の義務だと思います.

土は地面にあるものだというのが,大方の日本人の常識ですが,土曜のNHKのマヤ文明探訪番組で,土というものが如何に貴重なものかを目の当たりにしました.土というのは,簡単に言えば動植物の屍骸が積み重なったものです.だから土は繰り返し繰り返し生命になり土に戻りしているのです.身土不二ということの実態と,そして誰もが持つ望郷の念の意味を改めて思わせられました.日本武尊は望郷の歌を残して能煩野でなくなられましたが,そこから白鳥となって故郷に帰られたと伝わっています.

たたなづく という音の持つ魅力に、初めてであった時この歌のとりこになりました.ブログを始めた時にもご披露したように,私の日本語探訪は 「タナバタ」という音に始まりました.タナバタ、タナダ、タタナヅク・・・・古事記に残された古代歌謡は日本人の心の故郷です.戦後急激に切れてしまった日本人の心の音をもう一度取り返したいものだと思います.そういう意味では邦楽が中学に取り入れられてきたことを喜ばしく思っています.

皆様上智大学の渡辺昇一先生をご存知ですよね.渡辺先生の名著「日本史から見た日本人」三編,その中の古代編で弟橘姫への熱い思いを語っておられます.そこで弟橘姫の有名な歌を胸詰まらせて(多分?)紹介しておられます.

 さねさし 相模の小野に もゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

渡辺先生は,日本武尊のように熱い心をもっておられるに違いないと思いました.とてもすばらしい歴史書です.私達の体は日本の土となり日本の農産物となってまた日本人の体に生まれ変わります.そういう日本人のための国の歴史というものは、歌という響きの中に伝えられていくと思います.和歌は身土不二の、もう一つ別の心土不二です.和歌に親しんで下さい.下手でもなんでも構いません.“ウタ”ならよいのです.心の底から出て来た響きならよいのです.自分で出来なくても,共鳴する歌人のウタと仲良しになれます.日本にはたくさんの和歌や詩がありますから!


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母の日子供の日

2006-05-13 09:50:02 | 父の懐
もう直ぐ母の日です.今宅急便の配達の方から母の日のプレゼントの配達のピークで忙しいと聞きました.それで昔子供と話したこと、父と話したことを思い出しました.

子供たちは小学校時代「母の日はどういう日か,敬老の日はどういう日か,お家の人と考えてきてごらん」という宿題(?)をもらって帰ってきました.子供達のインタビューが始まります.「母の日は,日頃お母さんに感謝しているか反省する日」,「フウーン?」,子供たちはノートに書きます.「敬老の日は,日頃お年寄りを大切にしているか反省する日」,「そうか!」,これもノートに書いて行きます.私は学校行事のその日だけの取って付けたようなやり方にちょっぴり皮肉交じりの答えをしました.どうにかして子供の心に毎日の積み重ねを教えたいと思いました.先生にもそのことに気がついていただきたいと思いました.その日にお花を一本お母さんに届けてありがとうを思い起こすのではなく,毎日毎日がどのような思いでつづられていくか,お母さんの仕事が一体どのような性格のものなのか,先ず先生の心に思い浮かべば,一人が何十人にも広がっていきます.先生のお仕事というのは本当に大切だと思います.先生のお仕事は,親の仕事のようなものだと思います.生命は休みのない仕事によってつながれていきます.親の仕事というものはその最先端です.生命に直結している仕事ほど休みは取れません.お百姓も同じだと思います.

この母の日問答は私と父の間にもありました.同じ様に父から教えられたことがありますが,私は「父の日はどうしてないの?」と質問をしました.当時は父の日はありませんでした.「毎日父の日だからいらないんだ」と父は答えました.思えば当時の母はいつも父のありがたさを子供に見せていたと思います.子供心に父は偉いんだとも思っていました.そのような暮らし振りがあったからでしょう.父も私達には大きく優しく威厳に満ちて輝いていました.父の日があるということは,父の威厳が落ちてしまった証かもしれません.
記念日がなければ思い起こさないというのでは,どうにも情けない人の心ではありませんか.ちなみに子供の日は,子供の成長を喜び感謝する日でした.子供にサービスする日ではないと思います.先祖を思う日といったほうがよいかもしれません.
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田植えの季節

2006-05-09 09:58:00 | Weblog
田植えの季節になりました.今の時期に我知らず口ずさむ歌は,「卯の花のにおう垣根に,ホトトギス早も来鳴きて・・・・」.早稲の田んぼはもう田植えが終わって,あの大好きな,玄(くろ)としか言い様のない水の色にさみどりの小さな苗が並んでいる風景がひろがっています.昨夜のテレビで,お隣の松浦市福島町の土谷の棚田の幻想的な火祭りが紹介されていました.もう全部田植えが済んでいました.福島町は伊万里湾に浮かぶ島で長崎県に属していても佐賀県と橋でつながっていますが,日本海を通過する台風の時期を避けて取り入れが出来るように早稲が選ばれているのだろうと思いました.入日に映える美しい棚田が有名だそうです.棚田を守る方々の農作業の大変さを思ってありがたくなりました.

此処でご紹介したいのが,富山和子さんの名著,「日本の米」です.中公新書だったと思います.読まれたことがない方はどうぞお読みになってください.自分の中に住む先祖の熱い思いに心が熱くなります.他にも「水と緑と土」など日本の自然がいかにして守られてきたか,自分達がどうしなければならないかを教えてくれる著書がたくさんあります.最初は子供に向けて書かれた「川は生きている」でしたか,それで富山和子さんを知りました.本当に素晴らしい必見の書です.私は言わずもがな,お読みいただきたいと思います.

「五月雨の注ぐ山田に,早乙女の裳裾濡らして,玉苗植うる夏は来ぬ」.さ~みだれのそそぐ・・・・・・・夏~はきぬ~~.なんとなく日本人の心に住む人麻呂を思い浮かべながら,またフンフン歌います.この歌の音は本当に美しいですよね.美しい音の響きは私達の体も美しく整えてくれます.口から出る言葉が美しいようにと畏れ祈ります.以前ちょっとご紹介したことのある「ホツマツタエ」では,イザナギイザナミ両尊が国の乱れを回復なさろうと国民の言語を整えてまわられました.それが「あわ歌」というものですが,音の響きは本当にそのものの実体を表します.今でも安全検査などに叩いて音を調べるものがありますし,聴診器というものもあります.音は意味そのものです!
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男子厨房に入るべからず

2006-05-04 17:35:01 | Weblog
atsuko-fさんとブログで家庭についてやり取りをしていて思ったのですが,皆様ご存知の今日のタイトル,「男子厨房に入るべからず」.今では九州男児の沽券のように言われています.でもそもそも何処から言われ始めたのでしょうか.詳しく調べたわけではありませんからなんとも断定できませんが,家庭というものの生態(?)を考えると思うところがありまして,和子説を述べたいと思います.皆さんはどう思われますか?

これはお料理をするなという意味ではなく,お料理や献立について口出しするなということではないでしょうか.男子たるもの,出されたものをありがたく食べればよいと.つまるところ,支配権の問題です.家庭の表は男の支配,裏は女の支配.端的に現れたのが徳川家の奥向き.女の束縛がひどくなったのは,徳川時代平和が確立されてからでした.でも大奥の創成期には、あの戦国時代という男の力の時代にも、生命として男女の対等な意識が脈々と太古の昔から(?)受け継がれていたと思われます.それで大奥の支配になかなか表の支配の及ばぬ機構を作ったのではないかと思います.しかし力が権力というものに入れ替わって社会が出来ると,何しろ権という字の意味は実体のないということですから、観念上或いは組織上の権力に基づかない女の地位は無視され始めます.それで段々と女の意識も変化して,持ち前の忍耐強さを発揮して暮らしてきましたが,日本という国柄,そう変化しようにも食べているものが,天照大神の御神勅以来の五穀ですから,変わろう筈がありません.表は男の権力,裏(家庭)は実力の世界になったというわけです.実力は歴史がものを言いますから,長年培った男女の関係がそのまま残りました.

何しろお隣近所のお付き合いというものもあります.お隣から女ばかりが出てくるのに男一人出たところで何も出来ません.そういうわけで女の世界は意識の歴史の中に定着していきます.表向きに口を出さないのも習慣になります.それで男子厨房に入るべからずになったのではと思います.お台所のお金のやりくりにも当然口を出してはいけません.倹約令の発布は出来ますが,今日はあれが食べたいだの,これは食べたくないだのとは一切口をはさんではいけないのです.男女の息があって家庭を切り盛りしているのであれば,当然お互いの気持ちを察しているから,互いの表裏に口を出さないのです.主人は家の表,主婦は裏.裏の実権を握るのは誰かといえば,圧倒的に女が多いというのが歴史上の事実でしょう.だから徳川家も宮中に一姫を入内させたし,藤原時代の摂関政治もありえたのです.

マクロビオティックでは男女のどちらがお料理をするべきかという問題について,現在の社会情勢からなんとも言っていませんが,基本的には女がお料理を担当するのが生理的にもあっていると思います.仕事としては別です.家庭でという意味です.ただ社会組織の中で裏が評価されないままにすると,社会に目覚めた女(?)は納得しないかもしれません.男も女も裏に対する意識変化が必要でしょう.男は忍耐強い優しい女を妻にすることが,この世の幸福でしょう???女は裏では完全に手をあげてくれる男を夫にするのが一番でしょう???
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今日は

2006-05-01 16:40:45 | Weblog
今日は異様に生暖かい日です.家の中に居ると大して気になりませんでしたが,一歩外に踏み出した時の異様さに驚きました.今年は梅の時期から寒さと暖かさが繰り返して,当地方では梅の実があまりついていません.自然界の草花や動物たちはどのように対処するのでしょうか.それぞれの立場で皆違うのでしょうが,梅の対処の仕方もその一つでしょう.一面黄色に染めていた菜の花ももうすっかり菜種になっています.一年草は早く種になり,そうでないものは実をつけないのかもしれません.さくらんぼも少ししかついていませんし・・・・異常気象の前触れでしょうか?

思えば「こんにちは」という挨拶の言葉は,世界各国共通ですよね.こんにちはの次には良いお日和でと続くのですから.それ程お天気が人間の重大な関心事であり,重大な事件だったからと思われます.ということは今も人間の体にとっては同じことなのではないでしょうか.私たち人間の体は常に大気の変動と共に変化し続けており,それにうまく対処できるかどうかがその人の健康能力というものだと思われます.

マクロビオティックでいう陰陽の調整は大気の変動と共に変化する自分の調整ですよね.意識が衣服を一枚脱ぐことに至るのと同じように,食べ物の調整にも自然に及ぶようになりたいものです.気候の変化をありのままに受け止めましょう.そして自然界からあまりにもかけ離れた社会に住む人間として,それが人為的な原因のためであれば,謙虚に反省して改めるようにしましょう.自分がきれいになるために,或いは楽をするために自然を汚していないか?お化粧落しが水や空気を汚していないか?お洗濯が水を汚していないか?自分の周りにいるものを言わない虫達を生かさないものは,結局自分を生かさないものです.醜い(?)虫達と共に生きましょう.昔話にも,「虫愛ずる姫君」という話があります.私達の中に住む虫愛ずる姫君の声を聞きたいと思います.
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