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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

平戸文旦園オーナー募集

2018-03-31 18:25:34 | Weblog

                                     

平戸文旦園オーナーの今年度の募集が始まりましたので、お知らせします。

 

                         お問い合わせ:平戸文旦園

                   0950-57-3616

                   859-4815  平戸市田平町下寺免684-5


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海棠の花

2018-03-28 15:37:37 | 季節・週末散歩

                                                                

実家の立ち退きで我が家の庭に移植してもらった海棠の花が咲き始めました。このかわいらしい花が残ってホッとしています。周囲は桜が満開になって・・・・・見事です。我が家はモクレンも終わり、ネコヤナギも終わり、山茱萸も終わり・・・・・新緑の候を迎えようとしています。だけどネコヤナギや山茱萸は残骸も愛らしい・・・・・

  すっかり葉だけになった蝋梅・・・・・   山茱萸は花弁が落ちてしまっても、まだ花が咲いているようです。


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鶴の北帰行

2018-03-10 18:08:46 | 季節・週末散歩

春が来ます。あるいは春になりました?????先程上空を鶴の群れがシベリアに向かって通り過ぎてゆきました。騒がしい声を聞きつけて夫と二人庭に出て見送りました。大自然の循環を思うと同時に、『鳥は風なんだなあ!!!!!』との思いを実感しました。


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道とは何か?

2018-03-05 13:28:31 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

    日本人の文化・特徴・・・・・その最たるもの『道』とは何か?

 『道(ミチ)』とは『今の先にある命の続き』である。後に出来るものは足跡であって、道ではない。

 

「私達日本人は何にでも道を求める」と言われてもいるし、自分たちでもそう思っています。私達の周りには『道』があふれています。茶道・華道・歌道・士道・剣道・柔道・空手道・修験道・・・・神道・・・・・何にでも道を作って人生の真実を究めようとしていますが、その『道』とは何ですか?????『茶道を学ぶ』とは、お茶のたて方を学ぶことではありません。『華道を習う』とはお花の活け方を学ぶことではありません。『剣道にはげむ』とは木剣で勝つ方法を学ぶことではありません・・・・・美味しいお茶のたて方を学ぶうちに何かを会得していくことです。美しくお花を活けることを学ぶうちに何かを会得していくことです。相手に勝つために修練するうちに何かを会得することです・・・・・その『会得』に向かって続いているものを『道』と私たちは呼んでいます。ですから、明らかにしようと思っても明らかにできない、訳の分からないけれど求めざるを得ない、ある意味苦しい孤独なものでした。具体的な体の動きを通して、形のない心のありようを求めていく・・・・・だけど、そのゴールについては説明できない。そんなジレンマを抱えていたと思います。その上、千差万別・・・・・それぞれみんな違っている・・・・・これでは説明のしようもありません。さらには、極道と外道というものまであるのです。(お天道様もあります。)

 

ここのところ、貴乃花親方のおかげで『相撲道』なるものについて、日本国中(?)考えさせられました。日本人の精神生活上必要条件について考えてみる良いチャンスだったと思います。前述したように私達の周りには種々様々な道があります。だけれど、一人一人がそのすべてを辿っているわけではない!!!!!・・・・・幾つかまたがっている場合もあるけれど、たとえばお茶もするしお花もする、あるいは剣道もすれば弓道もする・・・・・お茶もたしなむけれど柔道にも励む・・・・・そんなこんなして道の先にあるものを求めて自分の人生を完成させようとしています。つまり、日本人にとってこれは『人生道』ともいうものです。そしてそれを完成しなければ、自分の人生を全うできないと感じています。お茶とかお花とか、竹刀とか弓とか、貴乃花親方にとっての相撲道とか、そういった限定的な細い道をたどることで、今生という限定的な束の間の人生においてあまりにも広大な人生の『人間とは何か』という最終問題に解答を得ることが出来るのではと、私達日本人は感じています。

そして、これはすべて神道(カンナガラノミチ)に由来しているのだと、私は思います。神道とは、神様の道ではなく、人間の道です。そして神道が成立する以前に日本語を成立させた古代日本人(私はその人々を『ワタツ人』と呼んでいます。)の生きるスベ・『カタカムナ』という人生観とも言うべき思索です。世界中で『神様とは何か』という問いに答えを出している唯一のものです。『道とは何か?』という問いに回答できる唯一のものです。それで、『道』とは・・・・・・その人の希求してやまないものが、その人に向かってやってくる『その奥』に続いているものです。『その奥』に何かが見える・感じられる・聞こえてくる・・・・・その人にとって『そっち』に行かざるを得ない・引っ張られる・・・・・そんな方向に続いているものを『道』と呼びました。それ以外に行きようのない人生そのもの・生きることそのものが『道』です。このミチは『道』でもありますが、カタカムナにとっては『満ち』でもあるのです。『満ち』の方が言語学的に言えば元に近い文字です。それは命の元方向から命を満たされる状況を表しているからです。それで、そういう言語を持った日本人は『道』を求める意外に生きようもないのです。というより、『道』を見つけることに気が付いた民族ということができます。これがどんなにか日本民族の幸せに寄与したか、はかり知れません。なぜかと言えば、その道に外れていないか、常に自分の心に問わねばならないからです。何に問いかけるのかといえば、以前『法と鏡』という記事で触れたことがあるように、向こうから満ちてくるもの(カのカのミ)と自分が同じであるかどうか、照らし合わせなければならないからです。違っていれば、『違うんじゃないのか?』という違和感が湧き上がった自分の心を認識してしまうのです。私たちは自分を照らす『鏡』を持ってしまったというわけです。

 

そしてさらに、このことが『日本語』というものが何か、ひいては『言葉とは何か』という問の答えも示しています。私は『カタカムナ』に行き着いて私の『今生』を完成に近づけることが出来、以前にもご紹介したことのある『己一人知って何になる』という言葉を自分の生きがいにしましたが、世の中は『道』を見つけても『道』をたどる方法についてはあまり興味がないらしい・・・・・・・・・・のかなと、思っています。

 

3/6追記:この文字色の部分を追記しました。


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