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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

『自然食品和み』さん

2012-11-27 09:49:30 | 自然食品和みさん

時々記事に登場する自然食品和みさんは、人口過疎の辺鄙(?)な地で周辺のマクロビオティックや自然食を志向する人々にとって無くてはならないお店です。私の平戸でのマクロビオティック教室もおかげで成り立っています。

お店の商品はまあ普通の自然食品店と大差無い品目ですが、お店の特色は独自の『エネルギー変性加工』による商品の品質向上です。この『エネルギー変性加工』という一見いかめしいような恐ろしいような印象を与える(?)名称を持った加工法ですが、これはカタカムナ解読の苦難を一身に引き受けられた楢崎皐月先生の解釈を汲む、まったく自然な還元法ともいうべき加工法で、そのものの持つ命の若返りというか、復元というか、命の源より与えられた生命力賦活法と言うべきものです。

これは生きているものには全て作用するもので、私達人体にもその理論は適用されますが、特に商品に対して考案された加工法です。それで『命』という『力』の『張り』のあるものを『エネルギー変性加工』すると、商品が生産されて以来たどってきた命の消耗による疲労を回復させて、元気のある生まれたての、或いは本来持つべき命の作用を取り戻すものです。それで同じメーカーの同じ商品でも自然食品和みを通して購入すると、美味しさが違うように感じるのです。

この加工法は広い意味での命の無いもの、つまり自然でない物(たとえばプラスティックなど)に対しては何の作用もしません。先に述べたように命というものは『力』の『張り』ですから、動いているものです。その動きを古来『気』と言い、その気の向きによって陰陽と種類分けしてきました。これが無い食物は胃にどっしりと重いかもしれませんが、ほとんど何の役にも立ちません。一時的な飢えをしのぐばかりで、胃腸の負担になるものです。『七匹のこやぎ』に出てくる石を詰められたおおかみの状態ですね。私達は人体に生き生きと働きかける食物をとらなければなりません。その作用が身体のひずみを解消してくれることになります。現在のような食物供給事情では、本当にありがたいものです。

食品の品揃えは私の友人でもある社長の堀江さんの目による、生産者の思いの丈を汲みとった選抜ですが、一般の自然食品のほかに独自の商品もあります。主なものはお塩と、お水を整えるためのアクアチャージャーとお風呂用のバスチャージャー(商品名は違うかもしれません)、それから携帯などの充電時に悪い作用を持つ電磁波をカットするためのハーモナイザーなどです。私達の究極の姿は波動なのですから、波動のままの食べ物(取り入れるもの)にも当然気をつけるべきです。それほど高くないとはいえ決して安くないかもしれませんが、家族で共有できるものですし命の値段としてはかなり安いと思います。一般の商品は一般定価です。

記事にコメントを頂いたこともあり、自然食品和みさんを取り上げました。電話注文で自宅に送ってもらえるので、ご自分の必要に応じてご利用いただけると嬉しいです。電話が0950-23-2566、注文用携帯が、080-1788-2566、メールアドレスがtoki-nagomi@docomo.ne.jpです。よろしくお願いします。




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お布団考・まくら

2012-11-15 11:38:19 | 季節・週末散歩

運動不足が慢性的な私は、基本的に肩凝り症です。マクロビオティック修行が足りなかったのか、足りないのか、一時的に解消することはあってもなかなか脱却できません。それが『まくら』に並々ならぬ関心を抱く理由です。

子どもや若い時はどんなにしても上手に体を動かして好みのねぐらを作ることが出来るかもしれません。でも私はそれを難しく思う歳(?)になりました。まくらが低すぎると朝頭が重い・・・・まくらと肩がうまく合わないと肩がこる・・・・まくらって本当に大切で、寝心地そのものを変えてしまいます。頭と首と肩の高さの微妙な調節が必要です。

ところで今日はまくらの中味のお話です。新米の季節になって思い出しました。私が小さかったころ、父が農業をしていた頃のことです。家族総出の稲刈りの後は当然脱穀!あの筵をかけた脱穀機を思い出します。そして新しいもみ殻も出来ます。そのもみ殻をさらによく乾して(或いは洗ったのかもしれません)、新しい『まくら』を母は作りました。お日様のにおいあふれたまくらの季節、子供時代のまくらを懐かしく思い出します。自分の好みに合わせてもみ殻の量を調節しました。頭の座り心地の良い『まくら』でした。

何も無かった時代の工夫だったのかもしれません。ソバガラより粉になりにくく、へたりませんでした。中々会心のまくらに行きあたらないためか、あの『まくら』を懐かしく思い出す今日この頃です。




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随想古事記・おわりに

2012-11-06 09:31:49 | 父の背負子1(随想古事記)
『おそれながら・・私の仮説』で『随想古事記』のシリーズとしての発表を一段落させたいと思います。読んで下さった皆様にお礼申し上げます。

以前にもお話したかもしれませんが、古典の範疇に入っている書物の著者は別にして、私には尊敬をこめて師と呼ばせて頂く方が五人いらっしゃいます。第一にカタカムナ解読の楢崎皐月先生と宇野多美恵先生、次にマクロビオティックの桜澤如一先生と久司道夫先生、最後に言語歴史学の川崎真治先生の五人の方々です。直接お会いしたことがあるのは久司先生だけです。また私にとって両親は、古事記で言うアメノミナカヌシ以来の歳月の記憶と同じです。私の古事記は両親から受け継いだものに、それ以後私の周囲に袖振り合った様々な出会いで得ることのできた意味付けによって成り立っています。この五人の先生方が私の記憶に入り込んで下さった賜物です。私の記憶は言わば受け売りで、それが誘発した新しい記憶ともいうべきものが、今回の随想になりました。ここまで付き合って読んでいただいて、こんなに嬉しいことはありません。

私の父は深江圭三といいます。もう亡くなって二十年近くなります。父は大正十一年生まれで、仙台幼年学校を卒業し、陸軍士官学校の第五十六期生です。多くの同期生が亡くなった大東亜戦争を一日違いで生き残りました。敗戦による終戦が決まった日、父がどんな思いでその日を過ごしたのか、もう誰も知りません。父の姉である伯母から聞いた『自決しないかと心配した』という言葉だけが当時の家族の緊迫感を伝えていると思います。父は茫然自失状態で列車に乗って平戸に帰って来たらしく、軍刀に仕立てなおした先祖伝来の刀を列車の中で紛失したのだか、盗まれたのだか、それこそ丸腰になって帰って来たとその伯母から聞きました。

若い父はそれから結婚し、私が生まれました。弟も年子で生まれました。その頃の写真を見ると、筒袖のような着物を着ています。あまり覚えているわけもありませんが、父の懐の桜のような匂いが写真を見ると頭の中に薫ってきます。ブログ記事の『とんご柿』の思い出もこの頃のことです。それから自衛隊が結成されて、父は航空自衛官になりました。北は宮城県矢本から九州の福岡県築城まで、私と弟は転校しながら全国的に移動しました。

戦後一変した価値観の中で父は前時代の価値観で生きている人と思われて生きました。父の時代、自衛隊は名誉ある地位を与えられていませんでした。陸軍大尉の誇りを胸に秘めた父にとって処し難い時代だったと思います。それでも私にとって父は光り輝いている人でした。私の目に映る父は学校のどんな先生よりも優れていました。尋ねて知らない事はありませんでした。

父は自衛官を退官した後、本州製紙の富士工場の男子寮の舎監をしました。母にとってはかなり抵抗があった模様です。でも父という人は自分にこだわりのない誠実な人生を送ったと思います。母がつけた父のあだ名は『貧乏仙人』というものでした。子供のころは『旗色鮮明』というのが家族内のあだ名だったそうです。祖父母の意見の食い違いにいつも、『はい、お父様が悪い』と祖母に軍配を上げていたのだそうです。『徹底居士』というのもあります。年の瀬のお掃除はいつも大変でした。家族は全員空腹を抱えてお掃除に精を出したものです。

舎監時代のエピソードです。父の所へは定期的に『お巡りさん』がやってきました。父が笑いながら言うには、父は要注意人物で警察のリストに載っていたらしいのです。『右翼』だったのだそうです。父はいつも『自分は真ん中だ!!』と言っていましたが、警察官と交流が持てることが嬉しかったそうです。そしてその警察官は父に敬意を払ってくれるようになりました。世に受け入れられない自衛官は何かと窮屈な身分でしたから、自由に話ができる『男子寮の舎監』の身分を喜んでいました。

あの父が要注意人物なら、私も要注意人物になりたいと思います。父は私の過去であり、現在のお手本です。例え少しではあっても父の心を私は文字に残して未来に託したいと思います。父から娘へ、そして娘から孫へと歴史を紡いでいきたいと思います。父から背中に負わされたものを、子供達に、若者に、そして孫達に渡さなければと思います。これがこのブログのカテゴリーを『父の背負子』とした理由です。これで一連の『随想古事記』は終わりです。古事記にはもっとたくさんの物語が描かれています。どうぞご自分で探って『記憶の謎』を解明してください。これまで読んで頂いて有難うございます。本当に有難うございます。




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随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説

2012-11-04 09:39:45 | 父の背負子1(随想古事記)
最後に私の説としてあげたいのは、『もともとのアマテラスは天神族の馬族ではなく、原日本人、つまり北上して中国大陸に住みつき鳥族となった殷人と同族の、日本列島に住みついたもっと蛇族の特性を持つ海津人(わたつじん)だった』というものです。そうだとすればアマテラスが稲を授けたというのも筋が通ります。馬族のアマテラスが稲と関連があるはずありません。

『高天原』がどこなのか、一般に馬族が渡来した朝鮮半島から大陸のどこかだろうとされて来ましたが、元々の『タカマガハラ』という言葉がワタツ族の言葉だったらどうでしょうか。アメノミナカヌシから始まりイザナギ・イザナミ、アマテラスと高天原(タカマガハラ)などの単語がワタツ族の言葉で連用されたのだとしたら、私達の歴史はもっと分かりやすくなります。

イザナギ・イザナミによって生みなされた我が大八島の国々・日本は約三万年前から蛇族の縄文人、つまりワタツ族の国でした。そして長い長い三万年の間ワタツ人特有の文化を醸成しました。そこに私達日本人が生きる上で最も大切な『日本語』の起源があります。何よりもアメノミナカヌシを始めとする一連の言葉、神名として採用されている様々な言葉は、私達の日本列島原住民ワタツ族の言葉であり、それが楢崎・宇野両先生がカタカムナ人と呼ばれる人々の言葉であったのだと私は信じています。



そこに多分夏(あるいは周)の滅亡により牛族(後にカタカムナ人の言葉からスサノオという名前を当てられた首長に代表される一族)が、殷の滅亡により犬族を引き連れた鳥族(邪馬台国原族で同じく多分ツクヨミという名を首長に当てた)がやってきました。スサノオが三貴子の中で最後に生まれたことになっていますから周の滅亡後だったのか、それとも遅れてやってきたのか分かりませんが、どちらにしろ一万年以下の数千年単位での昔の事件です。スサノオに代表される牛族は半島を陸経由ではなく(つまり対馬壱岐経由ではなく)主に日本海を渡って出雲をはじめとする日本海側に広く辿りついたと思われます。

古事記ではイザナギノミコトから海を治めよとの命令をお受けになったスサノオはそれを嫌がってアマテラスの高天原に行かれ狼藉を働かれ追放されます。それで地上に降りて来られて蛇族の象徴大蛇(おろち)をお退治になり出雲の国をお建てになったとされています。真相は原住民族アマテラス(ワタツ族)の蛇を実際に投げ飛ばしたのです。八岐大蛇ですから八カ国を征服なさったのかもしれません。これだとスサノオの八岐大蛇退治の脈絡に無理がないどころか、はっきりそしてすっきりすると思います。これが出雲の神話の原型で、天孫降臨とは別系統のお話です。

鳥族殷人の亡命劇が高千穂に降臨した天孫神話の原図で、殷帝国滅亡後の紀元前十世紀(3000年前)頃の事件です。猿田彦がお迎えに来ます。(川崎先生によると、サルは塩で、牛族の一派らしいのです。こちらの場合は九州に先住していた牛族もお迎えをしたことになっています。海幸山幸でふれたように、九州の牛族はすでにワタツ族と混じっていたのかもしれません。そしてそれに納得できなかったのがスサノオ一派なのかもしれません。)この鳥族と犬族はワタツ族と結婚宥和政策をとって邪馬台国を建てました。もともと鳥族とは近かったのです。これが山幸彦が言葉(呪文)と統治権(治水権)を受け継いだお話です。しかし『日本語』を採用した人々は基底言語が同じだったとはいえ、何万年と醸成された言葉をすぐに完全には理解できませんでした。使っているうちに分かってくるものもありますが、段々曖昧にもなっていきました。これは現代の私達が使っている日本語を考えるとわかると思います。何となくわかるような気がする言葉がこんなにたくさんある言語を私達は使っています。

邪馬台国は既述の通り神武天皇へ発展します。そして同体化したアマテラスの正統性を持って蛇族の地出雲を奪還するべく東征されるのです。それから時代を経て濊貊(わいべく)から馬族がやってきます。それが紀元前四、五世紀から百済成立以前までの間のどこかだと思います。少なくとも魏志倭人伝の頃には女王国の一部に末蘆国という馬族の国名があります。馬族は世界で最後に犬族から分離派生した部族です。



時が移って、通説の通り、大和朝廷は馬族が大王を立てることになったとしましょう。それでも海幸山幸の昔話が重層的に表しているように、馬族も大和の国を『易姓』することなく継承し『捨姓』することで万世一系の皇統(天神族)を融解創造されました。スサノオが投げたのは蛇でしたが、ここでアマテラスを馬族の祖、高天原を馬族の故郷とし、そこで馬を投げたことにしたのだと思います。


これは今のところ私の仮説でしかありませんが、そうだとすると私達の歴史はずいぶんすっきり、すんなりと腑に落ちます。ワタツ族の住む日本列島に順番はまだ不明ですが、様々な時代と地方から鳥族と犬族、牛族、馬族がそろって、私達混血の日本人が出来上がりました。しかし大陸や朝鮮半島とは違って、そこにはワタツ族のカタカムナという大和の源泉があったのです。ですから今日の日本人はワタツ族という錬金術師の坩堝で融和してできた大和族です。そしてその血統の受け渡しは『カタカムナ語』、つまり現代に生きている国語の『日本語』によって行われてきたのだと思います。

『カタカムナ』は容易に研究の対象となる性質のものではありませんが、日本人らしさを生み出す元となったものです。なぜなら人間らしさはみな言語によって培われてきたものだからです。ですから日本人の特性を守りたいと思うならば、日本語を大切に守っていくこと以外に何もありません。それによって作り上げられた日本の『大和(だいわ)』の歴史が確かに世界にありえない奇跡であったことを知ることが、自分と日本を知ることになり、以て世界の人々に貢献できるのではないかと思います。私達は今日本の心をはっきりと知る必要がある危機の時代に生きています。私達は一人一人日本人として自分の人生を生きて行こうとの確認と決意を新たにする必要があると思います。繰り返し表明したいと思いますが、神話とはその民族の歴史と言語だと思います。




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随想古事記Ⅲ・大和の心5

2012-11-03 09:24:41 | 父の背負子1(随想古事記)
日本人が守って来たもの(2-2)

ヨーロッパに現存する国で一番古いのはどの国でしょうか。ローマ教皇国かもしれません。都市としては古い町はあるかもしれませんが、多分どの国も十世紀以後の国です。アフリカは人類発祥の地で、古代エジプトは世界最古の文明を誇った国ですが、クレオパトラのエジプトはマケドニア人の王朝で、アフリカのエジプト人の王朝ではありません。エジプト人のエジプト王朝は征服されたのです。その王朝もローマ帝国によって滅ぼされました。ローマ帝国の分裂・滅亡以降地中海沿岸には王国がいくつか興亡しますが、イスラム教を国教にした王国の版図に入ります。その後大航海時代を迎えたヨーロッパ社会の非人道的振舞によりアフリカ独自の知られていない歴史が殆んど消えてしまいました。エチオピアだけは残りましたが、世界史上最古の三千年の歴史を持ったエチオピア王朝の歴史も先年途絶えてしまいました。日本人の記憶に鮮烈に残っているマラソンの哲人アベベ・ビキラ選手は、最後のハイレ・セラシュ皇帝の歴史を負ったランナーだったのです。

南北両アメリカはどうだったのでしょうか。私達原日本人とほぼ近いモンゴロイドが原住民として住んでいました。アメリカ・インディアンとして有名な白人を恐れさせた部族達は近代的な国家をなして暮らしていなかったようです。中央アメリカから南アメリカの太平洋側には王国の歴史があります。マヤ文明やインカ文明として有名ですが、そうした国家は十六世紀にヨーロッパ白人社会に滅ぼされてしまいます。

現在生きている人々をどこかの国の末裔だと言うことはできます。全世界に古代人の末裔でない人間はいませんが、途切れたものをつなぐことは出来ません。可能性として復興させることはできますが、途切れなかった歴史には戻りません。それはなぜかというと、時間が命だからです。時間は目盛ではありません。生命体は電池と同じで、電気のポテンシャルを閉じ込めたものです。ポテンシャルを何ボルトと目盛ることはできますが、ボルトは電気の力そのものではないのです。ですから過去に目盛をふることはできますが、動いている時間を捕まえて客観視はできません。瞬間は時間の中身が現れている先端で、今の瞬間も未来も目盛ることは出来ません。本当は過去も目盛ることは出来ないのですが、頭の中にある表になった過去に便宜上目盛をふることができるだけです。昔に戻ることはありません。つまり歴史は作り変えることが出来ません。途切れたものは別の道を選んだので、途切れなかったものとは違うのです。

そういう意味で私達の日本という国は、今では世界にたったひとつ二千年以上途切れてない同じ国を生きています。そして人類滅亡の日までつないでいく可能性を秘めたたった一つの国です。ですから日本の国民は日本をつないでいくことが最大の義務だと思わなければなりません。そんな国柄を私達は織りあげてきました。否応もありません。私達は日本という織機にかけられた糸であり、杼に巻かれた糸なのです。しかし現代の私達は自分の国がどんな模様を織るように糸をかけられているのかを知らずに日本という国に住んでいるような気がします。『国とは何か』という思いもありません。現代の日本国民にとって国は天与の条件の一つに過ぎないように見えます。そして昔の国民が少なくとも畏れを持って考えたその『天』が何であるかもまた知りません。

この問題に私達の神話は答えを提供しているように思います。そしてそれが『古事記』を編纂した意図でもあると思います。『古事記』は機織りのデザイン図です。そしてその意匠は国号に秘められた『大和』の理念、誤解を恐れずに言いたい『八紘をおおって宇(いえ)となさん』との神武天皇の大号令は、人類の願いである世界恒久平和の理念です。そして明治天皇の御製

          四方の海 みなはらからと 思う世に
                   など波風の たちさわぐらん

に明らかにされています。明治天皇の五ヶ条の御誓文は、そんな国の近代的君主の誓いのお言葉で、聖徳太子の十七条憲法は、そんな国に仕える行政官に心構えをお示しになったものです。では私達国民はどんな誓いと心構えで暮らしたらいいのでしょう。それは親に習う心で聖徳太子のお心や、明治天皇のお心を、わが身になぞらえればいいのです。『大和』の心をいつも考えるべきです。そして自国(自分)を守り、他国(他人)を思いやることの厳しさを、安易に考えない事です。口先だけの偽善と欺瞞に紛れ込まないことです。(余談ながら、マクロビオティックの桜澤先生は、如何にして世界恒久平和を成し遂げるか、その案を示しておられます。)


神話のアイデンティティによって私達は易姓革命による王朝の交替を否定し、アマテラスの皇統に委任されたものが統治するという交替方法を編み出しました。これは力の交替という現実社会の必然性によって権力闘争が繰り返される国内騒乱の悲劇を克服するものです。王朝を安定させることは、時代の必要性から生まれる変革に限度と秩序を与えることです。それは与り知らぬ一般国民の幸せに貢献したと思います。

大和朝廷が歴史の表舞台から身を隠された鎌倉政権以後、私達は朝廷が何をなさっておられたのか殆んど知りません。しかし【かくり身】のアメノミナカヌシのように国民生活の安寧を祈って来られた筈です。かくり身の大和朝廷は百万ボルトの幕府の電圧を支える地下の伏流のようにマイナス百万ボルトの祈りを千年の間捧げて来られたのだと思います。私達はこうして現実社会で『主(ヌシ)』なる言葉の実態を実現することに成功しました。『主』とはカタカムナとして残された海津族の言葉で、目には見えないが間違いなく在るチカラを表している『ヌシ』という言葉から出来たのです。『ヌシ』とはもともと『かくり身』なのです。

何度も言うようですが、日本の『大和(だいわ)』の歴史は世界史上の大実験なのだと思います。そこから生まれ出てくる様々な選択を私達日本人は繋いでいます。『大和』というものが実現できるのか、時として試行錯誤しながら大実験の続きを生きる国民に、神話はそのことを語っているのだと思います。私達はよくよくそのことを噛みしめなければいけないと思います。




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随想古事記Ⅲ・大和の心4

2012-11-02 10:14:15 | 父の背負子1(随想古事記)
日本人が守って来たもの(2-1)

オリンピックの開会式の入場行進が好きになりました。楽しそうなその顔に輝く真剣で誇らしげな目が好きです。あんなにたくさんの国があるのかとも思います。それぞれの国は現代を同じように生きているけれども、歴史をアイデンティティとして、国の性質、つまり国柄というものを持って実際は別々に生きていることを強く感じます。

今私達が普通に『国』と言っているものは、植物に例えるなら、木の幹や葉の顕微鏡サンプルの『切片』のようなものです。そのサンプルの中には昨日芽吹いたような国もあるし、根を張って長い年月を過ごした国もあります。それで本当の国というものは、誕生からの歴史の全てだと思います。私達一人一人自分と思っているものが瞬間の私ではなく、何十年かの寿命を持っている私であるのと同じです。また親が子を育んできたように時代時代の人が布を織りなして図柄を決めてきた国柄が歴史です。私達は国の一部で、歴史の一部です。今在ることがいつか過去に在ったことになります。祖先と自分は一体で、どちらかが欠けることはあり得ません。自分を憎むことも歴史を憎むことも出来ません。国を憎むことは自分を憎むことと同じです。私達はそこに生えた草なので、その根元の土を憎むことは生きることを否定することです。私達は自分を愛するように国を愛するしかないのです。それが自然の掟で、そこに生えること以外に選択肢はありません。

現代人は文明社会に住んでいるので、既成観念で自分を呪縛していることもあります。そんな呪縛から解放されないとなかなか方向を見つけられません。そんな時は、ともかく両親を懐かしく思いだす気持と同じ気持ちで自分と自分の国を思うことです。それが出発点です。たとえ両親がその時代の思考の基準から、或いは美や価値の基準から離れていても、そんな事はどうでもよいことです。自分の大切な両親であることに違いはありません。両親が間違ったことをしたとしても、それがどんな状況下で起こったことかを、愛情を持って検証するのです。必ず同感するものがある筈です。あるいはまた濡れ衣かもしれません。あるいはもっと極悪非道で、到底許容できないかもしれません。でも私達はその続きを生きなければなりません。それが自分を愛し、両親を愛し、国を愛するということです。そして忘れてはならない事は、どの国も他国を責められないということです。そしてまたどの国からも責められてはならないということです。それが本当の強さだと思いますし、それが『切片』としての心構えであり義務だと思います。国は謝ることは出来ないのです。その覚悟が国を愛する心です。そして他国に謝罪を求めてもいけません。もともとそんなことは不可能な事で、謝罪という行為は個人レベルの了見による自己欺瞞に過ぎません。他国に謝罪したり謝罪を求めたりすることは、本当は正直の仮面をかぶった偽善なのです。よく考えればそれが不可能な事だと分かる筈です。


国のアイデンティティが歴史だと言いました。私達の日本が国としてとして二千年近い歴史を持っていることは誰も否定しないだろうと思います。明治の元勲達は二千六百年だと言いました。ローマ人達はローマを紀元前七百六十年頃建国したと言っていました。帝政と共和制を繰り返しましたがローマ人の性質、つまり国柄が受け継がれたのは西ローマ帝国の滅亡までだと思います。その間約千二百年ローマは続きました。現在はありません。今はイタリア半島にイタリアはありますが、ローマとは違いますし国語も違います。

近くの中国大陸では、現在確認されている最初の王朝が殷王朝です。紀元前千五百年ごろ興り、約五百年続きました。その次に起こった国が周で、およそ紀元前十世紀から三百年間君臨し、春秋戦国時代を含めると紀元前三世紀までの七百年間王室としての権威が一応存続します。その次が秦王朝です。秦は知らなくても、始皇帝と万里の長城は有名です。春秋時代に建国されはしましたが、中国大陸の統一王朝としては始皇帝の紀元前二百年頃から僅か二十年です。それから漢の時代が前漢建国から西暦紀元をはさんで後漢滅亡までとして、四百五十年です。それから日本人になじみの深い『曹操・劉備・孫権』の三国時代が五十年、晋が国を興しますが群雄割拠は続いて、南北朝の時代になり、六世紀後期に隋が統一するまで中原に確立した統一王朝はありません。その隋も三十年ほどで唐に滅ばされ、唐の時代が三百年ほど続きます。その後また分裂時代を経て宋が起こり、北宋が二百年、南宋が百五十年、元の世界帝国に変わります。大繁栄を謳歌した元も約百年、明が起こって三百年、北狄女真族の清が起こって三百年、十九世紀末から二十世紀、清はヨーロッパの侵攻にさらされます。私達日本の江戸時代末期から明治時代に当たります。現代の中華人民共和国は1949年の建国で国令六十三歳です。

長々と並べましたが、中国の歴史と言っても中国の人々は、自分と同じ民族、あるいは同じ国民の歴史と心情的に感じているかどうかは疑問です。それでことさらに自然な愛国心を利用して四千年の誇りを箍(たが)にしなければなりません。イタリア人がローマを自分たちの歴史とは思っても、イタリア人はローマ人ではありません。それと同じように中国人は周王朝人ではないのです。清王朝人だと言う人はいるかもしれません。でも中国の人達は漢民族だと称しています。漢民族の王朝は、前漢・後漢、劉備の蜀、明の三時代しかありません。

私達に地理的にもっと近い朝鮮半島は私達の日本と同じように魏以前の歴史は文書として残されていません。ですが私達に神話があるように、朝鮮半島の人々にも神話と伝説があります。先史時代は中国の殷によって終止符を打たれ、殷の周囲から波が伝わるように文字が普及しました。それで朝鮮が歴史に登場するのは朝鮮半島ではなく、朝鮮北部、つまり中国大陸の北部、北方と称される中国の王朝にとって異民族の住む地域からです。衛氏朝鮮、箕子朝鮮、漢の四郡、扶余、高句麗です。魏志に卑弥呼(邪馬台国)の記事が出る頃、南朝鮮は三韓時代(馬韓・辰韓・弁韓)です。三韓は北の高句麗と対峙します。高句麗は現代の北朝鮮から満州を含む大帝国です。三韓のひとつ辰韓に王朝を築いた新羅が、中国大陸の大帝国唐と結んで高句麗と百済を滅ぼし朝鮮半島を統一するのが紀元七世紀の末で、ほぼ現代の南北朝鮮領域です。高句麗の広大な領地は唐が制圧しようとするのですが、そこに渤海というマッカツ人の国が起こって高句麗の後裔を名乗ります。朝鮮半島では十世紀に新羅が王建の高麗に滅ぼされるまで約六百年続きます。高麗が李氏朝鮮まで約五百年、李氏朝鮮が日本に併合されるまで五百年余です。この日韓併合は日露戦争の結果です。

朝鮮国内は日露戦争前、日本と心を同じくして極東をアジア人で守るべきか、ロシアの庇護のもとに朝鮮半島を守るべきかの二派に分かれていました。朝鮮半島はその地政学上大陸の力にいつも曝されて生きてきました。当然一国独立の希望はあったのですが、漢から始まった郡制以来真の意味で独立したことはありません。王は中国皇帝に冊封され内政を干渉し続けられました。隣国を牽制するのに中国大陸の王朝を利用したことにも原因があります。高句麗でさえ漢や唐の外交的屈辱に耐えたこともあります。無理もないことで地理的条件が国の命運を左右するのです。近代を迎えた十九世紀アジアの眠れる獅子()とヨーロッパから呼ばれた清帝国の弱体化で朝鮮はロシアの手が伸びていました。日本もロシアを恐れて、朝鮮の立場を危惧しながら、ロシアと対立したのです。日本は独立国家として長い歴史を生きてきたので、ロシアに立ち向かい日清日露の両戦争が起こりました。世界中が日本の悲惨な運命を想像していたはずです。しかし歴史は時として不可能を開きます。日本はロシアに勝ったのです。乃木大将の不屈の意思と東郷元帥の勇敢な戦略が、当時の日本人の心の表明だったと思います。そしてロシアを含めた白人社会は自分達の常識に沿って、日清戦争後の朝鮮半島における日本の権益を認めました。

獅子は大きな犬を意味します。本来は大きな動物を意味したのだそうです。当時の世界は清帝国が犬族の国家だと知っていたのだと思います。

日本が負けていたら日本と朝鮮はロシアに植民地化されていたはずです。いえそれ以前にイギリスから、或いはアメリカから植民地化されていたかもしれません。これが当時のヨーロッパに率いられた世界の常識でありまぎれもない実状だったからです。ヨーロッパ人が世界を席巻している以上、その常識の中にアジアの人々も生きる以外ありませんでした。国際政治において、特にヨーロッパ以外のアジア・アフリカにおいて善悪は論外でした。日韓併合という朝鮮半島の人々にとって受け入れ難い事態は、ロシアが南下政策をとっている状況下での日本の選択でした。国民感情は別として、少なくとも日本は朝鮮を併合したのであって、征服したのではありません。白人による有色人種の支配とは違っていたと思います。その象徴が李方子(りまさこ)様であり、今も韓国の地に眠っていらっしゃいます。




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