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60年ぶりの築城

2023-11-12 15:24:39 | 父の懐・母の懐

築城に行きました。中学三年の12月で、私は猶興館に入学するために祖父母と暮らすことになって平戸に帰省しました。父の東京転勤が決まっていたからです。その時以来実に60年・・・・・記憶の中では大きかった築城ですが、離れてもう60年も経っていたのですね。私にはどうしても確かめたい地が三つありました。一つは以前記事にしたかと思いますが、下関市吉田町。今回の築城町。そして残るは、静岡県浜松市鴨江町。宮城県の矢本は、大学生になった時の父の勤務地となり確かめることが出来たので、あまり心残りは感じません。ただあの大地震の時の映像が焼き付いています。

猶興館の私達の学年は仲が良いのか、東京と大阪で各一回、年に二回も同窓会があります。私も60歳を過ぎたころから参加させてもらうようになりました。平戸に戻ったころからは、大阪の会に行っています。昔の記憶の探訪は、大阪からの帰途の寄り道です。今回も小倉で新幹線を降りました。きれいな駅になっていました。私の知っている小倉や門司は、何しろコレラ騒動の時代です。バナナのたたき売り。福岡県が募集したコレラ撲滅のポスターに入選したこともあります。駅ビルで、高田屋でしたか、美味しいゴマそばをいただきました。ゴマそばって、福岡の裁判所の近くの『そば切りかんべえ』という美味しいお蕎麦屋さんで初めて食べさせてもらいましたが、難しいらしいのです。そこのご主人とおそばを思い出しながら、いただきました。

 

そして始めに日豊本線で宇島(うのしま)まで行きました。宇島は官舎の空きがなかったために、家を借りたところです。九電の宇島発電所があって栄えていました。駅を降りて交番で道を尋ねて、先ず『八屋小学校』を目指しました。道々確かめながらやっとたどり着きました。記憶も少なく面影はなく、周囲の状況もがらりと変わっています。今月に入って1、2、3日と暑い日続きです。やや冬支度の私は汗をかくほどです。それでも八屋小学校に何とかたどり着き、小学校の先生にいろいろうかがって、昔の通学路と思われるところを辿りました。通学路が一番記憶に残った頼りの綱です。道々行き会う方々にお尋ねしながら、ここら辺に消防署があったのでは???・・・・・昔お店が並んでいた十字路に来て、記憶が鮮明になり、お魚屋さんの看板も残っていました。公民館があって、三差路があり石屋さんがあったはず・・・・・外科の病院も・・・・・?????それから先は、住宅街に代わっていて、それらしき九電社宅跡の丘は住宅街に変わっており、そこの坂を上って行った先にため池があったはずのところも・・・・・昔ヒシの実をとってゆでて食べました。弟の釣りに付き合って、ミミズをつけるのが嫌でそのまま垂れていたら、鮒がかかりましたっけ!!!お祭りがあったお寺だかお宮だかの鬱蒼とした森も、みんな住宅地になっていました。暑くて喉は乾くは・・・・・お店もない・・・・・2、3時間も歩き疲れて、駅前で覚えておいたタクシーに迎えに来てもらうことにしました。

八屋時代は戦後のどさくさの奇妙な時代です。小学校に怪力の見世物・・・・・軽トラックに子供たちを乗れるだけ乗せて、ロープをつけてそのロープを口で引っ張るとか、ガラス瓶を割って敷き詰めてその上に横たわり、マットを体に乗せてその上をトラックが横切るとか・・・・・今では考えられないようないろいろなことがありました。記憶の彼方にかすむ様な思い出です。それでも懐かしい・・・・・校長先生のお顔もお名前も鮮明に思い出せます。

現在の地名は知らないけれど、60年前の説明でタクシーは迎えに来てくれました。駅まで連れて行ってもらいました。運転手さんの話によると、新しい国道ができて、私達の通学路の旧国道は大きく様変わりをしたことがわかりました。商店も無くなり病院も無くなり、官公庁舎も亡くなった。八屋は知っているものがほとんどありませんでした。日豊本線を戻って、築城に行きました。おぼろだった築城、椎田、豊前松江(ぶぜんしょうえ)の位置関係もはっきりとわかりました。無人駅になっていた築城駅、駅前で出会った方に旅館を教えてもらいました。それで、昔自転車で通った自衛隊基地の前の踏切が確認できて、土地勘を少し取り戻しました。駅前は本当にわかりません。『紀文』という割烹旅館で、本当に暖かい優しい旅館でした。父達も昔宴会で寄ったのではないかと思う旅館でした。八屋探訪でその日の予定はお終いにして、ゆっくり旅館の夕食をいただき、明日の築城探訪を楽しみに8時には眠ってしまいました。

翌日も快晴、旅館のきれいな朝食をいただいて、9時過ぎ探訪開始。築城での目当ては、自衛隊官舎と築城小学校。道路は幅が広くなって舗装されていたけれど、八屋よりはのどかな面影を残していました。小川のような側溝があったのですが、道路の下になっていました。ここら辺にお豆腐屋さんがあったでしょうという問いかけに、あったあったと言ってくださる私と同じ昔の方がおられて、昔を懐かしみました。衝撃は官舎です。二軒長屋だったんですよ。それが、コンクリートの団地になっていました。敷地も石垣があって、1メートルばかり高かったのですが、道路と変わりなくなっていました。上の堤から流れていた、へちまを晒した小川は汚くなっていました。もう昔はありませんでした。築城小学校はすぐ先にありました、途中の文房具とお菓子などを売っていたお店の跡らしきものはありました。小学校は祝日のお休みで、教頭先生のお許しをいただいて校庭に入らせていただきました。

昔をしのぶことができたのは、クスノキ。覚えているのは、クスノキと横に伸びた松の木があって、足洗い場でした。職員室の前にあった築山の残りかと思うような蘇鉄がありました。たぶん2回は建て替えが行われただろうと思いました。小学校を出て、昔サイクリングをした城井(きい)川の土手を見に行きました。これが意外に遠くて、住人もあまり知らないらしく、暑さを感じながら立派な住宅街を通り抜けました。こんなところに大きな道路ができたのかとトラックが行きかう道路を横切り、やっと城井川の土手道路にたどり着きました。途中で散歩中のご夫婦に会いましたが、城井川には降りることはできないと言われました。それから同窓生が雷に打たれて亡くなった悲しい橋らしき橋まで行き、折り返すことにしました。途中小学校の教頭先生に伺った市民センターでの小学生出展の文化祭をのぞくことにしました。立派な作品がいっぱいで、可愛らしい後輩の作品を楽しみました。幼稚園生のお習字もありました。とても上手で、よい指導だと思います。それからお茶席があって、お薄をいただきました。美味しくて、お代わりをしてしまいました。

そこからもう一つのお目当ての八築中学はすぐで、すっかり立派な中学校になっていました。部活の様子をちょっと見学して戻ることにしました。駅の方角を目指して、ぶらぶら眺めながら旅館に戻ることにしました。もう3時間以上も歩き回っているので、多少疲れ気味・・・・・町の人と短い会話をしながら・・・・・平戸は柿が不作のようですが、築城は鈴なりでした。気になったのは田んぼです。稲が育たずひょろっと生えたまま・・・・・旅館に戻って、お茶とおむすびを食べて、たっぷりのお湯を使わせてもらって、夕食まで一休みしました。

 

翌日築城を出ました。親しくなった旅館の女将さんらとお別れをして、待ち時間がたっぷりの築城駅のホームで両親を思い返しました。殆どが変わってしまった築城基地の町でしたが、それでも懐かしい両親と通い合う思い出を確かめました。吉田町と違って、何もなかったというのが感想ですが、満足です。ただ築城近辺には、私の知らない歴史があって、もう一度来たいなと思いました。博多駅で夫と待ち合わせて無事帰宅しました。

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しその実の塩漬け

2023-10-13 13:46:16 | 父の懐・母の懐

母が得意だったしその穂のみそ漬け、懐かしい味です。私は穂をしごいて実だけにして、塩漬けにしています。イキな塩に出合ってからは、美味しいのでなんでも大体塩漬けにしています。先日ご紹介した茄子の塩麹漬けのように、今年は塩麹漬けです。気候の所為か、今年の茄子は傷が多いのですが、そこをむきとって使います。本当においしいご飯の友です。それで、シソの実も塩麹漬けにしてみることにしました。収穫がちょっと遅くなった気がしますが、しその穂をしごくと清冽な香りがいっぱいです。指先は真っ黒になりましたが、楽しみができました。

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甘夏の選び方

2020-07-12 15:00:17 | 父の懐・母の懐

甘夏を買ってきました。今年は天候不順で、甘夏も例外でなく、傷がついたり汚れたり・・・・・それでも、甘夏は若さのチェック?????・・・・・?????

酸っぱいミカンを食べるのは、若さのシンボル・・・・・高校時代は、甘夏でなく夏みかんを平気で食べました。夏みかんは初夏の味・・・・・などと、佐藤春夫の詩『・・・牟婁の海山、夏ミカンたわわに実り・・・を平戸の海山・・・・・』と言いながら、しり込みする祖母と笑い合いました。今ではとても夏みかんに太刀打ちできなくなり、辛うじて甘夏で若さのチェックを、という事態になりました。

 

これも母のことわざです。『八朔はつるつる、夏みかんはゴボゴボ』・・・・・そういう外皮のが美味しいという意味です。それでいつも地球の造山運動(?)のように皮が盛り上がってゴボゴボしているのを選びます。こうなっているのが水分が飛んで、実がぷりぷりしていておいしいのです。中の袋も大きい・・・・・頑張って若さチェックを乗り切りました!!!!!

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父の書棚を整理しました。

2020-06-09 00:14:28 | 父の懐・母の懐

父の遺品・・・・・幼年学校か陸軍士官学校か、それとも卒業後か・・・・・古事記だけは新しそうですから、いつの頃か私達が子供の頃のものかもしれません。父の面影が浮かぶ遺品です。

 

 

父の書棚を形見にもらって、やっと身近な場所において整理することが出来ました。父の本を私の本に加えることが出来て、書斎コーナーが出来たことで私の『背負子』も完成に近いかなと感じています。

                            

 

これからは、背負子の残りを背負ってくれる若者に全部渡さなければならないと感じています。

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えんどう豆ご飯

2019-05-22 08:36:52 | 父の懐・母の懐

さや入りの実えんどうを見つけたので、さっそく買って帰り豆ごはんを炊きました。初夏の味です。

 

私のやり方は、お米を研いでざるに上げだし昆布を2~3切れ(小さく刻んだ真昆布です。)のせて水を加えます。そうしておいて、えんどう豆を剥きます。剥きたてですから、洗いません。そして、『イキな塩』を加えてかき混ぜて舐めて味を調えます。あとは、炊き込みご飯の炊飯器メニューで炊きます。

 

えんどう豆ご飯を炊くとなると、いつも母が思い出に現れます。「豆は剥きたてでないといけないのよ。空気に触れると皮が硬くなって、美味しくないからね。」・・・・・そして次に出てくるのは、子供たちの運動会や遠足に豆ごはんを炊いている自分・・・・・前日に買っておいた豆を、朝4時ごろ起きて剥きました。『母の言葉』というものは、その味とともに、こうして伝わっていくのかと懐かしくなってしまいます。娘たちも豆ごはんを炊いているのでしょうか・・・・・

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故郷・ふるさと

2017-06-13 14:43:06 | 父の懐・母の懐

8年前夫の仕事の都合で平戸を留守にし上京しました。そこで新しく発見したものの一つが、同窓会の楽しみ・・・・・私にとって、これは思いもよらない感覚でした。私の同級生たちは東京同窓会をいつからかは知りませんが、ずっと毎年1月に積み重ねていました。そこには何の屈託もない高校を卒業したてのつながりが生きていました。初めて出席させてもらった時その何とも言い難い感覚がジーっと沁みて、それ以来ずっとなるべく出席することにしています。出席したくてたまらない・・・・・と言った方が当たっています。その時は『故郷は遠きにありて思うもの』という名言の通りだと心から思いました。

 

先週の金曜日から土曜日にかけて関西地区での一泊同窓会(神戸)に出席しました(何と私達の学年は年に2回も同窓会をするようになりました。)そして長年の懸案だった下関市吉田町訪問を実行に移しました。(昔?吉田町に関連する記事を書いていたのを見つけたので、リンクしました。)吉田町は60年前、私が小学校2・3年生を過ごした町です。新幹線を『のぞみ』から『こだま』に乗り継いで下関で降り、その夜は神戸での坂歩きでやや疲労気味だったのでホテルへ直行し休むことにしました。翌朝下関駅から山陽本線を戻って小月駅へ・・・・・60年も過ぎた小月は、「こんなところだったかなあぁ~~~~~!?!?!?」といった感じで、駅はさっぱりとしていますが、スイカも何も使えず改札口は昔のやり方でした。コインロッカーも何もなく・・・・・だけど、ともかくの目当ての『東行庵』行のバスが運良く20分くらいで巡ってきました。『ループバス』という循環バスでした。折しも東行庵は、『菖蒲祭り』とかで賑わっていました。

                                                           

バスに乗るもタクシーに乗るも、記憶にはっきりしている今回の目当ては『東行庵』しかありませんでした。その東行庵は、東行先生こと高杉晋作を祀って野村望東尼が庵を結ばれた場所です。60年前は谷玉泉という庵主様がおられて、弟は東行庵の幼稚園に通いました。今はもう庵主様はおられず、山口県の主管になってどこかの曹洞宗のお寺の住職が兼任しておられるとか・・・・・それから第一の確認事項『もみじ山』。家族写真の父のコメント『もみじ山』はここだったのか。記憶に残っているのは、高杉晋作顕彰碑のある段々でお弁当を食べ、魔法瓶を倒してダメにした(何しろ昔の魔法瓶はガラスでしたから)こと・・・・・ずいぶん整備はされていましたが、確かに此処だった!!!!!と、確信しました。ひっそりとした東行先生のお墓もそのままだろうと思いました。     

それから第二の確認事項『吉田小学校』へ。東行庵の幼稚園は昔も似たような感じでした(???)が、その前には近年出来たとかの『晋作の湯』・・・・・市民の温泉場になっていました。まあ、高杉晋作は喜んでいるかもしれません。何でも晋作の名がつけられて、晋作蕎麦、だの晋作餅、だのという感じでした。その前を通り過ぎて道沿いに歩くと、下関市立吉田小学校。その日は子供たちのサッカー大会だとかで、たくさん集まっていました。校舎と校庭の位置関係は同じように感じました。裏側にある土塀の名残が当時を偲ばせました。いつも利用していた『裏門』へ・・・・・これからが記憶をたどる私の通学路・家路。              

ここから先の路地道はすっかり変わっていました。「確かこっち・・・・、確かこっち・・・・」と言いながら行き止まりを引き返したりして、何となく『此処だ』と思わせるやや広い道に出ました。「これがあの商店街のはず・・・・・」、だったらお店があるはず。何とも不安になりながら歩いていると、お玄関先でてっせんの手入れをしていらした老婦人に会いました。挨拶をしながらお話を・・・・・『ああ、そのお店ならあそこですよ。だけどもう閉めて・・・・・』、と人気のなくなった通りについて話してくださいました。そのお店の角を曲がった筈・・・・・と、見ると、何とも石畳になっている!!!!!?????こんなではなかった(ように思う)けれど・・・・・と思いながら進むと、『旧山陽道』と書いてある小さな石碑がありました。それを越すとやや広い道にぶつかり(多分この下は、昔川だった?)、新しいJAの建物など昔はなかった雰囲気、そこを渡って細い道を不安になりながら進み、「この辺にお醤油屋さんがあった筈・・・・・」(そこのお嬢さんと同級生でした。)それらしいお家を見つけたときは、安心してとても嬉しく思いました。でもこの道はこんな道だったっけ?????途中にあった雑木林はありませんでした。

 

                                        

そこを抜けると田んぼが広がっていました。奥に住宅が張り出していて昔あった樹木などは無くなっていましたが、『此処だ、此処だ!!!!!父や弟と凧揚げをした田んぼだ!!!!!』その向こう側の細い道路は大きくなって見渡すとずっと向こうに高速道路が走っています。そしてその道を渡ると、私達の家があったところ。そこには新しい住宅が建っているんだろう・・・・・と思っていました。そしたらなんとそこは草茫々の空き地と廃屋が・・・・・お友達(?)のふうちゃんの家と私達の家?????家の前にあった小川は整備されて昔の面影はありませんでした。でも家の前にあった川への降り口が、何となく確信をさせました。『此処だ、此処だ』この廃屋は父が借りた家そのものではないかもしれないけれど、それに近い・・・・・あの大きな台風の時川があふれて家の前まで迫った『あの日々』をよみがえらせる家や風景が残っていました。ひどい状況ですが、私には心の底を暖かくする廃屋でした。

         

今は広くなった道路の先には多分あそこで夏休みの掃除や体操をした、と思われるお寺が・・・・・懐かしさに駆られて石段を登ってみると法要か講話の会か・・・・・そしてこれまた何と、ご住職が吉田小学校の同級生でした。中に通してくださって、担任だった先生方のこと、私の仲良しだったお友達のこと、そのお友達と行った思い出のある旧商店街のこれまた同級生がいたお店のこと、あのひどかった台風の時の氾濫事件と問題の橋のこと・・・・あの橋はバス通りだったのですが、橋の手前で乗客が降ろされてぞろぞろと渡り、その後をバスがゆっくりと橋を渡ってまた乗客を乗せる・・・・・という今では考えられないくらい老朽化していたのだとか、いろいろとお話を伺うことが出来ました。

またお醤油屋さんの前を通って振り返り振り返り、多分川の上の道にあるバス停まで・・・・・そこで、父が歩いた小月基地へ続く道を眺め、再び運よく来た小月駅行きのバスに乗りました。

                                                              

 

夫と博多駅で待ち合わせて帰宅しました。道中夫から「何でそんなに吉田にこだわるのか?」と聞かれて、つらつら考えているうちに、同窓会が懐かしく記憶の町が懐かしい理由が見えてきました。故郷というものが普通は生まれてきて住み慣れた場所(夫にとっては考えるまでもない平戸)だが、私にはあちこち父の転勤先で重複している・・・・・とどのつまりは父母と暮らした所なのだと。武田鉄矢の言うとおり、『お母さんが故郷そのもの』だと。そして幼いまま離れたところは記憶があやふやで、どうしても明らかにしたいと思ったのだと。同窓会はそんな故郷の中で最後の明白な確かめる必要のない故郷、遠きにあって思うものではなく思うために不可欠な確かな一部であることを感じているのだと。

私にはまだまだもやもやとした記憶の向う側の故郷がある。宮城県矢本の水がめに氷の張った囲炉裏のある家、浜松で入学式を迎えた家と鴨江小学校、そこから転居して鴨江小学校に越境通学した家とお隣の神社、吉田小学校から転校した豊前市の八屋小学校、築城小学校と八築中学・・・・・そこで交わった人々。だけど今回の吉田訪問で少し落ち着いた気がします。父母との暮らしを具体的に確認できてとても満足しています。生まれて4歳か5歳まで平戸で過ごして宮城県矢本に行きました。今回途中の記憶が地についたというか、とても安堵した気分です。そして、故郷とは懐かしいものかもしれませんが、その前に明白なものでなければならないと断言します。

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補足・朝のお味噌汁

2015-09-05 12:15:52 | 父の懐・母の懐

前回の『朝のお味噌汁』に付け加えて、今回は『お汁について』・・・・・・

 

1.お汁の種類・・・・・味噌汁・すまし(清し)汁・うしお(潮)汁

2.具材・・・・・重いものと軽いもの(沈むものと浮くもの)・海のものと山のもの・季節・色・香り・・・などの取り合わせ

         朝は『さっぱり』・夜は『どっしり』

3.朝はお味噌汁、夜はすまし汁かうしお汁・・・・・料亭では留め汁(最後にまた味噌仕立ての汁もの)が決まりだそうです。

4.お椀その他のしつらえ・・・・・朝は清楚に。夜は、必要があれば、趣向を。

5.お昼は???・・・・・適当に???お汁がかかったお料理は、お昼ご飯の普及とともに広がったのではないかと思います。

6.あとはひたすら自分の味覚を信じて、あるいは鍛えて、適当に・・・・・

 

『朝のお味噌汁』でご紹介した私の好みの朝用の麦みそ・・・・・『立科麦みそ』・・・・・これは本当に『清々しさ』を感じさせるお味噌です。私は大体のものを平戸の『自然食品和み』さんから送って貰っているのですが、これにはわけがあります。もちろん社長の堀江さんが友人(?先輩・・・・・・私にカタカムナの門を開けててくれた恩人でもあります。)だからということもありますが、独特の商品の賦活法(変性加工・EHボード処理)を開発していて、≪神様(あまりこんな言い方はしたくないのですが)がおつくりになったように≫戻してくれるからなんです・・・・・つまり、そのものが持っている本来の力を取り戻させているから、味もおいしくなるし体にも良い・・・・・というわけなんです。それで、乾物にも特有の古臭さがなくなり、私がどうしてもと思う立科味噌も『清々しさ』を失わず、お野菜以外のほとんどを宅急便で送ってもらう羽目になってしまうというわけです。同じ商品でも全く味が違うんです!!!

亡くなった舅の古くからの友人がいました。その方は内科の先生でしたが『うなぎ』が好物で、全国から取り寄せていらっしゃいました。その方が『うなぎが不味くなった』と悲しそうに仰ったので、堀江さんのところの『うなぎ』をお送りしたことがあります。とても喜ばれて『私の知る限り、あれが一番おいしい』と断言してくださいました。それ以後お届け物は『うなぎ』となりました。

 

こんなことをここで書くのは、もちろん『和み』さんのお客さんになっていただくのもよいのですが、それより自然食品を扱うお店の方和み』方式を取り入れていただけたらと思うからです。そうすれば、各地の自然食品を大事に考えておられる皆様のお役に立つと思います。この力の賦活、つまり生命力増加法は、当然対象物が神様のおつくりになったもの・・・・・命の力と形・・・・・以外に効果がありません。生命力のある食べ物とは、それが生きているかどうかということではなく、体の中で『その体の命の形を再構築する力のあるもの』ということなのです。それが神様の正体であり道(展開・証明)なのです

宣伝広告は好みませんが、あまりにも違うものであることが多いのです。平戸からの宅急便はたった一日しかかかりませんが、それでもどうしても必要になる時があります。そんな時仕方なく買って出来上がったお料理にがっかりしてしまうのです。もちろん料理人の腕が一番かもしれません。でも、それでも、私は思います。

           素材が一番!!!!

これ以外に何がありましょう。私はそう思います。鍋好きの私はお鍋の力をよく知っています。それでも、私はそう思います。素材が神様であるかどうか、神様に近いかどうか、それが一番です。

 

 

 

 

 

 

 

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朝のお味噌汁

2015-08-29 19:53:56 | 父の懐・母の懐

お出汁は、昆布と煮干し。お味噌は、立科麦みそ。・・・・・・・マクロビオティックの末に行き着いた朝の味の結論です。これが一番おいしいと、私は思います。

昆布と煮干しは朝ほんの短時間でお出汁を引きます。酸化防止剤を使っていない上質の小さ目の煮干しを10匹(?)ばかり、頭とはらわたを取って水洗い。昆布は細く切ったものを数枚。煮干しで生臭くならないよう、ほんの数分煮出し濾して使います。朝の味噌は麦みそ・・・・・・それも商品名で『立科麦みそ』・・・・・・朝のすっきりした味という点で、これに勝る組み合わせを、今のところ、私は知りません。

 

マクロビオティックを基本に据えてから、あまり煮干しを使わないようになりました。キノコやおナスなどのお汁には鰹節のお出汁を使いはしましたが、基本は精進だし・・・・・でやってきました。ですが、このところ朝のお出汁は日本人の懐かしい『昆布と煮干し』になりました。昆布と煮干しの軽いお出汁ほどお味噌に合うものはないような気さえしています。これは、年を取ったのでしょうか?????

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母のことわざ(?)集 続3

2014-07-18 11:57:18 | 父の懐・母の懐

母のことわざ(?)集

母のことわざ(?)集 続1

母のことわざ(?)集 続2

今日は夏にちなんで。

ナスはなりつき、キウリはなりしも。

  おいしいところ・・・・・。もしかするとこれは母の個人的見解かもしれません。ですが確かに、おナスの糠漬けのなりつきのおいしさは特別ですし、きうりといわずスイカも瓜も当たっています。それで、きうりのへたはいつも子供たちの額へ!!!涼しくて嬉しかったものです。

 

トウモロコシは薄皮を数枚残して茹でる。

  トウモロコシを茹でるときは、全部剥いてしまわずに数枚つけたまま茹でると味が良い。ちょうど湯帷子のように・・・・・。私はずっと母の教え通りにしています。そして茹で上がった後すぐにあげないで、やや冷めるまでそのままにしておくと、皺くちゃになりません。

 

それでは今日も:

      私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!

  

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母のことわざ(?)集 続2

2014-06-07 11:19:53 | 父の懐・母の懐

緑色の字は前回の記事です:この記事は、思いついたときに継ぎ足す、という仕組みにしたいと思います。というのも、まとめて思い出せない・・・・・ので。季節感も何もありません。明日8日は父の命日、同じ今月の30日は母の命日・・・・・というわけで母のことを思っていたものですから、こんな記事を思いつきました。

       アサリ水からシジミは湯から

           お汁を作るとき、アサリは水から火にかけて、シジミは沸騰させたところに入れる。

      川(魚)は皮から、海(魚)は身から

           お魚を焼くとき、川魚は皮側を、海魚は身側を先に焼く。

      葛にはたぎり湯を

           葛湯を作るときには、フツフツしているようなお湯で溶かす。

      りんごは乞食に、梨は殿様に

           りんごの皮はなるべく薄く惜しむように剥き、梨の皮は思い切りよく厚く剥く。

      餅は乞食に、魚は殿様に

           お餅は待ちきれずにくるくると返しながら、お魚は殿様のように悠揚迫らず焼く。)

                               

       下手の長糸

            縫物をするとき、下手ほど糸の長さを考えないで、糸も労力も無駄をする。

            特に『布団づくり』の最中に教わりました。

       木綿糸は切れ、絹糸はほどけ

           木綿糸がもつれてしまうと解けないので、切って早く処置をするのがよい。

           絹糸は必ず解けるから、根気よく。

                          

今日はここから

おからはだぶだぶ

   おからはパサつくとおいしくないので、野菜などと軽く炒め合わせた後、だし汁+お水をひたひたになるまで(だぶだぶに)加えて煮る。水気が多いので、味付けは薄目に……水分を飛ばした後ちょうどよくなるように。水気がなくなって穴がポコポコで始めたら焦げないように注意する。一度火を止めて水気を確認する。冷める(仕上がり)とゆるみが少なくなる。なれたら適当な頃合いがわかってしっとりと煮ることが出来るようになる。

シイタケ・桜島大根などはちょっと干して

   水分の多いものを煮るときは、ちょっと干すなり風に当てるなり・・・・・してから煮る。これは本当においしくなりますよ!!!

 

それでは今日も:

      私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!

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母のことわざ(?)集 続1

2014-05-23 08:44:50 | 父の懐・母の懐

(前回の記事:この記事は、思いついたときに継ぎ足す、という仕組みにしたいと思います。というのも、まとめて思い出せない・・・・・ので。季節感も何もありません。明日8日は父の命日、同じ今月の30日は母の命日・・・・・というわけで母のことを思っていたものですから、こんな記事を思いつきました。

 

アサリ水からシジミは湯から

     お汁を作るとき、アサリは水から火にかけて、シジミは沸騰させたところに入れる。

川(魚)は皮から、海(魚)は身から

     お魚を焼くとき、川魚は皮側を、海魚は身側を先に焼く。

葛にはたぎり湯を

     葛湯を作るときには、フツフツしているようなお湯で溶かす。

りんごは乞食に、梨は殿様に

     りんごの皮はなるべく薄く惜しむように剥き、梨の皮は思い切りよく厚く剥く。

餅は乞食に、魚は殿様に

     お餅は待ちきれずにくるくると返しながら、お魚は殿様のように悠揚迫らず焼く。)

 

                         

 

今日はここから

下手の長糸

     縫物をするとき、下手ほど糸の長さを考えないで、糸も労力も無駄をする。

     特に『布団づくり』の最中に教わりました。

木綿糸は切れ、絹糸はほどけ

     木綿糸がもつれてしまうと解けないので、切って早く処置をするのがよい。

     絹糸は必ず解けるから、根気よく。

 

 

それでは今日も:

     私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!

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母のことわざ(?)集

2014-05-07 12:21:00 | 父の懐・母の懐

この記事は、思いついたときに継ぎ足す、という仕組みにしたいと思います。というのも、まとめて思い出せない・・・・・ので。季節感も何もありません。明日8日は父の命日、同じ今月の30日は母の命日・・・・・というわけで母のことを思っていたものですから、こんな記事を思いつきました。

 

アサリ水からシジミは湯から

     お汁を作るとき、アサリは水から火にかけて、シジミは沸騰させたところに入れる。

川(魚)は皮から、海(魚)は身から

     お魚を焼くとき、川魚は皮側を、海魚は身側を先に焼く。(5・19訂正しました。

     T.K.さん、ありがとうございました!!)

葛にはたぎり湯を

     葛湯を作るときには、フツフツしているようなお湯で溶かす。

りんごは乞食に、梨は殿様に

     りんごの皮はなるべく薄く惜しむように剥き、梨の皮は思い切りよく厚く剥く。

餅は乞食に、魚は殿様に

     お餅は待ちきれずにくるくると返しながら、お魚は殿様のように悠揚迫らず焼く。

 

 

それでは今日も:

     私たちは横田めぐみさんたちを取り戻さなければならない!!!

 

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飛行機雲

2014-01-08 08:36:19 | 父の懐・母の懐

昨日は久しぶりに見事な(?)飛行機雲を見ました。それも幾筋も・・・・・・青空にくっきりと綺麗でした!!!そして、またまた父との会話を思い出した・・・・・というわけです。

父が言いました。「戦闘機なら、あれは下手くそなパイロットだ」・・・・・・・「敵に自分の位置を確認されて、撃墜されてしまう・・・・・・、『ここですよ』と言っているようなものだ。」・・・・・・・美しい飛行機雲も命懸けの現実だったのですね。『あそこらへんに気温の境目があるから、それを避けて飛行しないといけない・・・・・・。」父は小学生の子供たちに雲や大気について色々と教えてくれたものでした。

 

シベリヤの寒気団が南下しているんだとか・・・・・・・・アメリカでは大変な寒波だとか・・・・・・・上空の寒気を思いました。まだ復興しきれない東北の寒さを思いました。そして宮城県に住む息子の毎日が無事であれかし・・・・・と祈りました。多くの人々が難儀しませんように!!!

マクロビオティックを無理やり押し付ける気持ちはありませんが、どうぞお聞きください!!!少なくともマクロビオティックは寒暖に対処する最も賢明な方法です。自分の体の機能を低下する食べ方では、寒さに対抗するといっても、外側からの暖房以外にありません。つまり衣服を着るとか、火を焚くとか・・・・・風を遮断するとか・・・・・・だけどそういうやり方では体がそれになれると、それからまた寒くなるんです。

ではどうするか・・・・・・・体の内側から対抗できるようにします。外側の寒さから防備できる皮膚を作り、循環機能を高める・・・・・・それよりも先にそういう血液を体中に配布する・・・・・・それができる毎日の糧を取り入れる・・・・・・・マクロビオティックってそういうものです。つい江戸時代までは、だいたい冬も裸足でした。強かったんだなあと思います。

体毛をおおかた失った人類ですが、それでも生きていける環境との関係を作ってきたのです。その度合いを過ぎた関係・・・・・つまり何もかも凍ってしまう氷河期とか、何もかも枯れてしまう乾季とか・・・・・では、私たち人類に対処法はありません。幸運な僅かな人々が生き残ってまた新しい時代を生きていくだろうと思います。でも今の問題として、マクロビオティックを基本的に取り入れる以外にはないと思います。自分の身の周りで採れるものを、冬は暖かく夏は涼しく調理して食べる・・・・・・・これ以外にありません。私はそう思います。

 

それでは今日も:

        私たちは横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!

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書き残しておくべき父の言葉

2013-01-19 18:30:42 | 父の懐・母の懐
それは南京事件(?)について、です。この事件については以前は自民党議員の失言(?)としてのみマスコミの攻撃に遭っていましたが、去年の河村名古屋市長、そして昨日の鳩山前総理大臣・・・・・そして日本人全てがこの事件を想念の世界に埋没させつつある状況を心配せずにはおれません。今までとりあげませんでしたが、戦争でなく戦闘という生々しい事態を現実に知っている人間としての父の言葉を残しておこうと思います。

父が私に言い遺したこと、それは第1に中国大陸の戦争における戦闘の末期の実態、第2に松井磐根大将の実像、第3に南京事件の問題化の時期、第4に数の問題の4点です。第1の問題に関しては『便衣兵』について中国大陸での実態と国際法に関して、第2には松井大将が如何に中国古典を愛した立派な人であったかと南京入城に当っていかなる厳しい軍律を課したかということについて、第3にはこの事件が問題として取り上げられたのが両国間の政治的外交問題として終戦以後であったこと、当時のヨーロッパジャーナリストによっても取り上げられたことがなく、それどころか日本軍の模範的振る舞いが称賛されたこと。この3点については調査されればわかることなので、今回は列記するだけにします。

ここで父の言葉として取り上げたいのは第4の数の問題です。父はこう言いました。『500人の兵隊で5000人の捕虜、もしくは敵害者を拘束するのは難しい・・・・』今朝のテレビ番組でドイツの大サッカー場が紹介されていましたが、6万人の観客収容力があるそうです。満員の状況のフィルムが流されましたが、その大人数たるや、父の言葉をしみじみと実感します。東京マラソンの参加人数をご存知ですよね。3万8000人だそうです。あの人数をどうやってコントロールできるでしょうか。父はまたこうも言いました。『500人で5000人を連行するのは怖いんだ・・・・・』

父が可能性として認めた最大数が500人(当時父が把握していた日本兵の数員だったのだろうと思います)で5000人の拘束でした。でもそれはとても難しい・・・・と言いました。そんな切羽詰まった状態で相手だって黙ってやられているはずがない・・・・と。もともと便衣兵が混じっているからこそ、そんな不幸な状況になり得るのだと・・・・・それが日本兵にとってどんなに恐ろしいことだったか・・・・・戦時下では様々な突発事件が起こり得ると思います。でも戦闘の実体験のないものが頭で考えることの危険性を、私達はよくよく念頭に置いて物事を判断すべきです。こういった類の事件があったかもしれません。でもそれがいつからか南京大虐殺になり、いつからか30000人になり、60000人になりました。広島や長崎に投下された原爆の犠牲者数、東京大空襲の犠牲者数を考えてみてください。この実態は正確に調査されるべきだと思います。それを願ってこの記事を書いています。

私達の父祖と中国国共軍と中国大陸に住んでいた人々は実際の戦闘のただ中にあったのです。戦闘員ひとりひとりにはゲームでもなく、それが善悪で判断できることがらでもないのです。判断できたとして一体それが何になるでしょうか。このことを一番実感した青年の一人が、カンボジアで国連平和活動に従事していた中井厚仁青年だろうと思います。彼は手記に残していました。『危険があろうと、それを分かっていようと、決められた仕事をやる』といった趣旨の文章を思い出します。人間とはそんなものです。与えられた場所で生きる以外にありません。そして私達は歴史の不幸に直面した父祖を敬愛の心を持って思い出すべきです。そこで死ななければならなかった人々を敬愛の心を持って思い出すべきです。実際に戦闘をしていた人々が、如何に怖れの心を持っていたか、知るべきです。そしてそれが少なくとも私たち家族のためであったことを知るべきです。そしてその人達がこういったのです。『靖国で会おう』と。言葉を発して誓った約束はもう取り消すことはできません。取り消す手立てがありません。

在京中や上京した時父はいつも靖国神社に詣でて戦友や父祖に参拝し、平戸に戻ってからは思いを馳せ遙拝していました。そんな父の心の中を懐かしくしのびます。私達は愛情を持って父祖の苦難をお慰めすべきです。




それでは今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!





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北方領土のこと2

2012-01-13 09:38:22 | 父の懐・母の懐
昨年の記事『北方領土のこと』で父から聞いたお話をしましたが、その中でソ連軍の侵攻から同胞を死守した最北端の部隊の事に触れました。その部隊名を忘れてしまったことをその時本当に残念で申し訳なく思っていました。そうしたら父の導きだと内心本当に思っていますが、昨年12月の産経新聞『談話室』の欄に読者の投稿記事が2回も掲載されました。もっと早くここにご報告すべきだったのですが、うまく言葉にすることが出来なかったのです。お許しください。

  その最北端の部隊を死守し、捕虜となり、シベリヤに抑留され、帰国なさった方のお話
  そしてもう一つは、その記事を読んだ私より10歳余り若い男性の読者の思い

繰り返し繰り返し父の言葉の記憶をたどって思い出せなかった『その部隊』は、千島列島の最北端『占守(シュムシュ)島』の部隊でした。殆ど殲滅状態だったと聞いていましたが、生き残ってご苦労をなさった方がいらしたんですね。カムチャッカ半島から北海道に連なる千島列島!この千島も日露戦争や樺太との交換を経て日本領と確定した地域でした。

この北方領土と、そして最南端の沖縄に流された血の犠牲を私達は忘れてはならないと思います。




そして今日も:

     私達は横田めぐみさん達を取り戻さなければならない!!!
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