inspiration-macrobiotique・随想古事記

マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

2ヶ月ぶりの再会

2010-09-26 23:52:11 | 教室情報
昨日のヒレフリ山教室では、7、8月がお休みだったため、久しぶりに参加してくださる皆様と再会してとても懐かしく感じました。それで嬉しくて興奮したのか、今年度のヒレフリ山教室の要点を全てお話してしまいました。なれない考え方でちょっと難しかったでしょうね。来月からは、ご一緒に噛み砕いて行こうと思います。

卵が親鳥の子守り歌を聞いたのだと思ってください。そしてその歌を聞いて孵化した雛鳥に、今度から餌を運び、噛み砕いて大切に巣を守りたいと思います。私もそうでしたけれど、本の形で示してくださった子守唄はとても難しく、最初はただただ親鳥の餌を消化したいと思うばかりでした。でもトキのチカラで少しずつわかってきました。それぞれが自分のコースを進むでしょうが、いつか振り返る時が来ると思います。

また来月を楽しみにしています。

ちょっと飛ばし過ぎたかもしれないと思っている親鳥より。
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平戸便り

2010-09-18 12:29:38 | 平戸
地球温暖化をみんなが実感することになった今年の夏、残暑もまた厳しいものがあります。それでも朝夕は秋を感じるようになってきました。主人との会話は、「“あご風”は吹いているだろうか」と、平戸の初秋の味覚『あご』が今年はどんなだろう・・・・・、獲れるだろうか・・・・・?という故郷の話題です。

近年あごの獲れ方は減少するばかり、“あご”がやって来ないのです。何百年もの間続いてきたあご漁ですが、相手がなければやりようがありません。この季節に毎日毎日繰りだされていたあご漁も、僅かのタイミング次第になっています。竹笹で海面をたたいて浅く張り巡らした網に追い込む伝統的な追い込み漁でした。平戸の海から、銀色に光るグライダーのようなあごはいなくなってしまいました。

そんな望郷の思いの主人に、持つべきは友と言うべきか、友人から希少なあごが届きました。早速焼いて故郷の味を堪能しました。この季節は昔から舅も夫もあご尽くしの毎日を過ごすのが決まりで、平戸の主婦は献立に悩まないでよい(?)季節でした。そういうわけで主人のビールのおつまみは“あご”に決まりました。新しい白くきれいなあごの身はいかにも美味しそうです。

そんな昨夜主人があごを残しました。もったいないというより郷愁をそそられた私は『お残し』をいただくことにしました。カボスをかけて「私にはかなり塩辛いけれど、美味しい」あごを堪能しました。だけれどそのあとのどが渇いて眠れなくなってしまいました。それもそのはず自分用に最初に焼いたのと合わせて2匹も食べたのですから。塩気がききすぎました。

それで“あご”を蒸したらいいのではないだろうか、と思いつきました。次の日続けて食べるのは気がひけますが、ためしに蒸してみました。これは大ヒットです!トビウオはもともと身が締っているので、蒸し料理に向いていると思います。塩気が落ちて柔らかくなって、カボスとよくマッチします。チャンスがあればどうぞお試しください。
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北方領土のこと

2010-09-06 06:34:16 | 父の懐
昨日の日曜日テレビを見ていたら、ある方は『父親の憤りが自分の中に生きていて、絶対に譲れない』、ある方は『現在暮らしているロシヤ人の実態がる』というような趣旨の発言をしていました。それでここに父から伝えられたことを記事にして、親から子への伝達を子から孫世代への伝達に変えたいと思います。

以前ブログにも公開しましたが、母方の伯父はシベリヤに抑留されました。その伯父の家族を含めた満州から朝鮮半島に住んでいた日本人の帰国はそれはそれは大変でした。乳飲み子を抱えた伯母はそれこそ夜叉のごとく半狂乱で我が子だけを守って帰国したのだそうです。今のように心のケアなどありません。それから数年後の姿だったのでしょうが、私の眼に映った伯母は、浴衣を寝巻にして半纏をかけた病人でした。私を見たまなざしは思い出しますが、声を聞いたことはほとんどありません。優しいような優しくないような、不思議なまなざしでした。

そのソ連軍の非道な情報は停戦時の北方領土諸島にも伝えられていました。そしてソ連軍の侵攻も動向分析から予測されたのです。そこで我が同胞を抑留と凌辱から守るため、島民全員の本土帰還を決定し、自発的に一時避難をしたそうです。島民が全員避難を達成するまで、最後の防衛戦を最北部に近いところにあった部隊は展開したそうです。その部隊名も確かに父から聞いたのですが、情けないことに忘れてしまいました。その部隊が最後の一人になるまでとの決死の覚悟で、島民の帰還を達成したそうです。それで朝鮮半島から大陸にいた日本人の悲惨さを北方四島等の各島に住む日本人は遭わずに回避できたのだそうです。

聞くところによればソ連軍は北海道を占領する計画だったのだとか。そういう魂胆での条約破棄ですから、北海道には被害に遭われた記憶も残っていると思います。九州に住む武装解除された軍人の娘でさへ聞かされていたのですから。でもソ連の勢力拡大を希望しないアメリカによってソ連の計画は阻止されました。そして北海道以南を占領したアメリカは、完全な武装解除を求めて日本全土で刀狩りを実行しました。

父や祖父は先祖より伝わった刀剣類をアメリカ軍に渡したそうです。大体どの家に有るかというのは分かっていたので、隠すことはかなり困難だったのだと思います。でも山に埋めた刀二振りと、柄を切り落として山芋掘りの道具だと言い逃れた槍一棹(とはいえない長さでしたが)は残されました。切り落とされた柄の一部は今では主人の木剣になっています。後に掘り出された刀は、丁寧にしまわれて埋められたとはいえ、研ぎに出して流石に少し細身になったと手入れをする父から聞かされました。

父は言いました。敗戦後とはいえ、自分ら軍人にはまだ敵を倒す気概は残っていたと。北海道でも九州でも日本中で平和に武装解除が行われたのは、『自分たちが天皇陛下の御名をいただく軍隊であったからだ』と。『天皇陛下の御名のもとに停戦と武装解除の命令が下ったからだ』と。それで日本では世界史に類のない無血の武装解除がなされたのだと。明治維新というこれまた世界史に類のない武士の犠牲のもとに成し遂げられた近代化も、『上下心を一にして』苦難に耐えしのんで国のために尽くそうと国民が一致団結したからなんだと。

父は言いました。『天皇陛下万歳』は『お母さん』という心の叫びなんだと。だから特攻に散って行ったものはみんな『天皇陛下万歳』と叫ぶんだと。『天皇陛下の御為』はそのまま『父母や家族のため、同胞のため』なんだと。多くの戦争に倒れた方々の心の声を正しく知るとともに、国というものの実態を正しく考えなければならないと思います。国というものが組織であるならば、顔は絶対に不可欠です。顔が『天皇陛下の御為』であるならば、血液は『父母や妻子のため』です。有機体というものはそういうものです。人体と同じです。顔を大切にするからと言って手足を粗末にすることはありません。顔のお手入れに余念がない人でも、手足にキズを負えば顔のことは忘れます。顔も手足も同じように欠くべからざるものです。ただ付いているところが違うだけです。また顔は先祖でもあります。顔なしに子孫はないのです。縦と横とかならず考えなければいけないと思います。

為政者には為政者の都合というものがあるかもしれません。権力者には権力者の欲望があることは歴史を振り返れば明らかです。ですが残された私達はそういったものを排除した上で、一般国民の素朴な国という一つの統合体を思う心を考えなければならないと思います。私達は『天皇陛下』という言葉に込められた意味をもう少し明らかにしなければならないと思います。そうして私達は国を守り続けていかなければならないと思います。そうしなければ、日本を守っているたくさんの魂と心を喜ばせることが出来ません。私達は『たたり』を受けなければならないかもしれないのです。

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