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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

心に沁みる文章・我が踏みそめしかたみなり

2008-05-13 10:57:55 | Weblog

中学校の恩師から、毎日新聞・長崎県版「はがき随筆」集をいただきました.そこに掲載されている先生の投稿は題して「恋の細道」、余りに心打たれましたから皆様もお読みくださいますか?

 林檎畠の樹の下に/おのづからなる細道は/誰が踏みそめしかたみぞと/問ひたまふこそこひしけれ
 「まだあげ初めし」で始まる島崎藤村の詩「初恋」の4番目の詩句である.
 妻の入所している老人ホームは丘の北斜面にあり、我が家はその丘の南斜面にある.車で行けば丘のすそを遠回りして1キロ以上の距離になる.だが裏山の林を登り抜ければ400メートルである.
 妻の顔を見ないと落ち着かない.話す事柄は毎日同じだが、雨風以外は歩いて会いに行く.林の中におのずからなる細い道ができて歩き良くなった.
 妻恋て我が踏みそめしかたみなり

今でもお元気な恩師先生と昔やさしく笑っておられた奥様の二つ並んだお姿が浮かびます.

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うぐいす

2008-05-08 23:36:55 | 季節・週末散歩

今年のうぐいすは「ホ-ホケキョ」と鳴きません.「ホーホチョクリ」とか、「ホーホチョチ」とか、例年なら卒業の時期はとっくに過ぎているのに落第組みばかりです.

もしかすると今年は雨が少ないせいでしょうか?もうアゲハチョウが飛んでいるのに、うぐいすは落第か留年か、ホーホケキョと鳴きません.

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マクロビオティック考・食について(長過ぎですね)

2008-05-01 16:37:05 | マクロビオティック
そもそも『食』とは一体なんでしょうか?マクロビオティックを実践しておられる方もそうでない方も、一度は『何で食べるのだろう?』と自問したことがおありだと思います.今更そんなこと言っても止めれば死ぬだけよとお思いだろうとも思います.でも地球上には食べて生きるものもいれば、食べられて死ぬものもいます.或いは食べたが故に死ぬものもいます.食という行為は生死と密接に関わっているのは自明の理ですが、マクロビオティックを人生の指針にしようと考えれば、『食』というものの本質を考えずに通り抜けることは出来ません.そこに桜沢先生や久司先生が平和の方法として『食』を提示された意味があるのですから.

さしあたって地球上にいる生命はあらゆるものが食べて暮らしているのですから、生命の起源において『食』というものはどんなものだったのでしょうか.何故生命が発生したかという問題はおいておくことにして、私達生命体の起源は細胞質が膜でテリトリーを囲って自分を識別した時(人間の意識ではなく)に始まります.原初の環境条件の中で発生した境界を隔てる膜を持つ細胞体は原始的な粘液状のものだったと推測されています.その時の意識はただ一つ、自己保全です.努力をしなかったものは残っていないのです.その努力によって存続してきたのですから、地球上のあらゆるものは自己保全の努力を皆するものです.生命と考えられていない物質だって、自己保全の力を持っています.火の上のフライパンに落ちた水だって、自己保全のために結球するのです.

この変化する世界での自己保全にあたって、生命は存続するためのエネルギーを必要としましたが、当時その取り込み方には二つの選択しかありません.自分と異質な外界を取り込むか、その異質な外界から発生した自分と同質なものを取り込むかのどちらかです.異質な外界を取り込むことにも結果は二つありました.自分が外界から独立したように必要なものを選択的に取り込むことが出来るか、それとも失敗して外の環境条件に還元してしまうかのどちらかです.この条件は今でも生きています.私達は食べられるものを食べ、毒を食べないよう選択をしています.同質なものを取り込むということは、粘液状ですから外見は合体したように見えます.この時期はどっちが食べたか食べられたか私には分かりませんが、これにも食べる側か食べられる側かの二つの立場がありました.いずれにしろ現代まで命をつないできたものは自己保全に成功してきたものです.こうして次には分裂して数を増やす(生殖)ようになります.数が増えていけば多少の多様性が生まれますがいずれにしても最初は選択の余地の少ない我と同質(狭義の共食い)か異質(広義の共食い)かの食の世界です.そして同じ自己保全の性質により、生命体は食うことを望み、食われることを回避してきたのです.獲物を追いかけ、その獲物は逃げるものなのです.

単細胞時代は全てにおいて、言わばオール・オア・ナッシングの時代です.あなたが私になるか、私があなたになるかのどちらかです.食べたものが生き残りますが、食べられたものは食べたものの中身になります.食行為の意味は此処にあります.桜沢先生や久司先生が言われるところの、『私達は私達が食べたものである』という意味が単細胞を考えるとものすごい迫力で迫ってきませんか?私達ははるか35億年の時代を経て、安全の確保を図り今のような複雑な人体を作り上げました.しかしこの単細胞時代のやり方はそのまま消化吸収や免疫細胞のやり方として体内に持ちつづけています.腸壁の細胞は同じように腸内という外界から自分の内側に食べ物を取り入れています.白血球などの免疫細胞は異物を消化することによって無害化しています.そうやってあなたを私に変え、私は昨日の私とは違って存在しているのです.私は私が食べたものであり、あなたはあなたが食べたものです.

進化というものを調べてみると、突然新しい存在や行動原理が目的をもって現れることは無く、最初の機能やシステムを踏襲しながら援用したり代用したり、或いはその力や成分を他の何かの必要なものに作り変えたりして今の私達があることがわかります.私達ははるか35億年を自分の体のシステムとして持ち続けながら今を生きています.その間に海の中で生活を始め、上陸を経験して様々な苦難を乗り越え哺乳類となり人類となりました.生命進化を見れば、初めに自分か自分でないかの識別があり、次に自分でないものが同質か異質かの食行動が発生したと思います.人類に至るまでの食行動の系列でといったら変ですが、一番初めは共食い、そして外界の取り入れ方として同質(?)の肉食、最後の最後に草食に分岐した種の位置に私達人類はいます.ゴリラなどは人類よりかなり昔に草食になりました.進化の歴史の中で共食いがはっきりとタブーになったのは爬虫類に近くなってからだろうと思います.つまり産む子の数が決定的に少なくなってからだと思います.子の数が少ないということは、共食いを許せば絶滅してしまいます.それ以上に保護すら必要になってきて育児行動も始まったのですから.共食いの世界に親子の認識はありません.親子の感情は共食いと絶縁した証しです.食と生殖は同じ起源です.食の結果生殖が起こり、生殖のために食があるのです.生殖は自己保全の一つで、時間の巻き戻しです.ですから発生は系統発生を繰り返すのです.

生殖はマクロビオティックで言う陽性が陰性にターンするその時に戻ることと同意義です.私達地球上のものは地球も含めて全て陰性に向かっています.地球上のすべてのものは脱物質化(?)の方向に進んでいます.時間の単位はそれぞれ違いますが、個体で言えば死であり、種で言えば絶滅であり、界で言えば波動化です.ですから自己保全は生殖による繰り返しを選ぶしかないのです.ではその陽性は何故陰性に向かうのでしょうか.何故極点で陽は陰に変化するのでしょうか.それはいつも陽は陰とセットになって存在しているからなのです.陽の局面が現れている時も陰は見えない力となって同時に存在しているからなのです.存在界の始まり、イザナギイザナミの天のヌボコから滴り落ちて凝り固まったその時、秘められた陰性の力がそのものの性質になったのです.繰り返し繰り返し私達のその性質は陰性化の度合いが強まって、予言にある通りいつか子が生まれなくなるときが来ます.この世にあるものはいつか絶滅することになっているのです.

こうして見ると食べるということは陰性化が宿命である私達のネジの弛み方、巻きなおし方であると言えると思います.もっと大きく見れば、全てのものが持つ『いつまでも』という自己保全の夢を実現させようという希望であると同時に、自分以外のものを取り入れて新しいものに変化していくこの世の動きそのものの行動様式でもあるのです.この世のものはみな食が行動原理であり、それによって変化しています.ですから最初の生命も当然その性質を受け継いでいたのです.人間は食べることの持つ本来の喜び――自己保全の達成――とは別に、食べることそのものに楽しみを見出して目的化しています.しかし食の選択は生死の選択でもあるのです.そして人間は体の陰性化とは別に、もう一つの陰性化、つまり界の陰性化(波動化)を具現することになりました.体は地球と一緒に絶滅するまで繰り返し繰り返し何かに生まれ変わるのです.花になったり、猫になったり、虫になったり、はたまた誰かになったり・・・・・でも私の中で波動化され精神に昇華された陰性化物は、私が陰性化して死を迎えるまでの間に食べるものによって変化します.自分の思い方という陰性の食べ方によってもその変化は加速されます.そして死後はもっと大きな繰り返しの中に変化していきます.そこではより大きなものに食べられることが望みです.或いは残された子孫の送りつけるお供え物(祈り)が大きく広いと大きな助けになるでしょう.

さて皆様は何を食べたいと思われますか?
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