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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

随想古事記

2013-05-28 08:51:36 | 父の背負子3(雑記)

還暦を過ぎるということは人生の完成期を迎えるということだろうと思います。来し方を振り返って、一体自分が何を知りたかったのか、何をしたかったのか、はっきりと自覚すべきだろうと思います。そういう意味で私は平安な日々を迎えているととても幸せに思います。

何を知りたかったのかという第一の問題に関しては、『今ここに生きている』という現実に対する根源的な疑問、『一体自分は何なのか』『なぜ今生きているのか』『どうやって生きているのか』に対して解答の道(カタカムナとマクロビオティック)を持っているからです。(後は私の修行次第・・・・・)そして第二の何をしたかったのかという問題に対しては、『タネ』としての自分、つまり『父の背負子』を代々負って来た先祖・歴史・過去の一部としての義務を『随想古事記』に書き残すことが出来たと思うからです。もちろんこれは今後も『日本語・古事記』や『父の懐』というカテゴリーで発展させていきたいと思っています。

そう言うわけで随想古事記にいたる『父の願い』という短い記事を発表してからは既に3年、去年の秋に父の背負子(随想古事記)シリーズをやっと完成することが出来ました。それを時々見ていただきたいという私心からその一覧を再掲させていただきたいと思います。『タネ』としての私が未来へ新しく生み出した『タネ』を見ていただきたいと思います。


   カテゴリー『父の背負子(随想古事記)』
        父の願い   2010-04-30
        私の邪馬台国   2012‐10‐04
        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05
        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09
        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12
        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15
        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17
        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17
        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24
        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26
        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27
        随想古事記Ⅲ・大和の心3   2012‐10‐29
        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02
        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04
        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06
   カテゴリー『日本語・古事記』
   カテゴリー『父の懐』




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6月教室のお知らせ

2013-05-19 07:29:54 | 教室情報
4月のクラス時に6月は第4土曜日とお知らせしていましたが、松見先生の御都合がつかなくなりました。それで

     7月6日(第1土曜日)に開催!!になりました。

一応早くからお休みの申請などが必要な方にはご連絡を差し上げた上での日程変更ですが、取り急ぎブログでもお知らせいたします。




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コメント (1)
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青森県の『ヒバ』枕

2013-05-18 08:11:27 | Weblog
もともと肩凝りだったせいもあって、枕についてはかなり試行錯誤を繰り返してきました。これまでに買った枕は数え切れません???平戸で開業医の裏方生活だった頃は、デパートの外商員にとって、私は枕に関しては売上数に数えてよい『カモ』だったろうと思います。

相似象の宇野先生も枕に言及しておられますが、残念ながら私は先生の具体的なお考えを知りません。ただ『マ・ク・ラ』という音にその手掛かりを追求して工夫するだけでした。それがこのところ夫が当直室に自分用の枕を持って行きたいと言い出したのです。当直室での仮眠が辛いと言いだしたのです。

これまで『病院には夜でも走って行けるところに住居を構え』開業医の毎日当直は当然自宅待機ですから、還暦を過ぎてから勤務医の当直への激変に直面して辛いのだろうと思います。それでも吉祥寺では夫の『走って行けるところ』という希望を考慮して道路一つ離れたところに社宅を借り上げてもらってましたので、夜中も神出鬼没(?)、自宅にこっそり戻っては本を持っていったり・・・・・・気が紛れたのだと思います。それが一宮でそうはいかなくなりました。

夫が『枕』を探しに買い物に行くなんて・・・・・という事態に陥りました。でも『枕』というものはそう簡単ではありません。私は数十年も探しているのです・・・・・・。究極のところ、値段も関係ありません。私の記憶の中では、『母のもみ殻まくら』が一番です。穫り入れが終わった後に作る『もみ殻』のお日様のにおい・・・・・それに年齢にもよります。


夫に『アアでもない・コウでもない』と手伝いながら、ついでに自分の枕も色々と試してみました。そして思いがけず、肩凝りが解消しそうなのです。最近は枕に関しても科学的メスが入って睡眠に対する研究がなされています。それで《首を支える》枕だとか、《首のアーチに沿った》枕だとか、色々と発売されています。でもそれは覚醒している時はうまく機能して、良質の枕になります。問題は眠ってしまってからなんです。枕は動いてしまう(いいえ、頭が動く)んです。

私が今回行きついた枕の構成は、『カモ』になった枕の一つ、《首のアーチに沿った》枕に青森県の『ヒバ』枕を重ねました。すると二つの枕は眠っている間に相互に干渉して動き、その『ヒバ』枕は頭と肩の間にうまく形を変えてなじみ込んで、私の肩を凝りから解放しそうなのです。朝『肩がこわっている・・・・・』という感触を忘れそうなのです。その『ヒバ』枕は吉祥寺の東急で催された『東北物産展』で2個買いました。長男が眠れないと言うので送りましたところ、安眠できるようになったと言っていました。『ヒバ』の香りも要因の一つだろうと思います。

新しいうちはヒバの木片(?)がざわついて耳障りと言えなくもなかったのですが、適当につぶれて今が最もなじんでいるのだろうと思います。昔『もみ殻』枕を毎年秋に新調していたのと同じで、今年の秋には山の土に返さなければならないかもしれませんね。もうしばらくは大丈夫だろうと希望もまじえて思っています。枕も『好み』の対象ですから、自分で見つけるほかはありませんが、この『ヒバ』枕の自由さ(?)には驚きました。『マ・ク・ラ』とはそういうものかもしれません。




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実は・・・・(続き・更紗の着物)

2013-05-11 18:25:56 | 和服について
洋服に比べてお掃除もお洗濯も、実際のところ着物では生活しにくい・・・・・それでも私には6ヵ月間、それも子供3人を抱えて、着物で暮らしたことがあります。

それは3人目の息子が生まれて間もなくの頃のことです。長女と次女の間は4歳離れたのですが、次女と長男の間は1年に1週間足りません。長男を9か月の早産で生んでしまいました。子供二人の時も忙しかったのですが、三人にもなればてんてこ舞い・・・・・どうやって毎日暮らしたのか、ほとんど覚えていません。その時の願いは『誰も来ないで!!!!』というものだったことは覚えています。何しろ来客でその日のスケジュールが崩れてしまったら、離乳食の子と乳飲み子とそれから小学校1年生の希望はどれもまともに叶えてあげられなくなってしまう!!!

『育児戦闘態勢』とでも言うべき暮らしの中で、私の腹筋はたるんでいたのか、『腹壁ヘルニア』になったのか、なりかかったのか、妊婦時代の腹帯を毎日きつく巻いて暮らさなければならない事態に陥りました。お腹の筋肉がたるんでいるので、間から腸が出てきそうになったらしいのです。これは今回初めて告白するのですが、年子で子供を産んでちょっとお腹が気になって、その当時ちょっと流行っていた『産後体操』なるものを試してみたんです。もしかするとそれが原因で・・・・・・とずっと思ってきました。

しかし原因を探してもどうにもなりません。腹帯のせいで私はまた妊婦服に逆戻り・・・・・でも妊婦服を買うのにはかなり抵抗感が・・・・・・それで私は着物生活を決心しました。が、が、普段着の着物って舅が長女を生んで産後の来客対応用にこしらえてくれた紬しかありません。まあ半病人用のもので、帯も無い・・・・・・仕方がありません。翌日私の自由になるお金を全部持って歩いていける呉服屋さんに行きました。そして全財産(?)を見せて事情を話し、普段着用の長襦袢を2枚、着物を2枚、名古屋帯を1本半幅帯を1本、後は小物と下駄、『これで、どうにかしてください!!それもなるべく早く!!』って頼みました。

すると本当に僅かな予算だったのに親切に私の願いを聞いてくださって、私のたすき掛け生活が始まりました。その時のことも何が不便だったかどうだったか、何一つ覚えていません。ただ長女の同級生のお母さんから5年くらいたって『何と優雅な人がいるものだ・・・・・と思っていた』と言われました。傍目にはそれでも優雅に見えたのか????まあお互いそんなものでしょうね。

それからおよそ半年再発しないようにひたすら我慢して私の着物生活は終わり・・・・・どうやって見切りをつけたのか、マクロビオティックを知っていたなら食養生もしたでしょうが・・・・・まあ若さというものは再生能力も高い・・・・・・もう一人4年後に二男を生みました。もちろん産後の体操はしませんでした!!!それで思うのですが、慣れていなくても和服で生活出来るものです。母達もそうやって暮らしたのですから。ただその必要があるかどうか、そして外出用ではなく袖丈を短めにしたり・・・・・でも『たすき』は絶対に必要です。




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更紗のきもの

2013-05-11 14:21:32 | 和服について
結婚する前自分で買った唯一の和服があります。それが今回の記事の題名、『更紗のきもの』です。もう40年も前に気に入って買った着物です。お茶のお稽古に着ていこうと・・・・・でも一度も着ないままです。洋服の便利さ、手軽さに慣れてしまって、和服を手軽に働き着に出来ない私達現代日本人・・・・・それでも和服の感触は過ぎし日の懐かしさとともにあります。

『お母さんは着物を着ていなさい。』・・・・・父の声が聞こえてきそうです。自衛官の父は帰宅すると和服に着替え、我が家では『オジブッツアァ』と呼んでいた仏壇の前で白隠禅師のお経を唱え、それから父の席に座り私達子供のその日一日の報告(?)話を聞いてくれました。そんな父の希望に応えるため(もちろん女にとって着るものを誂えるのは楽しみの一つでしょうが)、慎ましい家計を工面して母は着物をこしらえました。

当時はやった(?)ウールの着物も母を助けました。ウールの着物は単衣仕立てでしたから、母にとって簡単に縫えましたし、裏地不要だったので節約になりました。シルクウールというのもありました。ちょっと薄手だったので、外出着にもなりました。母は絵心があったので柄選びが上手でした。今でも覚えていますがそんな中に木の葉模様の着物があって、母は皆が大島と遠目に見まがうらしいと自慢げでした。また呉服屋さんから染め見本の反物を譲ってもらって、長い時間をかけ模様と色を決めて染めに出し着物を誂えました。グレーがかった薄いピンク地に焦げ茶の立涌がぼかし染めされている訪問着です。もう一つ思い出深いものは鬼しぼの黒地に赤い小さな狢菊が染めてある羽織です。これは私達の入学式・卒業式の思い出とともにあります。

私に着物を譲ると言う母にその三枚をねだりました。すると『あのウールはもう擦り切れてしまってね・・・・・』と言いながら、『安物だったけれどあれほど愛用した着物も無い・・・・・』と懐かしそうに考えながら、似たような大島に代えて望みをかなえてくれました。その大島は母が生きている間に何度か着て見せましたが、母の作品の訪問着は、母亡きあと高校の還暦同窓会に着ていきました。


婚家の母もたくさんの着物を残してくれました。長男が生まれた時には無地の紋付と絵羽織を誂えてくれました。その絵羽織はアメリカの久司インスティテュートに持って行って、ニューイヤーパーティーで着ました。今ではさすがに派手になったので、柿本の名を負う孫息子のお宮参りを機会に今年1月嫁に譲りました。そろそろ着物の始末も頭に置かなければ・・・・・と、問題の『更紗のきもの』を取り出して見ることになってこの記事を書いています。

結婚して40年・・・・・時折虫干しをする時には見ていたのです。その度に『もうこのまま娘に譲ろうか???、いや待て、娘達の暮らしは和服とは遠い・・・・・それに一度は袖を通してみたい・・・・・』とまた箪笥へ。そんな繰り返しでした。でも60を超えた頃から、『いくらなんでもあのローズ色のような裾回しでは・・・・・・』となっていました。それを今回平戸にに帰った折、一大決心をして裾回しを変えることにしました。そして今度は必ず袖を通そうと決心しています。この更紗を着て何処に行きましょうか。出来たら教室にでも現れることにしましょうかね???




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美味しいお味噌

2013-05-04 19:49:04 | 自然食品和みさん

特に『おいしい』お味噌という題を記事につけました。というのも何時も登場する『和み』さんの自家製お味噌のことです。このお味噌は質のいい原材料と、何といっても特筆すべきは『イキな塩』を使って作ったお味噌だということです。昨年初めてできたもので、これはこのまま食べるのが一番美味しいんです。お味噌汁にするには、春のような味のする朝のお味噌汁が私は好きなので、コクがあり過ぎ・・・・・この美味しいお味噌はそのままご飯や焼ネギにのせたりしています。もちろん人それぞれ、好みの問題ですが・・・・・・

そうやって楽しんでいたのですが、先日いいことを発見しました。それはワサビ漬けに同量の『和み』味噌を混ぜるんです。ワサビ漬けは刺激が強すぎ・・・・・という方にお勧めです。私達は先々月伊豆に行った時に買ってきました。お醤油をたらして食べていましたが、それでもかなり刺激的です。お砂糖も入っていますし・・・・・というわけでこのお味噌をいれてみたら『ピッタリ!!』でした。お試しあれ!!




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安珍清姫

2013-05-02 21:21:41 | 日本語・古事記・歴史・日本人
安珍清姫のお話は『道成寺』として広く知られていますが、子供のころ初めてこのお話を知って第一に思ったことは、『どうして清姫が蛇になるのか?』ということでした。その後、順番はもう混乱してしまいましたが、古事記の『ホムツワケとヒナガヒメ』のお話、『女の嫉妬心が蛇になって子どもをかむ』というホツマツタエのお話・・・・・色々ありますが、恋に狂った(?)女が『蛇』であることは共通しています。

そうしているうちに、NHKで一昨年でしたか(?)放送した韓国の娯楽時代劇『トンイ』に出てくる粛宗の母后が言いました。南人(ナミン)のチャン・オクチョンをさして『あの女は“蛇”だ!』え、え、え、ここにも安珍清姫が・・・・・????・・・・・南人(ナミン)というのは蛇族の民族集団なんです。朝鮮半島というところは、私達が遠に忘れた民族の差別意識(五色人)を残している・・・・・???そこに母后の憎しみさえ感じてしまい違和感を覚えました。たとえ清姫が蛇になったとしても、怖いとは思っても・・・・・私達日本人には嫌悪感は無い???・・・・・というか清姫にも同情を禁じ得ないような気がするからです。


数年前から何度もご紹介している川崎先生の説にふれてこれもやっと得心がいきました。そして『五色人』の謎を解明し日本民族の成立に関する私なりの説(ブックマーク・随想古事記)をブログで発表しました。

要するに安珍清姫もホムツワケとヒナガヒメも『馬男に蛇女』のお話でした。そして蛇女の悲しみの裏返しである『恨み』がなぜ命をちじめることになるのか・・・・・それは確証があるわけではありませんが、オオヤマツミの娘『イワナガ姫』が醜さゆえにニニギノミコトから親元に帰されたお話にその源があるような気がします。イワナガ姫は美人の代表、通称コノハナノサクヤ姫の姉君です。少なくともイワナガ姫は名前に蛇女であることが示されています。『ナーガ』は今でも蛇のことですし、少年ケニヤにも出てきましたよね。父であるオオヤマツミが言います。イワナガ姫は永遠の命の象徴であると。それを返された天孫ニニギノミコトの命も限りがあることになると。

私達は坩堝の中で五色人を錬金して『日本人』を作り上げましたが、その坩堝の中には様々な記憶が入り混じって時々顔をのぞかせるのかもしれません。安珍清姫を思い出した時には、鎮魂の祈りを捧げるべきだろうと思います。その為にお話として私達の先祖はそういった物語を残しているのかもしれません。




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