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残念ですね・貴乃花!!!

2018-09-27 09:39:14 | Weblog

貴乃花親方が現在の大相撲興行から消えることを決意したらしい・・・・・稀代の横綱の一人に間違いない貴乃花。神事と神事の美しさを追及して精進したであろう、あの四股の美しさ・・・・・どうして貴乃花を取り巻く広い意味での相撲界に『美しい日本』を慈しみ育む人物がいなかったのか・・・・・残念でなりません!!!!!

確かに幼稚さをにじませて、首を傾げさせる行動も多かった貴乃花、それでも神事とは何か、精進するということはどういうことなのか・・・・・・どうして誰もその精進を見守る者がいなかったのか・・・・・よしんば興行に明け暮れなくては成り立たなかったにしても・・・・・北の湖の死というものがこういうものだったとは・・・・・偉大な横綱になるかと思わせた白鵬が、あっさり『後の先』を捨てた時から、人材がいないんでしょうね。これでは国技の名が泣きます。面白くありません。

 

コメント (1)
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平戸だより・2018・9・23

2018-09-23 19:16:39 | 平戸

あごの初物を楽しみました。あごは大きさによってずいぶん味に差がありますが、今年は何ともちょうど良い大きさ・・・・・これからしばらくの間、夫のおかずに事欠くことはありません。あごが大好物だった舅姑は、この季節には電気ロースターを手元において、いつもあごを焼いていました。平戸人にとっては、無くてはならない秋の味です・・・・・平戸は味覚の秋を迎えました。

高校時代は教室の窓から、あご舟が出て漁をしているのを見たものです。通学の船からも、トビウオの滑空を見ました。トンボの羽みたいにきれいだったのを思い出します。昔は保存のためにかちんこちんに干さなければならなかったので、焙ってから包丁の峰などでたたいて骨から身を外し食べました。今では冷蔵も冷凍も出来るとあって、生干しで美味しく食べやすくなりました。あごは、めざしやアジの丸干しと違って、白身魚の丸干しです。上品でとても美味しいと思います。


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ブログのアクセス解析

2018-09-20 10:20:33 | Weblog

ここ数か月私のブログの中で毎日の1位は、『急性膵炎になりました!』でした。そんなに膵炎や膵臓癌の方が多いのだろうか・・・・・?????と多少気になっていましたが、昨日の第1位は『氏姓のこと・加地先生のご指摘』でした。なんだか嬉しくなって、ご報告です。(それからついでですが、次に読んでいただいているのは『日蓮上人の開経偈』です。これはとても嬉しく思っています。)


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氏姓のこと・加地先生のご指摘

2018-09-19 11:49:13 | Weblog

加地先生のご本の中にもう一つ、私にとって大事なご指摘がありました。それは、このところ取り沙汰されている『夫婦別姓』についてです。加地先生は、「現在の日本人の生活に『姓』は無い。」とおっしゃっています。日本では正式な文書の署名欄に『姓』を記入するものはなく、『氏名』としか書かれていない・・・・・と。そうですよね、書式に『姓名』と書かれているものを見たことがありません。そして今でも夫婦は同氏を名乗っているが別姓であると、仰っています。要するにファミリーネームは『氏(うじ)』であって、『姓(かばね)』ではないのですね。私たち現代日本人は、大和朝廷の五族宥和の大和(だいわ)政策以来、特に多分明治維新で四民平等になって、本気で(?)平等化させてきたせいだと思いますが、すっかり『家門』を忘れ去ったようです(と言えないならば、忘れているかに見えます。) 私達は、すっかり『うじ』も『かばね』もうやむやにしてしまいました。

『かばね』・・・・・『姓』『加羽根』は一門の印で鳥の羽飾りで区別した、と川崎真治先生は仰っています。(誇り高いアメリカインディアンの酋長の羽飾りを思い出します。)部族の印や名前が『かばね』で、家門の結束を表しています。『姓』という漢字を充てたということは考えさせられます。『女扁』にはどういう意味があるのでしょうか。この大元がこれまで記事にしてきた人類部族のルーツ・『五色人』であり、それぞれトーテムを持ちトーテム名で区別されてきたことは既にご紹介した通りです(随想古事記前章・五色人の謎)。私達はもう一度自分の氏姓(うじかばね)について再考してみる必要があるように思います。これは人間の作った社会組織のアイデンティティーの問題だからです。氏神様とは何かということも再考する必要があると思います。そして、よく分かった上で、うやむやにするなり・・・・・取るべきは取り、捨てるものは捨てる、という作業をしてみるのが良いと思います。

 

 

以下は私の考えですが、『人間社会』という組織を作ったのは男ではないかと思います。動物も小さな群れ社会を作りますが、サル以外は雌が作るんです。サルはオスが君臨していますが、まあ家族社会に近いもので、家族を単位にした社会組織ではありません。人間の男たちはそれぞれの部族内に男の社会構造を作り、その男たちには(サルや類人猿時代から受け継いだ既成事実として)それぞれ女がいて家族(メスが作った群れ社会、あるいは男をボスとした猿のような社会)があった・・・・・その原始的な家族社会は最初の段階で男の社会組織に『家』『家門』として組み込まれたのだと思います。男だけでは社会は成り立ちませんから。男たちは獲得した地位と権利を保全するために様々な規律を作り、『姓』を男のものにして社会を守り維持してきた・・・・・それが同じ『姓』を持つ『家門』という集団として受け継がれてきたと思います。原始的ルーツが女系家族で、その名残が『姓』という字を当てたことにつながるのではと思います。どうやらイブがアダムの骨から生まれたというのは嘘で、イブはアダムの母だったようです。生物の本体はメスで、機能として分かれたのがオスだと思います。人間の文化も女から生まれて、それを発展させたのは男だということになると思います。

夫婦別姓が女性の権利の復権といって運動する人達もいますが、私はそうは思いません。このところの夫婦別姓は『家』の崩壊・秩序の崩壊を目論んで始まったことであり、結局は女の地位を貶め、女の財産を減らすことになるはずです。『家』というものは女の自由を奪ってもいますが、男の自由も制限しています。この不自由は『家』の女子供(本妻と嫡出子)の権利を守っているのです。重婚を禁じ家を守り嫡出子の権利を守ることは、『愛情』の問題ではなく『所有権』の問題から発展したのだと思います。50年しか生きない人間には『跡継ぎ』が『未来』なのですから。そしてこの『家』の主は原始の昔から『母と子』で『男(オス)と女(メス)』でないこと、それが人間文化のテーマにもっとも文化的ではなく理不尽な『愛』が浮上する理由だと思います。

 

 

余談:昨夜この記事を書いていたら、周囲で何かカサコソと音がします。何だろう?????ムカデの音でもないしネズミ(?)の音でもない・・・・・ゴキブリか!!!!!とじっと様子をうかがっていたら、なんと『カニ』が出てきました。それを追い回して捕まえたら、変なところに入り込むので、足には綿埃を付けて何ともユーモラス・・・・・紙袋に追い込んで外に出しました。ですが、どうして?????カニが家の中に?????珍騒動の種は尽きません。


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新聞の書籍広告

2018-09-13 14:29:37 | Weblog

愉快な新聞広告を見つけまして、夫が取り寄せてくれました。新聞にその題名を見つけた時、愉快ですっかり嬉しくなりました。これから読みます!!!!!

            

 

プルタルコス以来の快挙ですよ!!!!!加地先生!!!!!(題名を見た時の私の喜びの感想)

 

 

追記:(17:00)面白く読ませていただきました。多くの人に読んでもらいたいと思います。それから、なぜ2年と1日経った日に3回忌をするようになったか・・・・・儒教環境にいた人々の『殯(もがり)』の習慣によっていることを初めて知りました。それまでは単純に3回目の命日だと思っていました。私の記事を読んでくださった皆様、どうぞお読みください!!!!!

コメント (2)
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言葉というもの2・わたしは何を言っているのか?

2018-09-10 23:08:32 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

昨年の7月『言葉というもの』という記事を書いた時シリーズ3までの心づもりにしていたらしくタイトルだけの下書きが残っていました。それで、改めて私の永遠のテーマともいうべき『言葉』というものを取り上げようと決めるだけ決めて予定していた約1週間の上京を果たしました。久方に娘と息子家族、それに孫息子と再会をしての帰途、飛行機の中で恒例(?)のウトウト・・・・・思いがけぬヒントに恵まれましたので、こうして記事を書いています。本当は今年になってからあまり記事を書く気にならなかった(それで、どうでもよいような記事ばかり・・・・・)のですが、和みの堀江さんに後押しされて書くことにしました。今回の気分とは少し違うかもしれませんが、タイトルはそのままにします。

 

『言葉』『コトバ』・・・・・なぜ私達日本人は自分たちの言語を『コトバ』という名前にしたのか・・・・・『日本語』というのは現代の便宜的な分類上の名前にすぎませんし、『日本語』という名前に親しんできたわけではありません。私達は『言葉』と思って便宜上日本語と言われるものを使ってきました。『言葉』とは何なのか・・・・・ブログの中でもことあるごとに触れてきたと思いますが、このテーマは人間そのものに関わる重大な問題だからです。人間という人の間(ヒトノマ)を生きている生命の特徴は、言語を基盤とした社会組織を作りその内外に相互関係を作ったことだと思います。そしてそれは人間存在そのものになったと思います。なるほど動物にも群れという社会(この社会組織については、別の記事で感想を書きたいと思います。)を作るものもありますが、その群れと群れとの関係はほぼ食(生存と存続)のための縄張りをめぐる敵対関係以外にありません。だから、交渉というものの余地がありません。交渉は人間の言語活動の最たるものだと思います。人間社会は言語無しにはありえないものです。そして、私達日本人は言語を『言葉』だと認識しています。

『言葉』とは何か・・・・・それが意味するものについてはこれまでにも書いてきましたが、『言葉』という命名については今一つはっきりしていませんでした。『ハ』という日本語の音は、一般的に言って両サイドあることを意味しています。それで、『コトバ』・『コトノハ』というものが、日本語ではそれぞれ正反表裏の意味を持つものに展開してきた、という風に説明もされ理解してきました。だけど何かしらしっくりとこないものが残っていました。『それはそうだけど・・・・・・』という感じでした。それが今回のウトウトの間にすっかり明快になりました・・・・・私達の日本語の音は、もうカタカムナにさかのぼる以外、何の根拠も得られません。そのカタカムナの人々がヨソヤ(四十八)の『コト』を解きほぐして生み出した(音にした)・・・・・と表明しています。(疑問に思うなら、究明してください。私はそれが真実だと確信しています。なぜなら、子供のころから抱き続けた疑問に唯一答えているのが『カタカムナ』だからです。)

『コト』を『音』にした・・・・・というのがどういうことか、かいつまんで言うと、この世の事象(を成り立たせている力としての波動)を人間の発する『音』に分けたということです。勝手に分けたというのではなく、その『音』の持つ力の性質(なりたち)によって分けました。ですからその『音』は構造と作用を持ち、次々に展開していくのです。それで正反表裏の二面性を持つから、『コト・ハ』なのだと思ってきました。それもあります。だけどそれは『コトバ』の単語という構造的な一面であって、『コトバ』はもう一つ大きな作用的一面を持つことに思い当たりました。それは、

       私の胸の内で『コト』した表明が『コトバ』として発せられて、聞いている相手の胸の内で同じく『コト』を起して認識理解に至る・・・・・『コト』が私と相手の両サイド(『ハ』)に起ってる・・・・・

正しく『コミュニケーション』そのものを表しているのが『コトバ』という造語だったんだ!!!!!と思い至った時、胸が熱くなりました。『コトバ』こそが社会を作ったんです。『コトバ』こそが社会の成立存続条件なんです。そうなんです。そして宇宙に充満する力との間に起こる『コトバ』が『インスピレーション』なんです。私はそうやって、いろいろなことを知ることが出来ます。誰だって出来ます。私はそのために記事を書いて、読んでくださる方の胸の内に『コト』を起す努力をしていると思うことが出来るようになりました。

 

実はこのところ、記事を書いて何になるのか・・・・・と思うことがありました。西部先生も『日本は滅びるかもしれない・・・・・』というようなことを仰っていました。私の父も臨終に際して、『日本は一度滅びるかもしれない・・・・・根になるんだ』と言い残しました。それで私は父から背中に背負わされたものを何とか書き残したい・・・・・と、自分たちのアイデンティティーを見失って根無し草にならないように、だれか若者の目に触れてくれと希ってきました。私はブログで向かい合ってくださる方に『コト』をおこすことが出来ているのでしょうか?????


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平戸だより2018・9・4

2018-09-04 21:35:24 | 平戸

数日自宅を留守にしているうちに、アブラゼミもクマゼミも声をひそめて昼間はツクツクボウシが最期とばかりに頑張っています。夜には虫の声が・・・・・コオロギだけだったのが、いろいろな虫の大合唱。平戸はすっかり初秋の風情です。

 

7日追記:平戸はお陰様で地震もなく台風ルートが変わったせいもあってさらに平穏な地になっていますが、対馬海峡から日本海に長い雨雲がかかっているせいか、今日は一日雨模様のようです。昨日雨の合間にスーパーにお買い物に出かけましたが、どういうわけか、スーパーの壁に『ウマオイ』がとまっていました。透明感のある緑の体に小さな頭・・・・・小さな虫も頑張って、気候の変化に耐えているのでしょうか。そうそう、お台所の蟻からも解放されました。やれやれ・・・・・というところです。


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