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マクロビオティックインスピレーション・随想古事記・日本語と歴史・バベルの塔・日々雑感

2025・05・08  地震・雷・火事・親父

2025-05-08 11:45:55 | 父の背負子3(雑記)

今日は父の命日、恒例の父の背負子のご案内の日です。早いもので父を亡くして30年になります。父が私につないだタネがこの随想古事記です。今年でgooblogのサービスが終了するそうです。私も終わりにしようかと思います。どうぞ皆様の中で一人一人の古事記が醸造されることを願っています。

 

父の背負子(随想古事記)

        父の願い   2010-04-30        

        私の邪馬台国   2012‐10‐04       

        随想古事記・はじめに   2012‐10‐05        

        随想古事記Ⅰ・あめつちの・・・・・   2012‐10‐09        

        随想古事記Ⅰ・イザナギとイザナミ   2012‐10‐12      

        随想古事記Ⅰ・アマテラスとスサノオ   2012‐10‐15       

        随想古事記Ⅰ・海幸と山幸   2012‐10‐23

 

        随想古事記Ⅱ・関連記事便覧   2012-10‐17        

        随想古事記Ⅱ・神話と言語   2012‐10‐17        

        随想古事記Ⅱ・天津神と国津神   2012‐10‐24        

        随想古事記Ⅱ・アジアの神話と歴史   2012‐10‐31

 

        随想古事記Ⅲ・大和の心1  2012‐10‐26        

        随想古事記Ⅲ・大和の心2   2012‐10‐27        

        随想古事記Ⅲ・大和の心3   2012‐10‐29        

        随想古事記Ⅲ・大和の心4   2012‐11‐02       

        随想古事記Ⅲ・大和の心5   2012‐11‐03

 

        随想古事記Ⅳ・おそれながら・・私の仮説   2012‐11‐04

       

        随想古事記・おわりに   2012‐11‐06

        随想古事記前章・民族の形成   2011-04-11

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅰ  2011-04-13

        随想古事記前章・五色人の謎Ⅱ  2011-04-14

        随想古事記前章・五色人の謎補(私の五色人説)    2011-04-21

          アインシュタイン博士の言葉    2012-08-17

        私の『中朝事実』    2013-11-03

 

      天帝とはツクヨミノミコト!!!    2024-10-17

 

地震・雷・火事・親父・・・・・私たちが受け入れる以外ない理不尽なもの・・・・・

地震と雷は、これはどうしようもなく、善もなく悪もなく逃げのびた人が振り返るもの。火事は用心すべきもの。親父は、ひたすら仕えるのが、タネとしての人間の道。三皇五帝の第四帝尭(ぎょう)をご存じですか。尭は後継を選ぶにあたって、ひたすら不出来の両親に孝を尽くしこれまた不出来の弟の面倒をよく見て一族をまとめたという理由で、第五帝舜(しゅん)に禅譲したのです。人間もまたタネ、親を選ぶことはできません。その親がいかにあれ、孝を尽くすのが人間修行というものだと先哲は考えました。言いなりになるのではなく、人たるべき道に気づかれることなく導かねばならないのです。そのように偉大な子を持つかもしれませんから、親というものも、後生(こうせい)畏るべし、と示されています。人の道は、親に仕え子を大切に慈しみ己を律して修養に励むことを理想として、東洋の哲学は偉容を誇っています。親を選ぶことはできないと言われていますが、それよりもなお以前に、その親がなければ子である自分はいません。どう否定しようが、こればかりは如何ともしがたいものです。親子とはそのように、タネの繰り返しです。この自覚なしに、これからの未来の人類を生きてつなぐことはできないでしょう。背負子は否応なく背に負うものなのです。

 

 

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岸田匡啓さん個展

2025-04-03 15:37:23 | 教室情報

                               

以前毎月開催していたマクロビオティック教室の皆様、唐津から通ってこられた入江美穂さんを覚えていらっしゃいますか。あの頃は若い可愛い薬剤師さんでしたが、陶芸家と結婚されて今では二人のお子さんのお母さんです。ご主人も精進されて東京でも個展を開くような活躍をされています。私も主人ともども平戸に戻ってからは、唐津での個展の案内をいただいて唐津やきもん祭りを楽しんでいます。岸田さんの作品では、春の若草を連想させる斑唐津が特に好きです。

今回は教室の同窓生の皆様にご紹介しました。有田ほど混雑してないので、おすすめです。毎年旧唐津銀行では、多くの唐津焼作品が展示されています。

 

P.S.(4/5):お料理教室と同日に夜開いていた『ヒレフリ山教室』・・・・・これは私の一番の大切な教室でした。どなたかが引き継いでくださらないかと願っています。それで今年中に最後のヒレフリ山教室を開きたいと計画しています。人生とは何なのか、生命とは何なのか、死ぬということはどういうことなのか、宇宙とは何なのか・・・・・カタカムナまで行きついた私の答えをご披露し、教室に参加してくださった道連れさんたちのお話を伺い、ともに過ごした教室の名残を惜しみたいと思います。

それから余談ですが、唐津の有名なお菓子屋さんの『松露饅頭本舗』には佐用姫伝説にちなんだ『ヒレフリ山』というお菓子があります。

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日本人の心がけ

2025-03-15 17:45:40 | 日本語・古事記・歴史・日本人

日本人が心がけてきたこと、それは二つあります。一つは、『清き明(あか)き心』・・・・・清らかで明るく隠し事のない・・・・・というか、隠さねばならないことがない心。素直な赤子のような心。日本人はこのことを『きれい』だと表現してきました。日本人にとって最大の恥は『汚い』ことなんです。腹黒い事なんです。それで名誉を重んじる武士は、恥を雪ぐために切腹をして、腹黒くないことを証明するのです。表向きは汚くても、ナマコのように真っ白な内側を見せるのです。高校生のころだったか、ナマコの調理を初めて見た時、その外側とは対照的なすがすがしさに驚きました。そのうえナマコは腸まで『このわた』と珍重されています。ナマコはサムライだと思いました。『清き明き心』・・・・・この象徴が『日の丸』だと思います。『日の丸』を仰ぐたびに、私達は『清き明き心』を確認して、自分の中の日本人の心を確認します。

 

もう一つは『伊勢の道』と呼ばれてきた心。これは夫婦の道です。『伊勢物語』もこの『伊勢の道』から名付けられたと思います。『つついづつ』として古文で習いましたよね。日本人の心の原形は夫婦の道家族の道なんです。家族間の情愛の心を持って社会を成り立たせることです。どうしてそれが『伊勢の道』なのかと疑問に思いましたが、これはイザナギ・イザナミ両尊に由来しているのだと思います。お二方のイサワノ宮というお住まいが伊勢にあったからです。お二人が心を合わせて仲睦まじく国生みをなさり日本を作り上げてこられたのです。家族や国を作り上げていく夫婦の道が、日本人の踏むべき道として受け継がれてきました。

 

この二つの心がけが日本を大切に守り育てていく道だと思います。清き明き心を持って、夫婦互いに助け合って家庭と社会を守る・・・・・もう一度私達は受け継がれてきたものの再確認をすべきだと思うこの頃です。

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日本人の心模様

2025-02-23 09:23:31 | 日本語・古事記・歴史・日本人

民族の心模様は何によって見えるとお考えですか。あなたと私のそれぞれの心模様はどう違っているとお考えですか。この問題にはっきりと気づいたのは、久司先生の英語版の著書を数冊日本語に翻訳させていただいた時のことです。英単語とその訳語と思っている日本語との間にかなりの隔たりを感じることがよくあったからです。その代表語として取り上げてブログの記事にした『physical, menntal and spiritual』・・・・・英語に初めて触れた時以来薄々感じていた違和感について、この時は本当に悩んだ挙句の果てに私は『心身』という訳語を選びました。そしてまた福沢諭吉訳の『経済』について思いをはせたりもしました。一つの単語を聞いたときに受け取り側が思い浮かべる意味というか心象というかそれからの連想というものは、厳密にいえば同じ母国語間であっても個人的に違っているし、ましてや翻訳ともなれば全く別物である可能性もあるのです。玄奘三蔵の悩みも多少なりとも追体験したと思っていますが、言葉というものがその認識のすべてなのです。

日本語には他の言語に訳しがたい言葉がたくさんあります。単語としても『ありがたい』や『もったいない』、そして『おかげさま』などなどです。それらが日本人の心模様の特徴なのですが、今回は『おかげさま』の『様』に焦点を絞りたいと思います。私達は日常普通に『様』を使っていますが、一応敬称として分類されています。英語にこの『様』にあてはまる単語はないと思います。Mr.やMrs.はありますが、これはいわば階級称のようなものです。ですが、日本語には『お天道様』『おひ様』『お月様』『お星様』・・・・・それから世間(せけん)様、他所(よそ)様、他人(ひと)様・・・・・仏様、神様・・・・・そして『お互いさま』に『おかげさま』

『様』はなくても意味的には成り立ちますが、その人の心模様は違います。『様』と言わなければおさまらない何かがその人の言語活動を支配しています。これが日本語特有の敬語体系を作り出した心模様であり、日本人の礼の心模様だと思います。日本語の要は敬語にあり、これを大切に守り続ければ日本人を維持できると思っています。国語を守らなければなりません。品格というものはその人の話し方によるのであって、どんなに衣装を整えても、究極的には言葉の選択によると思います。最近のテレビでよく耳にする日本語は恐ろしく乱暴だと思います。美しい言葉を選ぶものは美しくなり、明るく清らかな言葉を選ぶものは明るく清らかになります。どうしてかというと、その音の振動がその人の体に作用するからです。

『physical,mental and spiritual』ですが、直訳すると『身体的、心理的、精神的』です。この言葉を作り出した西洋人の言語感覚にも敬意を表したいと思っています。これは人体を科学的に波動の性質によってあらわしたものだと思います。物質はスピンによって成り立っているのですから個体的超低周波から宇宙を駆け抜けるイエスの心のような超高周波まで生み出すスピンで人体は成り立っているということを表しているのです。さすが近代科学を生み出した人々だと思います。そこまで分かっていながらどうして東洋の哲学のように人間の高みを目指さないのかというと、そこに食性という大きな条件があったのだと思います。スピンの性質を変えるのは、何を食べるかというその一点にかかっています。どういう体細胞を作るかによって、そのスピン量が決まるからです。『spiritual』部門の波動がどこまで届くかによって、その人が何を考え何を見るかが決まっています。だから東洋では『精進料理』があり、ダビデは『パピルス』を食べ、様々な地域の修行に食の戒律があるのです。日本でも『カスミ』を食べるのが最高であり、ホツマツタエにはアマテラスは『チヨミグサ』を食べるのだとか・・・・・日本人は考え方も意識も立ち居振る舞いもその言葉も、長年日本人が食べてきたものの振動によって成り立っています。海の幸と山の幸と田からの稲の幸の作り出す振動とで。自分を作り出しているものは、日々の食事です。母は大地です。だから家庭の食事をつかさどり、そこに生えるものを育むのだと思います。自分の食を整えるのは、自分の大地の役割を果たしています。大地なしには生きて行けません。本質を認識して、生きるべきです。

 

追記(2/24):『spiritual』には、妄想や幻想の類も含まれているということに注意が必要です。では何によって判断するかというと、『おこない』です。これもまた日本人は『行』という考え方を持ち続けることによって健全性を守ってきました。

 

 

 

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十五夜お月さん

2025-02-17 17:00:13 | 日本の『ウタ・ウタ・ココロウタ』

十五夜お月さんご機嫌さん ばあやはお暇取りました   十五夜お月さん妹は 田舎にもられて 行きました  十五夜お月さん母様に も一度私はあいたいな

 

これは父が教えてくれた歌。13歳下の妹を膝に抱いて歌ってくれました。歌は情緒で歌うんだとの持論も聞かせてくれました。子供ながら父の本音が『も一度私は会いたいな』というところにあって、私が生まれた年に亡くなった祖母を懐かしんでいるんだなと、勝手に納得した歌。

 

もう一つの十五夜お月さん。

 

十五夜お月さん一人ぼち 桜吹雪のはなかげに 花嫁姿のお姉さま くるまに揺られて 行きました   

 

これは本当の題名は『花かげ』というらしいのですが、私にとってはもう一つの十五夜お月さん。

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叱られて

2025-02-15 16:25:33 | 日本の『ウタ・ウタ・ココロウタ』

子供心に不可解だけれども惹かれる何かがある歌、悲しい何とも言いようのない旋律『叱られて』と複雑な歌『歌を忘れたカナリヤ』

 

叱られて 叱られて あの子は町までおつかいに この子は坊やをねんねしな 夕べ寂しい村はずれ コンとキツネが鳴きゃせぬか

 

何度もメロディーを母に教えてもらいました。どうしても心残り。もう一つは『歌を忘れたカナリヤ』

 

歌を忘れたカナリヤは後ろの山に捨てましょか いえいえそれはかわいそう   歌を忘れたカナリヤは 背戸の小藪に捨てましょか いえいえそれもなりませぬ   歌を忘れたカナリヤは 象牙の舟に銀の櫂 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思い出す

 

二小節と三小節の間で転調するんです。がらりと・・・・・それでも何か引っかかったまま・・・・・という複雑な歌。

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お正月

2025-02-11 11:55:00 | 日本の『ウタ・ウタ・ココロウタ』

遅ればせながら、お正月の歌。童謡ではありません。

 

 年の初めの例(ためし)とて 終わりなき世のめでたさを 松竹立てて門ごとに 祝う今日こそ楽しけれ   

 初日のひかりさしいでて 四方(よも)に輝く今朝の空 君がみかげにたぐえつつ 仰ぎ見るこそ尊けれ

 

和歌や俳句でない日本人の日常の歌も美しい言葉でつづられています。こういう歌は、連想空間を広くすると思います。

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国号日本

2025-02-10 09:50:01 | 日本語・古事記・歴史・日本人

明日は建国記念日、その建国以来の大和が私達の日本になるきっかけ、聖徳太子が定められたと言うべき国号の文字『日本』・・・・・これについて繰り返しになりますが、もう一度取り上げてみたいと思います。単刀直入で行きたいと思います。

 

   『鳥(ツクヨミ)』 →『邪馬』(鳥族亡国時代) → 『ヤマト』 → 『大和』(神武天皇) → 〔『東(ツカル)』→『日+本』〕(聖徳太子) → 『日本』

   東洋の正統王朝(天朝) → 中原王朝の興亡 → 縄文蛇族と天朝鳥族の融合 → 神武東遷・建国『八紘一宇(大和)』の宣言 → アジア情勢の確認  → 日の本の国・日本へ

 

 

以上が『随想古事記』で取り上げてきた私の主張の骨格です。どうかお一人お一人の感想のご意見をお聞かせください。その内容はカテゴリー『随想古事記』内の記事を読んでいただければと思います。(都合でコメントをいただくのを停止しておりましたが、再開しました。)

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蠟梅

2025-02-03 15:27:25 | 季節・週末散歩

 蝋梅が真っ盛りです。可憐な黄色い花と清らかな優しい香りがうれしい・・・・・                

 

 

                    

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桜貝の歌

2025-01-31 17:44:46 | 日本の『ウタ・ウタ・ココロウタ』

日本語は美しい叙情詞(こんな言葉があるかどうかわかりませんが)を持っています。桜貝の歌はその典型のような歌だと思います。

 

うるわしき桜貝一つ 去り行ける君に捧げん この貝は去年(こぞ)の浜辺で我ひとり拾いし貝よ  ほのぼのと薄紅染むるは わが燃ゆる寂し血潮よ はろばろと通う香りは 君恋うる胸のさざ波   ああなれど わが想いははかなく うつしよの渚にはてぬ

 

この二番の『ほのぼの』と『はろばろ』という言葉が胸に迫ってきます。この音の響きは、『栂の木の いやつぎつぎに』由来の日本人の感性だろうと思います。古事記の中で出会った歌で音の繰り返しの単語がどんなに人の心を打つか、私にとって印象的な歌があります。

 

       はしけやし 我家(わぎえ)の方よ たたなづく 青垣山ごもれる

 

日本武尊の臨終の御歌です。重層的に幾重にもたたなづく青垣の山々に取り囲まれている、あの場所あの場所に思い出もたたなづく・・・・・・あの美しい我が家がある方はあっちかなあ。故郷を愛するお心がひしひしと伝わってきます。これが音を繰り返す効果だと思います。この美しい『たたなづく』 という言葉が大好きです。この音で忘れれられない歌になりました。

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我は海の子

2025-01-30 14:38:30 | 日本の『ウタ・ウタ・ココロウタ』

我は海の子 白波の騒ぐ磯辺の松原に 煙たなびく苫屋(とまや)こそ 我が懐かしき住処(すみか)なれ  生まれて潮に湯あみして 波を子守の歌と聞き 千里よせくる海の気を 吸いて童(わらべ)となりにけり  高くはなつく磯の香に 不断(ふだん)の花の香りあり 渚の松に吹く風を いみじき楽と我は聞く

 

これは海洋民族としての素直で健全な心象風景を歌ったウタ。日本人の素直でおおらかな心の歌です。この歌を歌うと元気になり、浦島太郎を思い出し海幸彦に思いを巡らします。この歌を歌うと、懐かしい気分に襲われて父の『うからどち』という言葉を思い出し、わが故郷平戸の『平門男児』の気概を思います。そしてもう一つの『我は海の子』の歌、浜辺の歌のところでも触れた、ちょっと斜がかった若い青年期の『我は海の子』・・・・・琵琶湖周航歌。

 

我は海の子 さすらいの 旅にしあれば しみじみと のぼるさぎりや さざなみの 志賀の都よ いざさらば 

 

私は『さざなみの・・・』と聞いた途端、人麻呂や志賀の都に飛んで行ってしまうタイプなので、このなんとはなく憂いを感じさせる『我は海の子』も好きです。

『さざなみの』という言葉は『志賀』にかかる枕詞と言われています。そして当てられた漢字は『楽浪の』・・・・・考えさせられますよね。もちろんさざなみが楽な航海の波だとはわかります。ですがそれでも、楽浪郡は朝鮮半島に置かれた漢の四郡の一つです。博多にも志賀島があります。私的見解によれば、朝鮮半島に大和朝廷領があったと思っています。それが『随想古事記』でご紹介したとおり、『タラシヒメ・タリシヒコ』の理由だと思っています。

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遠足

2025-01-29 10:21:14 | 日本の『ウタ・ウタ・ココロウタ』

文語体へのあこがれを抱いた歌。小学校の唱歌でした。

 

鳴くやひばりの声うららかに かげろう燃えて野は晴れ渡る いざやわが友うち連れ行かん 今日はうれしき遠足の日よ   右に見ゆるは名高き御寺 左に遠くかすむは古城 春は絵の事我等をめぐる  今日は楽しき遠足の日よ

 

里の秋、故郷 蛍の光・・・・・

 

中学校で習った美しい歌・・・・・眠りの精、釣り鐘草

 

月の光に花も草も 夢を追いつつうなじ垂れぬ 声をばひそめて 枝はさやぐ  眠れ眠れ眠れ 我が子よ  小鳥楽しき歌をやめて 小さきふしどを慕いゆきぬ 野辺には虫の音 ひとり告ぐる 眠れ眠れ眠れ 我が子よ  眠らぬ子らを求めつつぞ 眠りの精は訪い来ん 怪しきその手の見えぬ暇に 眠れ眠れ眠れ 我が子よ

 

小緑の森の下影 目を覚まして釣り鐘草は ・・・・・・・ ひとり微笑む     実はこの歌はおぼろげにしか覚えていません。ただ焼き付けられた美しい情景を忘れることができません。

 

椰子の実、夏は来ぬ、荒城の月・・・・・

 

美しい音が人を美しくすると思います。美しい言葉を選ぶことができるように、大切な我が子と美しい歌を歌ってほしいと思います。

 

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浜辺の歌

2025-01-28 13:21:37 | 日本の『ウタ・ウタ・ココロウタ』

あした浜辺をさまよえば 昔の人をぞおもわるる・・・・・この歌は母の十八番の一つで、よく歌いました。そして、第一回の人麻呂の楽浪の志賀の大宮を思い起こさせ、琵琶湖周航歌を歌う若者へとつながっていきます。

 

朝浜辺をさまよえば 昔のことをぞ しのばるる 風の音よ雲の様よ 寄する波も貝の色も  夕べ浜辺をもとおれば 昔の人をぞ しのばるる よする波よ返す波よ 月の色も星の影も       

三番の歌詞もあるらしいけれど、私の記憶はここまで、音を伸ばしながら半音上げたり下げたり・・・・・そこにいろいろな連想が浮かぶ美しいウタです。

 

あしたはまべを さまよえば むかしのことをぞ しのばるる かぜのおとよくものさまよ よするなみもかいのいろも  ゆうべはまべを もとおれば むかしのひとをぞ しのばるる よするなみよかえすなみよ つきのいろもほしのかげも 

 

昔のこと昔の人をしのぶことによって、私達は『昔を今に』生きることができると思います。これが和歌の世界で言う本歌取り・・・・・私達は重複した時間を生きることができるというわけです。

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いやつぎつぎに つがのきの 

2025-01-27 17:02:16 | 日本の『ウタ・ウタ・ココロウタ』

父の背負子の『随想古事記』と『最終章・これを知るために』のカテゴリーを完結しました。それで『ウタ・ウタ・ココロウタ』という新しいカテゴリーを作りました。私が子供時代から心ヒビキあってきた歌を集めました。第一回目は、万葉集の中の有名な柿本人麻呂のもの悲しくも美しい長歌!!!

 

玉襷 畝傍の山の 橿原の ひじりの御代ゆ あれましし 神のことごと 栂の木の いやつぎつぎに 天の下 しらしめししを そらにみつ 大和をおきて あをによし 奈良山を越え いかさまに おもほしめせか 天さかる  夷にはあれど いはばしる 淡海のくにの 楽浪の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ すめろきの 神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は 此処といえども 春草の しげくおひたる 霞立ち 春日のきれる 百敷きの 大宮どころ 見れば悲しも

楽浪の 志賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ      実は反歌と思しき歌がもう一つあって、私の好きな歌、

楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢わめやも

 

意味など分からなくても構わない!!!この美しい音が次々に醸し出す柿本朝臣人麻呂の心に触れてみて欲しいと思います。

 

たまだすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ あれましし かみのことごと つがのきの いやつぎつぎに あめのした しらしめししを そらにみつ やまとをおきて あをによし ならやまをこえ いかさまに おもほしめせか あまさかる ひなにはあれど いはばしる あふみのくにの さざなみの おおつのみやに あめのした しらしめしけむ すめろきの かみのみことの おおみやは ここときけども おおとのは ここといえども はるくさの しげくおひたる かすみたち はるひのきれる ももしきの おおみやどころ みればかなしも

ささなみの しがのからさき さきくあれど おおみやびとの ふねまちかねつ

ささなみの しがのおおわだ よどむとも むかしのひとに またもあわめやも

 

 

なぜ栂の木でなければならなかったのか・・・・・この美しい歌の中で、ただ一つ長年心に引っかかり続けた疑問の音、今では解明できたと思っていますが、これは皇統そのものを指す言葉だということだけ申し添えておきます。

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私達はタネである。追補『ネ』とは何か。

2025-01-06 22:03:25 | 父の背負子2(最終章・これを知るために)

あけましておめでとうございます。昨年末の記事『私達はタネである』という記事で、『これを知るために』のカテゴリーを終わりにするつもりでしたが、言葉足らずのように思いましたので補充記事を書くことにしました。

 

『ネ』が根っこであり『アイデンティティ』であるというまではよいのですが、ではその『ネ』が何であるか・・・・・これをはっきりさせて置かなければならないと思い至りました。『ネ』とは、これから、つまり『未来を発現するもの』で『設計図のとおりに発現させる力』です。これを日本語では『タカミムスヒ』『カムミムスヒ』という二つの『チカラ』の形として『ネ』という音(とカタカムナ文字と)を当て表しています。形として現れるチカラと力そのものとして現れるチカラとを継続して発現させるものです。青い花を咲かせる朝顔と芽を出し成長して花を咲かせる力です。その『ムスヒ』はこの世の根源と直結しており、その相似象として響きあって無限の力とつながっています。それで楢崎先生と宇野先生のお二方は相似象という言葉を当てられました。私達はこのお二人の先達のご恩を決して忘れてはなりません。そしてついでながら申し上げますが、この世の根源、つまり『ネ』のそのまた『ネ』が何かというと、先人が等しく『思議すべからざるもの(不可思議)』と言われて、私たち宇宙に存在するものが考えてもわからないものと降参することが心の平穏を保つ唯一の術だと言われたものです。それの変遷が、存在するものの在り様で、それを命の営みと言ってきました。私達は結局存在の根源について知っているようで知らない・・・・・不可思議と達観し諦観することのみが、それに生かされて生きる道だったのだと思います。ですが、カタカムナの人々は、その『ネのネ』に名前を付けたのです。

               『カ』

カ(ka)と呼びます。これがその不可思議なるものの名前です。定義したんですよ。こうして、端的に言いますが、日本語を話す人は物事の根源にあるものを、表現はできなくても、認識できるようになったのです。これが日本人を特殊ならしめている唯一の原因だろうと思っています。

 

それからこれは私の願いでもありますが、人間の種の青い花は、血統という『ネ』を持って咲かせる者と、もう一つあこがれ・法統という『ネ』を持って咲かせる者とがいると思っています。後者は強い願いの力であるカムミムスヒを祈り重ね撚り合わせ、新しいタカミムスヒを生み出すのだと思います。有難いご縁があってカタカムナの山を登ることになった皆様のご精進をお祈りしています。これで拙いながらも補充記事を足して、このカテゴリーを終わりにしたいと思います。

 

追記(1/16):余談かもしれませんが、この記事はこのカテゴリー『これを知るために』の最終記事なので、こういう考えを持つに至った私の長年の見解を付け加えておきたいと思います。それは、『人をその出自で差別してはならない』ということです。人もまたタネとして生まれる存在なので、個人的努力の関与する余地はありません。そのことをゆめゆめ忘れないでほしいと思います。ですが、もう一つのカムミムスヒの『ネ』は精進努力できるものです。『ネ』に加えうる私達の個々の人生の証です。若者への希望として受け継がれるべき背負子に、最後の見解を入れます。

 

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