ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2016.4.28 昨日の通院日に読んだ2冊

2016-04-28 21:23:34 | 読書
 昨日の1冊目は、津村記久子さんの「まともな家の子供はいない」(ちくま文庫)。
 帯には“世界はどうしてこんななのか 中学3年生セキコの怒りと絶望に読んだあなたも巻き込まれること必定。”とある。表題作の他、セキコの同級生いつみの物語「サバイブ」の2編が収録されている。

 “14歳の眼から見た不穏な日常から、大人と子どもそれぞれの事情と心情が浮かび上がる”と裏表紙にあったが、いや~、思春期女子の両親等に対する目の辛辣で容赦ないこと。読み進むにつれ背筋が冷たくなり、逃げ出したくなってしまった。

 解説は臨床心理士の岩宮恵子さんが書いておられる。“親も人間なのだから、完璧ではない。そんなことは当たり前のことなのだが、幼い頃はそんなことを思いもしない。ところが自己意識の芽生えとともに、子どもは親の人間としての弱さとか身勝手で表裏のある子どもっぽい面に気づくようになってくる。・・・”まさにそのとおりなのだろう。家庭状況が安定している家の子どもでも、こうした心の嵐に襲われる思春期。家の状態が揺れている場合はなおさらなのだ。セキコだけでなく登場人物のどの家庭も様々な事情を抱えている。だからこそ表題作のネーミングなのだろうけれど、セキコの怒りに大人として心がヒリヒリしてたまらなかった。

 岩宮さんがおっしゃるとおり“激しい社会変化の中で今まで通りの「まとも」や「大人としての在り方」もどんどん変わってきている。「まともな家」のイメージがガラガラと崩れている。いつまでも若いということが評価される社会では、子どもっぽい意識のままで生きていくことも容認されやすく、「大人の責任」から逃げ出しやすくなっているような気がする。”というのも実に頷ける。

 子どもは親を選べない。育児は育自だと思うけれど、大人は恥ずかしくない大人になれているのだろうか。“ちゃんとした「大人」のいる「まともな家」が激減している中、今の子どもたちは必死で自分なりの大人になる道を模索しているのである。”と言われると、耳の痛い大人が沢山いるのではないだろうか。

 2冊目は近藤史恵さんの「キアズマ」(新潮文庫)。
 近藤さんといえば「サクリファイス」、「エデン」、「サヴァイヴ」(奇しくも上記に収録されている短編と同じ題名!)ときて、本作は自転車ロードレースシリーズ第4作である。ロードレースをろくに視たこともなければ難しいルールなんぞ全く知らない、いわばロードレースと全く無関係に生きてきたスポーツ観戦音痴の私が、物語の面白さだけであっという間に惹きこまれたのが前3作だった。

 これまでの3作はプロの世界を描いていたが、今回はふとしたきっかけでメンバー不足の自転車部に入部した大学1年生・正樹が主人公。解説の大矢博子さんが書かれている通り“初心者が戸惑いながらもロードレースを始めるという設定で、競技に馴染みのない読者でも身近に引き寄せて読める作品”になっている。

 これまでが「ロードレースを観てみたい」と思わせる作品だったとするなら、本書は「自分も乗ってみたい」と思わせる作品なのであるという通り、(骨転移のある身、転んで骨折したら大変とママチャリすら封印した私が、全く別物ともいえる骨組みだけのような自転車に乗れるわけがないけれど)なんとなく一緒にペダルを漕いでいるような熱い気分になってあっという間に読了。

 「キアズマ」という題名は、ギリシャ語で“交差”という意味だという。本書のもう一つのドラマは、主人公の友人・豊が過去のスポーツ事故が原因で、重い障害を抱えていること。そして、正樹の先輩・櫻井と自転車事故で亡くなったその兄の関係。それぞれの人生が交差する中、受け継がれる思いは次作に繋がるのだろう。
 主人公・正樹はまだ1年生。これからの大学生活~続編~が今から楽しみなのである。
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