ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.10.23 ビデオと写真

2010-10-23 07:03:00 | 日記
 先日、夫が息子の小さいときの家族旅行のビデオを見ながら呟いた。
 「こんなふうにビデオを見ていると、そこに出てくる人のことを忘れることなんてできないよね。」と。「そうそう、私がいなくなったら、私が元気に出てくるビデオなんかじーっと見ていちゃだめだよ~。」と答える。

 カメラで撮った写真の人は動かないし、喋らない。そしてその一瞬の構図は写真とともに覚えていても、その前後のことについては時間とともになんとなく忘れていくものだろう。けれど、ビデオの中の人は動くし、喋る。二次元であることに違いはないけれど、声も、そしてその佇まいすらなんとなく伝えてくれる。だから、一瞬のことだけでなくその前後のことなどもしっかり思い出してしまう。

 高校時代に続けて亡くなった3人の祖父母の声を、私はもうはっきりは思い出せない。
 昔のことだからビデオなどなく、テープに残った声はあったけれど、録音状態はあまり良くなかった。なんとなく、こんな感じだったかな、と写真を見ながら思う程度だ。ただ、身近に仏壇があるわけでもアルバムがあるわけでなし、申し訳ないけれど30年以上前のことになると、そうそう年中思い返すわけでもない。もちろん記憶に刷り込まれた一瞬一瞬のことはふと思い出すことはあるけれど・・・。

 息子が産まれて以来撮ってきた写真のフィルムは一体何本になるのだろう。
 5冊セットの紙焼き写真の差し込み式アルバムの№は200には満たなかったけれど、とにかく1日1本近くのペースで撮っていたと思う。デジカメに変えてパソコンで保存をするようになるまでは、日常のスナップ以外にも旅行のたびにきちんと独立したアルバムを作って資料も一緒に貼り付けて整理していた。「このままでは納戸の床が抜ける!」と夫に説得され泣く泣くあきらめてデジカメ・パソコンに移行した。
 それと同時に日々や旅行を撮影したビデオも200本を数える。

 写真でもビデオでも、撮ってしまうとそれで満足してしまい、その後繰り返し取り出して見るということはそうはない。まして、パソコンの画面で見る写真は何かもの足りなく感じる。それでも、たまに昔のビデオを取り出してみることがある。
 夫は結構何時間でも嬉しそうに見ているが、私は見始めるときりがないし、あっという間に時間が経ってしまって他のことが出来なくなるので、なるべく見ないようにしている。それでも、息子の小さい頃の可愛いしぐさやお話しする様子を見ては「ああ、可愛かったなあ・・・(それに比べて今は一体何なんだ、が言外に含まれている)」とため息をつく。
 だめだ、だめだ、そんな過去を懐かしんでばかりの後ろ向きなことをしていたら。とにかく、今を受け入れて前を向いて生きなくては・・・と思う。

 夫は「じゃあ、おれが先に死んでも、あなたはビデオ見てくれないの?」と聞く。
 それは別として、やはり遺された連れ合いがビデオを見てため息と涙に暮れる毎日を送っては欲しくない、と強く思う。今は亡き愛する人が声を出して喋る、笑う、怒る、歩く、走る・・・・そんな画像をずっと見ていては忘れようと思っても忘れられないではないか。もう、決して生きて戻ってこない、となったらゆっくりとでもそれを受け入れて忘れること、生きている人のその先の人生をきちんと送ることがやっぱり大切である、と思う。 
 もちろんあの時、ああしていたら、こうしていたら、という後悔の言葉が全く出てこない人はいないだろうけれど、私が先に逝ったら、夫のグリーフケアを誰がしてくれるのだろうな、ということが気になる。息子に託すにはちょっとハードルが高そうだし。
 でも、次第に忘れている時間を長くして気持ちのソフトランディングをするためには、やはりビデオは写真に比べてあまりに残酷なもののように思えてならない、というのは夫婦ともに一致した意見である。

 今日は息子は多摩川の河川敷でごみ拾いのボランティア活動。これまた去年はインフルエンザの学年閉鎖で中止となった行事で2年ぶり2回目のことだ。

コメント
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