ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.2.4 5年生存率100%

2010-02-04 22:58:23 | 日記
 今日で初発手術からまる5年が経った。

 あっという間、といえばあっという間だし、いろいろあった、といえば実にいろいろあった。特に再発してからのこの2年は早かった。それでも今ではすっかりリズムが出来て週1回の治療が仕事と同じように生活にきちんと組み込まれている。

 初発当時テレビで「87% ー私の5年生存率ー」 というドラマをやっていた。主人公は30代のシングルマザー。最終回はとりあえず再発もなく2年経過、だったと思う。子育てが始まってからウィークデーの連続ドラマなどはほとんど見られなくなっていた。数年ぶりに見たドラマだった。もちろんドラマだからいろいろ「?」の部分もあったけれど、ちょうど放映が1月から3月までの期間だったので自分の状況と重なるところが多々あって、18日間入院をした病室でも1,2回見た記憶がある。
 生存率を正面に出したショッキングな題名は当時賛否両論だった。あまりに露骨に生存率の数字なんて出していいの、闘病中の人たちに配慮がなさ過ぎる、といったことだったと思う。結局途中からサブタイトルは削除されたという。自分と同じような患者が100人いれば、そのうち5年間で13人が死ぬってこと?!とヒロインが夜の職場で荒れるシーンがあった。

 今は、確率論は正直もう関係ない、と思っている。自分に起きてしまえばそれは間違いなく100%だし、起きなければ0%。再発率80%と言われたって、再発なく過ごすこともありうる。20%と言われたって残念ながら再発するときは再発する。そのとき、何がいけなかったのだろう、とくよくよ考えてみたところで詮無い話だ。

 とりあえず今日という日を無事に迎えられた私は、初発から5年生存クリア。実に私の5年生存率は100%である。早期乳がん5年生存率は9割以上というから、おかげさまでその9割に入ることが出来た。ただその間何もなく、の5年ではなく、再発・遠隔転移を2年含むわけだから、そのあとのことはもう考えても意味のないことだ、と思う。

 5年前の退院の日は雪が降っていた。病院内は本当に暖かくて、リハビリも順調のつもりでいたので最後の数日は暇で早く帰りたいと思っていたけれど、いざ帰宅すると寒くて傷の痛みで体がこわばって、まいった。

 当時小学校3年生だった息子が帰宅して飛びついてきた時には、思わず身構えた。母が制してくれたけれど。

 そのとき息子からもらった手紙には「母ちゃん(“ママ”のルビあり。当時は外でママと呼ぶのが恥ずかしくなってきていて、友達の前では母ちゃんと言っていた年頃だと思われる。)へ。たい院おめでとう!ぼくはこの日をずっと待っていました。このプレゼント(たい院きねん)といっしょにこの手紙も大切にしてネ!! 」とメモ用紙からはみ出しそうな大きな字で書いてあった。
 プレゼントは、私の入院中、夫に連れて行ってもらったゲームセンターのUFOキャッチャーで、思いもかけず取れたというスワロフスキーのハート型のペンダント。本人は当時「なんであれしてくれないの」とよく聞いていたが、なんだかもったいなくてなかなか出来なくて、今も手紙と一緒にこっそりしまってある。

 今日は東京横断の出張の往復と帰宅後の時間をずっと読書時間にあてられた。
 1冊目は蓮見圭一さんの「水曜の朝、午前三時」(新潮文庫)。素敵なラブストーリーだった。1970年の大阪万博の記述もとても懐かしかった。
 2冊目は平田オリザさん編著の「16歳 親と子のあいだには」(岩波ジュニア新書)。息子対策で一気読み。12人の元16歳の大人が熱く語った十人十色の青春記。高校時代、幸せだったな、と思い出した。
 3冊目は駒込病院院長・佐々木常雄先生の「がんを生きる」(講談社現代新書)。帯には「主治医から余命を告げられたらどうすればいいか」-読めてよかった。そしていつか落ち込んだときに這い上がるためにきっとまた読むだろうと思う。とにかく今、こうして気持ちを整理するために書けていること、そして幸いなことに私には本音で話すことのできる相手がいることに感謝しつつ、とても幸せな読後感だった。

 今、私がすべきことは、これからも「あせらず、あきらめず、頑張り過ぎず」決して投げずにきちんと治療を続け、たくさんの情報をきちんと取捨選択して少しでも賢い患者になるために、毎日を穏やかに、好きなことをしつつ家族とともに過ごしていくことだ、と改めて思う。

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