新横浜駅から横浜駅まで散歩した。下末吉台地を縦断して、新横浜駅のある谷底低地から横浜駅のある低地まで歩く。岸根公園と三ツ沢公園に行ったことがなかったので、この散歩経路とした。
1: 新横浜、2:岸根公園、3:片倉町、4:三ツ沢公園、5:横浜駅
■ JR新横浜駅 → 岸根公園
JR新横浜駅。事実上の「裏口」の篠原口。
新横浜駅は東海道新幹線開業当時「こだま」しか停車しなかったと今知った。新幹線の全営業列車が当駅に停車するようになったは、実に、2008年とのこと(wiki)。
上wikiに「開業当時、当駅周辺は一面の田園地帯」であったとあるように、JR新横浜駅の北側は平坦。現在の鶴見川の流域は縄文海進期には海面より低く、堆積作用が生じ、谷が埋められた。その後の海退で現在は平坦。
駅の南側から下末吉台地域となる。そちらへ進む。
横浜上麻生道路に出る。
岸根公園は平坦である。よく見ると、土地が低い。つまり、掘り込んで、平にしてある。
これは、公園となる前の施設の造成の結果と思われる。
今の岸根公園の場所には、1973年(昭和48年)に返還されるまで、米軍施設があった。
昭和30年(1955年)4月と10月の2回にわたり、中心市街地に散在していた米軍兵舎など3施設を、岸根の公園用地(約13.の場所4ヘクタール)へ移転、集約させました。政府は地元の反対運動を押し切り昭和32年に工事を完成させます。こうして作られたのが、岸根兵舎地区(FAC-3165、Kishine Barracks)でした。当初は市内在勤下士官・兵の宿舎でしたが、韓国からの帰休米兵の休養施設としても利用されました。 ところが、ベトナム戦争の拡大に伴い、米軍は昭和41年(1966年)12月に突然用途を変更して、在日米陸軍野戦病院(第106陸軍総合病院)を開設しました。病院は最盛期ベット数1,000、4階建て病棟を4棟も持つ大規模なもので、ベトナムから横田基地に到着した傷病兵が、毎日大型ヘリで大勢運び込まれていきました。(大倉精神文化研究所、第152回 岸根公園の接収 -終戦秘話その14-)
・岸根米軍病院情報のリンク
* 朝鮮戦争とベトナム戦争時に米軍の基地があり、1966年から病院もあった。
* 神奈川のベトナム戦争(上)岸根の傷病兵たち
* Kishine Barracks and the 106th General Hospital(上のリンクの人が作成した岸根米軍病院のデータ集)
* VIDEO: MASH surgeon, patient, connect after 49 years(ベトナム戦争のテト攻勢の戦闘で負傷し、岸根に運ばれて来た兵士の話)
*U.S. Military in Japan During Vietnam War, 1967-68年、衛生兵だった人の文章。 (白楽のアパートに住んで、実りある19か月間だったという。ヴィエトナム戦争中日本で暮らした経験者のコメントを求めている。返答1つ。)
* Google [the 106th General Army Hospital, Kishine Barracks、同画像]
* Google [the patients at Kishine、同画像]
公園には米軍病院の痕跡は全くみつからなかった。
↓ 公園を出る。
■ 岸根公園 ⇒ 六角橋 ⇒ 神大寺 ⇒ 片倉町 ⇒ 新横浜通り ⇒ 横浜新道
岸根公園から斜面を下る。六角橋。その先に東西に谷筋が走っている。神大寺(かんだいじ)。谷筋を通って、片倉町。南北に走る谷筋と交差する。横浜新道に出る。谷筋を南に下る。三ツ沢の大きな谷底平地に出る。
プライムアヴニュー横浜白楽II[web site]、5,380万円~。六角橋にあるのに、横浜白楽。
詐称ではないのか?
■ 三ッ沢上町交差点 ⇒ 三ッ沢公園 ⇒ 軽井沢 ⇒ 浅間下
誰なんだお前?と思わせるポスター。
何やら建設中と思い画像取得。
三ツ沢公園前交差点。新横浜通りを渡る歩道橋から。
さっき遠目に見た建設中の建物。市立病院だって。完成予想図↓。
平沼さんの像 wiki
南側から三ツ沢公園を出る。外周を通って、北に行って、西側へ坂を下る。
外周道路から三ツ沢公園を見る。
市立病院。
さらに坂を下って、国道1号に出る。
再び三ツ沢公園に入る。そして、出る。
見える信号を右折。
下末吉台地を下る。
■ 浅間下交差点付近 ⇒ 岡野
海の方へ。
この先、横浜駅。画像なし。
おしまい。
● まとめ
下末吉台地は、やはり、相当開析、浸食が進行していて、台地平坦部はほとんど残っていない。三ツ沢公園くらいか。谷筋の平坦部に市街地が集中。斜面は段々にして住宅があるという典型的横浜の風景。