いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

横浜発札幌行 直通寝台列車 ヤンキー・リミテッド@占領軍専用列車

2020年09月06日 20時43分23秒 | 東京・横浜


横浜駅東口駅舎。RTOとあるのはRailway Transportation Officeのことで連合軍専用列車の運行管理、進駐軍将兵への切符販売などを行っていた。昭和21年ごろ。 ※Robert V. Mosier撮影 国立国会図書館 蔵 (引用元

■ おいらは横浜に住んでいる。生まれは札幌だ。最近、占領時代のことを調べていたら、横浜から札幌へ、青函連絡船を経て、直通する寝台列車があったと知る。連合軍専用列車、ヤンキー・リミテッド。札幌で生まれ横浜に住んでいるおいらはこれまで仙台とつくばに住んだことがある。つくばの最寄JR鉄道駅は土浦だ。この連合軍専用列車、<ヤンキー・リミテッド>は土浦も仙台も通るのだ。常磐線回りなのだ。

■ <ヤンキー・リミテッド>;いくつかのひとつ

<ヤンキー・リミテッド>、「Yankee Limited」とは、ヤンキー=アメリカ人限定の列車だと思った。もちろん、占領下なので<われらジャップス>は乗れないのは当然なので、他の連合国軍兵士、例えば、豪兵とか英兵とかが乗れないのかと思った。その背景は、西日本には英連邦軍がいたので、米陸軍の第八軍のみが支配する東日本は、<ヤンキー・リミテッド>なのだろうと思った。

全然、違った。そもそも、リミテッド=limitedとは停まる駅が限定されるという意味なのだ。<ヤンキー・リミテッド>は、いくつかの連合軍専用列車の種類のひとつ。行先の方角で、 「Dixie Limited」(ディキシー・リミテッド、「南部特急」もあるのだ。wikipediaに書いてあった;

    「Allied Limited」(アライド・リミテッド、「連合軍特急」の意) 
    「Dixie Limited」(ディキシー・リミテッド、「南部特急」の意)
    「Yankee Limited」(ヤンキー・リミテッド、「北部特急」の意)
    「Osaka Express」(オオサカ・エクスプレス、「大阪急行」の意)
    「BCOF train」(ビコーフ・トレイン、「英連邦軍列車」の意)
    「Rest Camptrain」(レスト・キャンプトレイン、「休暇客列車」の意)

北に行くので、<ヤンキー・リミテッド>なのだ。もっとも、札幌に進駐した米軍部隊のうち第77歩兵師団はニューヨークの部隊らしいので、ヤンキーでよいのだが、同じく札幌に、この後進駐した第11空挺師団、第一騎兵師団、オクラホマ州兵などは南部の部隊なので、ヤンキーではないのだ。

■ 時刻表

 

横浜発札幌行きは、夜の22時に横浜を出発。翌朝は、まだ仙台。2日目の夜に青函連絡船に運ばれ3日目に日付が変わる寸前に函館を出発。札幌には3日目の朝に到着する。

■ 横浜

横浜は、米陸軍第八軍司令部があった。<ヤンキー・リミテッド>が行く街(東京以外)の米軍の各部隊はすべて、米陸軍第八軍司令部の配下の組織である。

■ 敗戦まで東京駅⇒秋葉原駅構内⇒上野駅という経路はなかった。

<ヤンキー・リミテッド>は、東北・北海道へ向けて、横浜から行くには、東京を抜けて常磐線に乗らないといかない。敗戦までは、この経路の実績はなかったとのこと。占領軍の命令で実現。

■ 土浦

土浦駅にはRTOはなかった。土浦は空爆から免れた。ただし、近隣の海軍霞ヶ浦航空隊はB29の空爆を受けた(阿見大空襲 [google])。敗戦後、海軍霞ヶ浦航空隊は当然進駐軍から武装解除を受けたはずである。第1騎兵師団。ただし、その後進駐軍の基地、駐屯地になった記録はない。この地は茨城県なので、東京の方が近いが、県庁所在地の水戸軍政部の管理下にあったとのこと[出典]。

■ 水戸

水戸には米軍の射爆訓練場があった。<ヤンキー・リミテッド>が常磐線回りの理由のひとつが、この米軍の射爆訓練場に携わる米兵のためであろうか?でも、そうなら、わざわざ夜行に乗る必要もない。なぜ、常磐線回りなのか? <ゆうづる>と同じ理由(東北本線を避ける)か?

■ 仙台


米軍による占領時代、仙台駅舎の北隣におかれたRTO(米軍鉄道輸送司令部) / 昭和20年9月20日開所、昭和27年4月1日廃止 / RTOは米軍駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務 / 敗戦後、空襲の傷跡が生々しい仙台市内とは対照的に、RTO事務所の前には緑の芝生の広い庭が造られていた / 右隣は戦後2代目の仙台駅舎(昭和24年7月に中間竣工) 引用元

仙台には、第7師団の司令部があった。マッカーサーからラインを辿ると、総司令部(マッカーサー、東京)⇒ 米陸軍第八軍司令部(アイケルバーガー、横浜)⇒ 第7歩兵師団司令部(第11空挺連隊、 仙台)

基地は、Camp Sendai と Camp Schimmelpfennig


Camp Schimmelpfennig (出典) 軍標(CAMPの字の左の馬のマーク)から第1騎兵師団時代の頃(朝鮮戦争後)とわかる。 現在、自衛隊苦竹駐屯地

関連記事;アイケルバーガーが「お召列車」で苦竹への引き込み線で直接来訪。映像がある。


Camp Sendai 仙台市青葉区川内。(出典)川は(当然)広瀬川。川の向かって右側の低地は角五郎。

関連記事:子供ながらに魅せられた陥落街

■ 陸奥市川

 青森県の東北本線・陸奥市川駅は、かつてアメリカ軍の要求で、構内の造成から駅の建物まで全面的に改造させられた。占領下に、引込線の改造やRTOの設置などの要求は多いが、施設全体を作り直した工事は、この駅以外にない。完成した駅を、アメリカ軍の司令官は、「東北の白象」と呼んだという。 (河原匡喜、『連合軍専用列車の時代』)


引用元) 現在に一部が残る占領時代に造られた駅施設

下の図のY字が2つ並んでいる。これがホームを覆う屋根。その左のY字の駅舎側半分が残っている。


図面(河原匡喜、『連合軍専用列車の時代』より)


Camp Haugen  現在、自衛隊八戸駐屯地

敗戦直後は第11空挺師団の第511空挺連隊が進駐した(出典[英語])

1945年8月11日、連隊はルソン島を空路で出発し、沖縄に向かった。1945年8月30日、第511号機は空軍で横浜近くの厚木基地に到着し、市を占領し、平和代表団がミズーリUSSに向かうために出港した停泊地と休戦調印のために立ち寄りました。1945年9月16日、511回目は日本の盛岡に移り、本州北部の岩手県と青森県の占領を始めた。本州の北、青森市まで、盛岡南部から別の企業が駐在していた。1947年1月、散在した部隊が八戸の近くのキャンプハウゲンに移動し始めました。1947年2月に、連隊本部は盛岡からキャンプ・ホーゲンに移転しました。1947年の1月から3月の間に、連隊はT / Oの力に回復しました。(機械語訳)

基地名は、戦死した部隊の司令官 Col. Orin D. Haugen    Jan. 1943 - Feb. 1945 に由来すると思われる。

▼ 朝鮮戦争前後(<ヤンキー・リミテッド>と直接関係しないが、米軍の朝鮮戦争での鉄道輸送について)

●朝鮮戦争勃発時

河原匡喜、『連合軍専用列車の時代』によれば、朝鮮戦争勃発(1950年6月25日)に伴い日本占領米軍が朝鮮半島に動員された様子が、軍事輸送の処理史に残っているという;

陸奥市川駅は東北地区「動乱輸送取扱主要駅」に入っているが、当初は、七月五日、筑前芦屋行き客車四両、貨車一一両の混合列車と、七月七日、大阪行き客車一四両編成の列車の二本だけが処理史に記録されている。

なお、河原匡喜、『連合軍専用列車の時代』では、このキャンプ・ホーゲンの部隊で陸奥市川駅から出動した部隊について、「朝鮮戦争に派遣されたのはキャンプ・ホーゲンの第二四師団の将兵だったと言われる。」と書いている。これは、おそらく違うだろう。確かに、第二四師団は朝鮮半島に動員されたが、駐屯基地は別府であった(根拠)。

では、この朝鮮戦争勃発の時、大規模の列車群で出動した部隊はどの部隊なのか?直接的情報はまだないが、前述の最初にキャンプ・ホーゲンに進駐した第11空挺師団の第511空挺連隊のうちの残留部隊と推定している。

● 補充戦力

出払った後に空になったキャンプ・ホーゲンには、補充戦力としてカリフォルニア州兵の第40歩兵師団(national guard)が進駐した。

1950年9月1日、第40歩兵師団は朝鮮戦争のための現役の連邦軍に再び召集された。1951年3月下旬にカリフォルニア州オークランドとサンフランシスコから出荷されたこの部門は、日本配備されましたはトレーニングのためにれました。次の9か月間、彼らは水陸両用の航空輸送能力と富士山から仙台までの実射訓練に参加しました。 12月23日、部門は韓国に移動するよう警告命令を受けました。師団は1952年1月に韓国に移動しました。(機械語訳 出典

河原匡喜、『連合軍専用列車の時代』には下記記されている;

 昭和二六年春、アメリカ軍の補充として、東北地区にカリフォルニア州第四〇歩兵師団の将兵が進駐した。州兵はアメリカ各州の在郷軍人を主力として年配の将兵が多かったというが、陸奥市川駅には久しぶりに横浜港駅発の部隊輸送となる臨時列車が到着した。
 四月一〇日、一三日、列車三本、客車四四両だった。これらの将兵は一年足らずしか駐留しないで、翌二七ねん一月下旬から二月にかけて部隊が交替した。
 このときは横浜から臨時列車一〇本、客車一三四両が到着し、列車はまた帰還兵を乗せて横浜港駅に向かった。(下線 ikagenki)

帰還兵というのは誤りで朝鮮半島に出兵したのである。第40歩兵師団が出兵して、第二四師団と交代したのだ。そして、その第二四師団がキャンプ・ホーゲンに移動したのだ。

1952年1月、18か月の戦闘で1万人以上の犠牲者を出した第24歩兵師団は、極東劇場の保護区に指定され、韓国から撤退しました。[23]再建のため日本に帰国した。第34歩兵連隊は再編成され、師団は翌年に全力に戻り、韓国ではカリフォルニア陸軍国家警備隊の第40歩兵師団に置き換えられました。(機械翻訳、出典

  ↓1952年3月31日、第24歩兵師団、第19歩兵師団、キャンプ・ホーゲン ↓



出典

■ 青函連絡船

列車を青函連絡船に乗せていたらしい。wikiにある;

青函連絡船での客車航送

1946年(昭和21年)2月の1101・1102列車で開始。日本人が乗る列車に関しては1950年(昭和25年)10月から「みちのく」で開始され、その後さまざまな変遷を経て、1954年(昭和29年)9月26日に発生した「洞爺丸事故」で危険と判断され中止されるまで継続した。その洞爺丸事故で沈没した一等寝台車のマイネフ38 5は1202列車のもので、当初第十一青函丸に積載されて出航したものの途中で引き返し、軍人・軍属とともに洞爺丸に移し替えたものだが、その第十一青函丸もこの台風で破壊され沈没した。 

■ 千歳

函館からは千歳線経由。当時、函館から札幌に行くには小樽回りの函館本線が主流のはず。ただし、米軍基地が千歳にあるので、千歳線回りとなったに違いない。

室蘭本線・千歳線経由での長万部 - 札幌間運転

1946年(昭和21年)11月5日の「Yankee Limited」で開始。1943年(昭和18年)8月1日に国家買収されるまで、現在の千歳線は私鉄の北海道鉄道の経営であり、そのこともあってかこの室蘭本線・千歳線経路での直通旅客列車は運行されたことはなかった。その後、函館本線(小樽)経由よりも同路線(苫小牧)経由の方が勾配が緩いなどといった理由もあり、徐々に小樽経由よりも苫小牧経由の方が同区間のメインルートとなっていき、1986年(昭和61年)11月には小樽経由での直通優等列車は消滅した。wiki


Camp Chitose (出典)


引用元  下青線が千歳駅が最寄り駅の米軍基地、施設; 下赤線が同札幌駅

■ 札幌

終点の札幌駅のRTO施設の画像は見つけられなかった。札幌駅の最寄の米軍基地は、キャンプ・クロフォード

 



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