いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第302週

2020年08月22日 18時37分52秒 | 草花野菜

▲ 今週の看猫;みけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第302週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の草木花実

■ 今週の訃報:Google [山崎正和 死去

以前、文庫の『世阿弥』をゾッキ本で買った。今思うと、最後の高原書店参りであった。家に帰って見たら、上記。本物なのだろうか?

この人、満州からの引き上げで、父親の遺骨の白木の箱を胸に、米軍機で北京まで行って、正陽門城楼(だったとおもう)に泊まったというのだ。大学での履修外国語は中国語(も)。dictation試験(口述筆記)だけ受けて合格。よくできたんだね。でも、山崎正和って「無中派」だった。親中でも反中共/台湾派でもなかった(とおもう)。今、ネットで調べると、訪中したというのは確認できていない。

■ 今週の甦る自主検閲

ひろしまタイムラインに“差別扇動”批判 NHK原爆企画 「朝鮮人」ツイート巡り

ひろしまタイムラインに“差別扇動”批判 NHK原爆企画 「朝鮮人」ツイート巡り(google

敗戦後、占領軍の検閲により、朝鮮人への批判が検閲対象、削除命令ということになった。占領が終わった後もこの検閲効果は生き続け、戦後長らく朝鮮人、特に敗戦直後の彼らの横暴への批判はタブーとなってきた。少なくとも1980年頃にはタブーであったことが呉智英の文章からわかる。これは朝日新聞の記事を批判したもの。朝日の記事(赤字)では、朝鮮人の横暴を明らかにしてはいけない作用が働いていることがわかる;

1980/5/3 朝日新聞(朝)([東京駅、いま昔]という連載記事78。戦争直後、車掌をしていて、進駐軍の米兵の横暴ぶりに悩まされた山下三郎さんの回想記事)だが、慣れるにしたがって、アメリカ人の善良さ、公共の秩序には案外おとなしく従う美点も同時に知った、という。むしろ、アメリカ人よりも、他の外国人にいばり散らされた不快な記憶の方が、鮮明に残る。

他の外国人とは何人のことだろう。フランス人か、ルーマニア人か、リヒテンシュタイン人か、アルゼンチン人か、ヌピア人か、パキスタン人か、ネパール人か。はっきり書けないような外国人というものがあるらしい。どことの民族とも、過去を隠蔽したり美化することなく、友好を深めなければならないのではないか。日本が侵略・併呑する側にあった支那・朝鮮人民に対して友好を深めるためにこそ、歴史の糊塗をいましまなければならない。この記事から二年後に、教科書の「侵略」糊塗騒ぎが起きている。(呉智英、『読書家の新技術』、1982年)

しかし、21世紀ともなって、この検閲の効果の残影は薄なりつつあるのか? 2004年の木田元の発言では、明瞭に述べている;

木田 喧嘩腰で列車に乗りこむわけです。だが、他の列車は満員なのに、そこだけ空いていて悠々座れる車両があるんです。そこに乗っているのは朝鮮人なんです。彼らは戦勝国の人間というわけで大変鼻息が荒くて、敗戦国の日本人を乗せないんですね。(木田元+渡部昇一、『人生力が運を呼ぶ』、2004年)

こういう状況でNHKのひろしまタイムラインとやらに当時の言葉そのものが載せられたらしい。でも、それは差別・扇動だ!との検閲官スリーパーが一斉蜂起したらしい。

でも、興味深いのは当時のこの子が、朝鮮人=戦勝国民という認識を持っていること。そもそも、このシュン@という人は、戦勝国・朝鮮人の存在と列車への乗車を描写しているだけで、横暴ではない。

■ 今週の生きてる言葉

ある大学生の犯罪容疑。その大学には様々な属性があるだろう。例えば、地方大学であったり、工業大学であったり、難関大学であったり、たくさんあるだろう。なぜ、私立という属性をもってくるのか?

大江健三郎の時代から変わらないらしい。なお、大江健三郎は作品中の「私大生」を、現在では、他の言葉に改訂したとのこと。⇒Google

確かに、作り話ではその言葉が悪いとは一概に言えない。蔑視も含めて、そういう言葉を意図的に使っている人物、あるいは作者を演出することがあるからだ。でも、事件での新聞報道でなぜ、容疑者の大学を私学であることを第一に表現しなければいけないのか?