いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』、デリク・クラーク 著、和中光次 訳;or 米俵が the white man's burdenになった時

2019年12月30日 19時41分22秒 | 

And mark them with your dead!
諸君は死して標を残すのだ。

(Rudyard Kipling,  "The White Man's Burden" [ラドヤード・キプリング、"白人の責務"] [1] の一節、)


英連邦戦死者墓地(横浜市保土ヶ谷区)。『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』において、その死が描写されているConstable Royの墓がある イギリス区画(Brit. Sec.)。


『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』(Amazon)

原著のタイトルは No Cook's Tour 。ここでCookとは、奇しくも今年倒産した、英国老舗の旅行会社Thomas-Cook [トーマス・クック] のこと。日本でいえばJTB(日本旅行:戦前からある)。つまり日本でいえば、大岡昇平の『俘虜記』の題として、No JTB's tourと名乗るようなこと。この著者のデリク・クラーク(1921年生まれ、1942年に捕虜)はキップリングの『少年キム』を読んで兵役に志願する夢想家であることが、この体験記の売り物。なお、キップリングはトーマス・クックの世界一周旅行を利用してインド⇒シンガポール⇒香港⇒長崎と日本に来ている(1889年)。デリク・クラークはインドからシンガポールに行き、捕虜となり日本に移送される。つまり、原著のタイトルは No Cook's Tourはキップリングのインド⇒シンガポール⇒日本の旅行を「本歌」としたもじりであることがわかる。

キップリングといえば the white man's burden という詩も有名。白人の世界支配を鼓舞した。そんなキップリングにかぶれて大英帝国の軍人になった人物の体験記ということで、おいらは興味をもち、読んだ。英軍捕虜の記録といえばタイメン鉄道の話など深刻なものがある。しかし、このNo Cook's Tour はその体験を深刻、悲壮な物語にはしていない。

内容は、むしろ、体験を淡々と書いたもの。大英帝国を翼賛する視点や情念を持って、捕虜となった境遇を悲嘆し、敵である日本を罵倒するといったものではなかった。あるいは、キップリングが好きであれば、文学的構成で以て物語をつくるというものでもなく、よくもわるくも実体験を書いたものであった。もちろん、それは良くて、シンガポール戦の実際や捕虜としての日本での労働について具体的に記述されている。ただし、繰り返すと、感動は書かれていない。例えば、シンガポール戦で斥候の日本兵を後ろから一気に殺害するのだが、恐らく生まれて初めての殺人のはずなのに、具体的に日本兵はどう死んでいったのか書かれていない。さらに、特に心理的状況は書かれていない。動揺したとか、成功感に漲り歓喜したとか書かれていない。

●この本の特徴は訳註が充実していること。註というばかりでなく、情報豊富で、解説の役割をはたしていて、当時の状況についてなじみがない読者には大変役立つ。

■ このブログ記事では、『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』での著者デリク・クラークの体験記で;①おいらが興味深く感じた点、そんなことがあったのかと初めて知って驚いた点を書く。②もうひとつ、この本は注をつけるのが楽しそうなので、おいらが見つけて、本書に書いてない点(註)を書く。

①. おいらが興味深く感じた点、そんなことがあったのかと初めて知って驚いた点

1.米英の親密さと物量格差

デリク・クラークの所属する英陸軍は1941年10月に英国から中東に向かう。日米開戦前。米海軍が護衛。デリク・クラークの所属する英陸軍は結果的にシンガポール防衛に向けて出発したことになる。日本の対米英宣戦布告前に出発していたことになる。当時英国はヒトラーのドイツの上陸の脅威にあったはず。ドイツの対ソ戦開始で、英国はドイツの英国への侵攻はないと読んだのではないだろうか?

英兵は米艦に乗るのだが、食料事情が米英で違うと書いてあった。米軍は捨てるほどの食料で過ごしていたのに、英軍はそうでもなかったと。

2.日本兵3名を瞬殺

デリク・クラークはシンガポール戦で日本兵3名を背後から瞬殺している。そして、殺した日本兵の最後の姿の絵を載せている。

戦争であるからそういうこともあるのだろうが、日本兵3名を一気に殺して、うれしかったとか後味が悪かったとか書いていない。

3.シーク兵とグルガ兵

シンガポールでの英軍降伏後、英印軍に所属していたであろうシーク教徒が日本側へ寝返り、降伏英軍兵の管理をしたとある。そして、そのシーク兵の英兵の取り扱いが日本兵よりひどかったと書いている。一方、グルガ兵は降伏後も英兵への忠誠心が高かったとのこと。このグルガ兵の話は、会田雄次の『アーロン収容所』にグルガ兵の忠誠心として出てくる内容と整合する。

4.日本到着、一般車両で移動

キプリングは香港から長崎へと来たが(1889年)、デリク・クラークは台湾から門司へと来た(1943年)。そして、一般客と混じって列車で東京まで来たとある。山陽本線、東海道線を通ったのだ。列車から見えたのどかな日本の風景が書かれている。デリク・クラークは廣島など数年後に空爆で灰燼に帰す各都市の風景を見たことになる。

汽車は村々を、そして街を通過した。街は古い日本と現代米国が入り混じった、風変わりな姿をしている。

街の景色は、明るい花柄の着物と地味な色合いの制服、活き活きした漢字とモダンなひらがな(漢字は中国の文字、ひらがなは単純な表音文字)、人力車と流線型の車が入り混じっている。
 日本は、我々と長期にわたって近代戦を戦い抜けるようには思えなかった。だが、彼らの最大の強みはその恐るべき精神力にあった。(第18章 大森捕虜収容所)

富士山が右手に見えたとある。???と思った。調べた。昔は東海道線は今の御殿場線を走っていたのだ。おいらは、今知った。

東京駅から大森駅まで行った。

電車の中はもう満員で、ロンドンの地下鉄のラッシュアワーと同じだ。車内には好奇心旺盛なニップもいて、ジロジロ見てヒソヒソ話している。しかし、ほとんどの乗客は全く我々に関心を示していなかった。(第18章 大森捕虜収容所)

5.池田徳眞(のりざね)との面接

 一日がものすごく長く感じられる。まだ我々は何もさせられておらず、東京に連れてこられた理由も聞いていない。 
 だがある日、状況に変化があった。
我々は一人ずつ事務所に呼び出された。二人のジャップが我々を聴取するという。
 やっと私の番がきた。事務所内に案内され、座るようにと言われた。質問者は二人の若いジャップだった[56]。洋服姿のきちんとした身なりで、そのうちの一人は完全な英語を話した。私の書類関係は彼の前にある。彼はいろいろと質問をした。
 まず次のように話した。
「えーと、あなたはウォトフォードに住んでいましたね。ウォトフォードはよく知っていますよ。バイパスやキングス・ラングレイの辺りをいろりろね」
 その後彼は、私が描いたスケッチのことや、演劇に関心があるか、絵を見せてもらえるか、どっちが戦争に勝つと思うか、などと質問してきた。それらの質問に答えると、彼はこういった。
「オーケー、これで終わりです。では次の人」
(第19章 ビーチの仕事)

完全な英語を話すジャップが池田徳眞(のりざね)[wiki]。訳注[56]に書いてあった;

56 クラークを面接した人物
参謀本部駿河台技術研究所放送部主任で日の丸アワー放送を担当した池田徳眞[のりざね](徳川慶喜の孫)と外務省ラジオ室の牧秀司。池田は外務省ラジオ室で海外放送傍受等を担当していたが、ゼロアワー放送の責任者に抜擢された。池田は東大文学部を卒業後、1932年に渡英し、オックスフォード大学に留学、英国で4年4ヶ月、豪州で一年半暮らした。放送開始前に、候補の捕虜53名のうち、40名が大森収容所に到着しており、池田は3週間前に10回大森収容所を訪問して、捕虜管理本部棟応接室で捕虜を面接、雑談しながら放送に使えるかどうか判断した。使えそうな捕虜には、その捕虜に応じたテーマで、文章を書く課題を与えた。最終的には恒石少佐と相談の上、最初の14名が選ばれた。

この池田徳眞は旧鳥取藩主池田氏第17代当主であり、18代目で鳥取(伯耆)池田家を絶家とする、つまり末代(鳥取池田家の絶家;marquiseの決断、あるいは、絶倫殿様の曾孫の絶家)の池田百合子の父親である。

6.苛酷労働をする日本人女性

捕虜たちが使役させられた仕事は日本人もやっていたし、女性もやっていた。セメント袋の荷運びという過酷な作業を日本女性もやっているのを見て英兵捕虜が驚く場面の描写があった。

7.市街を移動する捕虜

作業所へは捕虜収容所から市街を通ってトラックで移動。途中、市街の日本人から罵られることは(少)なかったとある。空襲の後も、敵を憎み、報復しようとする日本人もいなかったと書いている。クラーク本人は石でもぶつけられるのではと怯え、覚悟したが、実際はなかったと書いている。

8.8月15日の心境

「天皇がさっき、ラジオで戦争をやめるって言ったんだよ」
彼は戻っていき、我々はみんな腰を下ろした。
笑うことも、泣くことも、小躍りしてよろこぶこともなかった。 (第36章 冒険終わる)

9.米軍の東京初進駐は8/29

米占領軍の東京への進駐は、9月2日に横浜港から上陸した第1騎兵師団らしい(愚記事;1945年9月2日横浜(⇒東京)に進駐する米軍を米英旗で迎えるがきんちょたち)。8/30には米軍は横浜に進駐しているが、その軍は東京へ進駐したかわからない。一方、『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』では8/29に上陸舟艇で大森捕虜収容所に米軍が捕虜を救出しに来たとある。 (第36章 冒険終わる)

10. 英兵捕虜の復讐

註より

114 渡邊軍曹の異動とその後任
実際にバードこと渡邊睦裕軍曹が直江津収容所に異動したのは、1945年1月だった。畑で開かれたお別れパーティーでは、捕虜士官たちが餞別として渡邊軍曹にライスケーキを贈った。これには赤痢菌患者の排泄物が微量混入されていたが、渡邊軍曹には何の異常もなく、捕虜たちを落胆させた(終戦近い時期に渡邊軍曹が異動した満島収容所でも捕虜軍医らが同じことを試み、この時には渡邊軍曹を発病させることに成功している)。

 

解放されるまで

②. おいらが見つけて、本書に書いてない註を書く。

▼1.

『英国人捕虜が見た大東亜戦争下の日本人』に書かれる大森捕虜収容所で日本軍に直接殺された人の話はない。一方、作業場で事故死した事件が書かれている。

 数日後の、じめじめしたうっとうしい日。午後、我が班は、貨車から旋盤を降ろす作業をしていた。破壊工作に勤しんだ後、次の貨車を引っ張ってくる機関車を待っていた。一日4回、機関車は貨車を運んできては、空になった貨車を引っ張っていった。
 機関車が入ってくる時は、作業員は貨車から外へ出ることになっていた。機関車が貨車が貨車に追突することがあり、積み荷に潰される危険があるからだ。
 次の機関車がこっちのにくる音がする。突然、激しい衝突音がした。一瞬、我々は顔を見合わせたが、バジーはすぐに走り出し、他の連中もそれに続いた。カミバラのほうだ。貨車は脱線し、荷物を積んでいたトラックも横転して、ひどい有様だ。
 地面には鉄の棒が散乱し、楽団員のロイが倒れていた。運命のいたずらだった。本当は今日、ロイはここで作業をするはずではなかったのだ。
 ロイの班が荷おろししている作業現場での衝突事故だった。全員、咄嗟に飛びのいたのだが、ロイだけは反対側に逃げてしまい、鉄の棒に、そして運命に捉えられてしまったのだ。
 ウェグスが応急処置を施したが、だめだった。ロイは死んだ [106]。
 翌日、芝浦班はロイの告別式に出席するため、仕事は休みとなった。我々は集合場に整列、英国国旗がかけられた棺がその中央に運ばれてきた。従軍神父が葬送の辞を読み、収容所の所長が短い言葉を述べ、花輪を棺に捧げた。ラッパ手が軍葬ラッパを奏で、担ぎ手の親友が火葬場まで付き添い、将来英国の墓地に埋葬するため、遺骨を引き取った。
 全員、大変なショックを受けていた。ロイはみんなからとても好かれていたからだ。
 ジャップに対する憎悪は、その後しばらく、かなり激しいものとなった。決して起きてはならぬ事故であった。ジャップが注意を怠らなければ、起きるはずがない事故であった。 (第31章 悲劇と喜劇)

[106]  芝浦駅での死亡事故
ロイ・コンスタンブル(ノースランカシャー連隊第2大隊所属の兵卒 [private])の死亡事故は1945年5月20日に起きた。享年27。楽団の一員で、200ページの大森バンドの写真の中に、トランペットを吹くコンスタンブルの姿がある。事故10日前のショーでは、バシーらとともに「シバウラ・セレナーデ」に出演している。

「将来英国の墓地に埋葬するため」とあるが、現在は、横浜の墓地に眠っている(本記事最上部の写真)。ネットで確かめることができる;



https://www.cwgc.org/search-results?term=constable%2Broy&name=constable%2Broy&fullname=constable%2Broy

 
https://www.cwgc.org/find-war-dead/casualty/2207796/constable,-roy/


英連邦戦死者墓地(横浜市保土ヶ谷区)。愚記事より。


愚記事より

▼2.米俵が the white man's burden になった時

 我々は米の荷おろし作業に取りかかった。これは小屋のすぐ近くの長いプラットフォームで行われた。そこで我々を待ち受けているのは、無蓋貨車の長い列だ。英国の貨車と似ている。
 貨車には米俵が大量に積まれていた。一つが60キロほどの重さで、それをプラットフォームに降ろす。みんな英国の港湾労働者が使うような鉄のフックを持っており、それを手にして作業に取りかかった。最初私は、他の連中が作業するのを見ていた。
(中略)
 しかし実際にやってみると、なんてことだ。転がってきた俵が側頭部にぶち当たり、ものすごい衝撃を受けた。首が折れ、耳がもげるかと思った。必死にフックで俵を押さえようとしたが、後ろに滑り落ちたようだ。膝が震え、俵を担ごうとしても後ろに落としてしまう。(第20章 クリスマスの願い)


手鉤(てかぎ)[右手に握っている]で米俵を運ぶ作業者(物流博物館の展示より)
手鉤(google画像

鉄のフックを持っており、それを手にして作業に取りかかった。は上記の手鉤のことだろう。

本書ではデリク・クラークは米俵を担ぐことに苦労したことは書かれているが、無事運べるようになった、運んだということは書かれていない。結局、米俵を担げなかったらしい。

The white man's burdenも大したことがなかった(!!! ???)とわかるのであった。


[1]

The White Man's Burden

Take up the White man's burden --
Send forth the best ye breed --
Go bind your sons to exile
To serve your captives' need;
To wait in heavy harness
On fluttered folk and wild --
Your new-caught, sullen peoples,
Half devil and half child.

Take up the White Man's burden --
In patience to abide,
To veil the threat of terror
And check the show of pride;
By open speech and simple,
An hundred times mad plain.
To seek another's profit,
And work another's gain.

Take up the White Man's burden --
The savage wars of peace --
Fill full the mouth of Famine
And bid the sickness cease;
And when your goal is nearest
The end for others sought,
Watch Sloth and heathen Folly
Bring all your hope to nought.

Take up the White Man's burden --
No tawdry rule of kings,
But toil of serf and sweeper --
The tale of common things.
The ports ye shall not enter,
The roads ye shall not tread,
Go make them with your living,
And mark them with your dead!

Take up the White man's burden --
And reap his old reward:
The blame of those ye better,
The hate of those ye guard --
The cry of hosts ye humour
(Ah, slowly!) toward the light: --
"Why brought ye us from bondage,
"Our loved Egyptian night?"

Take up the White Man's burden --
Ye dare not stoop to less --
Nor call too loud on freedom
To cloak your weariness;
By all ye cry or whisper,
By all ye leave or do,
The silent, sullen peoples
Shall weigh your Gods and you.

Take up the White Man's burden --
Have done with childish days --
The lightly proffered laurel,
The easy, ungrudged praise.
Comes now, to search your manhood
Through all the thankless years,
Cold-edged with dear-bought wisdom,
The judgment of your peers!

Rudyard Kipling


白人の責務

白人の責務を果たせ ―
諸氏の育てた俊勇を送れ ―
諸氏の息子を海外に送り
困窮せる虜囚のために働かせ
一致団結して役務につかせよ
動揺する蛮族のために ―
被征服民、うっとうしい連中
半ば悪魔、半ば子供のために。

白人の責務を果たせ ―
忍耐強く我慢して
恐怖の脅しを隠し
誇りを見せびらかすな。
百倍も分かりやすく
率直かつ明快に語れ。
連中の利を追求し
連中の益を齎すため。

白人の責務を果たせ ―
平和ため残忍な戦闘に参加し ―
飢饉の口を一杯に満たし
疫病を追放せよ。
諸君の連中への目的が
達成目前に注意すべきは
諸君の希望を無にする
怠惰や邪教の愚行だ。

白人の責務を果たせ ―
豪奢な王者の支配ではなく―
奴隷や掃除人の苦役を ―
普通の連中の話を。
諸君に禁じられた港を
諸君に禁じられた道を
諸君は生きてこれらを使い
諸君は死して標を残すのだ。

白人の責務を果たせ ―
そして白人の報酬を得よ。
連中の非難を和らげ
連中の憎悪を見守れ ―
大勢の嘆きに同調し
(徐々に!)光明に向ける ―
「わしらが好きなエジプトの夜
なんで解放するのかね?」

白人の責務を果たせ ―
諸君は卑下することはない ―
といって疲れを隠そうとして
声高に自由を叫ぶことはない。
諸君が叫ぼうとも囁こうとも
投げ出そうとも努力しようとも
不機嫌で無口な連中は
諸君の神と諸君を信じ始める。

白人の責務を果たせ ―
子供の時代に別れを告げ ―
さっそく差し出される月桂冠
躊躇なき賞賛の声。
さあさあ、男らしさを
尊い知恵で研ぎ澄ましても
報われざる歳月を終え
同胞の評価を求めよ!

(http://kubrick.blog.jp/archives/52074616.html様よりコピペ [訳者不明])