■ 国営昭和記念公園 参り、序
国営昭和記念公園 参りは2016年に始めて今年で三度目。
今の若い人は国営昭和記念公園は元々何であったか知らないだろうし、気にも留めないだろう。そして、この日国営昭和記念公園には多くの外国人客がやって来ていた。言葉や装いから、チャイナ系、タイ人、インドネシア人、マレーシア人であろう。彼らはとても銀杏が好きだ。今日本にいる外国人は総人口の2%とのこと。それを基準に考えると、この日のこの公園の外国人比率は相当高い。
さて、おいらが筑波山麓から武相境に来て東京・横浜を散歩している。その散歩先は歴史探訪ものが多い。そして、旧occupied area [1]、あるいは今のoccupied area[2]も覗きに行っている。
[1] occupied area;(戦勝国)占領地域
愚記事: 本牧台地散歩; 「帰って母に聞いて、日本がアメリカに負けたことを知りました」
[2] 横田基地参拝
【立川飛行場・戦前篇】
国営昭和記念公園は戦前から1977年まで飛行場であった。おいらが初めて立川飛行場をみたのはこの写真。小学生の頃から松岡洋右は知っていた。日独伊三国同盟、日ソ不可侵条約を結んだことで有名。今から思うと、近衛文麿はおいらが読む本には出てこなかった。あるいは、出ていたとしても印象に残ってない。なぜなら、当時の戦史には「無謀な軍国主義者」が日独伊三国同盟、日ソ不可侵条約を結び、挙句の果てに米英に宣戦布告して、日本を亡ぼしました、の意が書かれていたのだ。その破滅への一里塚が日独伊三国同盟であり、それを説明した節の写真がこれだった。
共同通信社の売り物らしいです。無断コピペです。
松岡洋右はシベリア鉄道で満洲まで来て、そのあと飛行機で立川飛行場についたのだ。その松岡を近衛が出迎えている写真。このあと、同じ車に乗らず(松岡は近衛との意見交換をせず)、都心に向かった。
近衛が立川まで松岡を迎えに行ったのは、東京まで自動車に同乗して、米国との交渉の顛末を報告し、松岡の諒解を求めるつもりだった。ところが、松岡が宮城へゆくというので、近衛は同乗を取り止め、富田書記官長が代わりに松岡の車に乗り込んで、報告することにした。(杉森久英、『近衛文麿』)
【戦後編】
おいらが戦後立川飛行場(以下、立川基地)で関心があるのは、朝鮮戦争。朝鮮戦争の出撃基地。朝鮮戦争での「サイパン島」としての立川基地 [3]。でも、後述するが、これは違った。B-29などの重爆撃機の出撃基地は横田と入間で、立川は用途が違った。立川は航空輸送隊の基地。
[3] 金日成(キム・イルソン)主席が生前に「米軍の爆撃で73都市が地図から消え平壌には2棟の建物だけが残った」と言及したことがある [google]。
手術がうまい外科医が育ったのかは不明。
さらに、10代の頃本で知った砂川事件;立川基地の拡張への反対闘争の原因となった立川基地拡張は朝鮮戦争が終わった後の出来事。すなわち、次の戦争に備えていたわけだ。次の戦争がベトナム戦争。
朝鮮戦争で「勝てず」、ベトナム戦争では「アメリカ文明」として泥がつき、撤退開始。
立川基地から米軍が撤退したのは、1977年。
【現在と「基地の街、立川」の過去画像】
現在の立川駅の周辺は、「基地の街、立川」=米軍の街・立川は全く感じられない。これは、1952年には米軍が撤退したおいらの生まれた町の郊外よりも占領軍痕跡がない。
「基地の街、立川」は夢、幻のようである。
でも、「基地の街、立川」の過去画像」の集大成をネットで見つけた;
https://www.flickr.com/photos/20576399@N00/albums/72157648726604968
これは、すごかった。
以下は上記リンクからの転用;
これは1969年の画像。したがって、この病院棟群はベトナム負傷兵のためのもの。
■ 国営昭和記念公園 参り、本
2018/11/23。 この日の夜は花火大会。 なので、設営などこれまでと状況が違った。
▼ 日本庭園
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去年、「ごきげんな人たち」と認定した方々は、9,000円払っていたのだ。
「ごきげんな人たち」