いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

浦賀参り:馬堀海岸駅⇒横須賀美術館⇒浦賀駅、後編(4⇒8)

2018年03月15日 18時53分45秒 | 東京・横浜

4 横須賀美術館

美術館屋上。 この屋上で外の庭へ出れます。 

 

海食崖。この海食崖の向こうが小原台地。

屋上が、手前の段丘側の小規模海食台/海岸段丘の面の高さです。

 

 

屋上から降りて、美術館全景再掲。

4 ⇒ 6 横須賀美術館 ⇒ 鴨居港

鴨居トンネルと観音崎トンネルへの分岐三叉路。 鴨居へ向かいます。

鴨居トンネル

鴨居港

昼ごはん食べてる間に晴れてきた

6 ⇒ 7 鴨居港 ⇒ 浦賀の渡し

海食崖で開析された台地を抜けて行く。

浦賀の渡し。 200円です。

対岸に渡りました。 陸軍桟橋。

刻字)
碑正面:
「浦賀港引揚記念の碑
昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争は終結。ポツダム宣言により 海外の軍人、軍属及び一般邦人は日本に返還された。ここ浦賀港も引揚指定港として、 中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れた。  引揚者は敗戦の失意のもと疲労困憊の極限にあり、栄養失調や疫病で倒れる者が 続出した。ことに翌21年、華南方面からの引揚船内でコレラが発生。以後、続々と 感染者を乗せた船が入港。このため、旧海軍対潜学校(久里浜長瀬)に設けられた 浦賀検疫所に直接上陸、有史以来かってない大防疫が実施された。この間、祖国を 目前にして多くの人々が船内や病院で亡くなる悲劇があった。昭和22年5月 浦賀引揚援護局の閉鎖で、この地の引揚業務も幕を閉じる。  私たちは再び繰り返してはならない戦争により悲惨な引揚の体験を後世に伝え、 犠牲となられた方々の鎮魂と恒久の平和を祈念し、市制百周年にあたりここに記念碑を 建立する。 横須賀市」
碑裏面:
「ここ浦賀港は、先の大戦終結後、引揚指定港の一つとして極めて重要な責務を 担いました。引揚とコレラ等の防疫に携わったすべての人々をねぎらい 謝意を表するとともに、この地で倒れた幾多の御霊に弔意を表します。この碑は、 引揚者や地元の方々の熱意により建立が実現したものであり、市制百周年を迎えるにあたり、当地の歴史を再認識し、恒久平和の願いを後世に伝えんとするものです。
平成一八年(二〇〇六年)十月 横須賀市長 蒲谷亮一」

コピペ元

浦賀駅へ向かう

ところが!!!

浦賀に生まれて初めて来たおいらは、

明治維新―祖国自存自衛大戦争の

史跡探訪の予定であったが、 このような「広告」。

浦賀は前近代から「グローバリズム」の出口だったのだ。

王と坊主の同床異夢の野望の果てに!」 家康編もあるのだ。

 

終点、浦賀駅です。