いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

近衛文麿について; misunderstanding all we see

2014年01月12日 21時10分43秒 | 日本事情

大日本帝国が亡びたのは歴史的事象である。この世に生じたことは必然的事象である[0]。この必然的歴史の現実において個人というもの役割、端的には責任とは何かという問題は難しい。

こういう困難さとな別に、俗な感情で考えてみよう。自分のヒステリーで考えよう!

大日本帝国を亡ぼしたことへ個人として一番貢献が大きいのは?と問いを立てたら、おいらは近衛文麿だと思う。

今、(いわゆる)A級戦犯が大日本帝国を亡ぼしたとの印象が世間に流布しているようにみえる。しばしば怨嗟の的となる。

一方、近衛文麿が大日本帝国を亡ぼしたという認識はここ数年は別として、戦後あまりなかったようにおいらは感じる。まして、近衛文麿が国民の怨嗟の的となることはなかった。東条英機の孫が平成の御代に政治活動をしたとき、特に国民的支持は得られなかったが、近衛文麿の孫の細川護熙は総理大臣となった。国民の圧倒的人気で。近衛文麿と同様に... [1]。

  
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さて、近衛文麿に関する本は多く、生い立ちからの伝記も多い。その伝記として、矢部貞治、『近衛文麿 誇り高き名門宰相の悲劇』 (1958年)と岡義武、『近衛文麿 ―「運命」の政治家-』 (1972年)が、職業学術研究家(東大教授)により書かれている。なお、これは東条英機の伝記が職業学術研究家により書かかれていないことと対照的である。ちなみに、ミネルヴァ書房の「ミネルヴァ日本評伝選」の東条英機の巻が牛村圭@ever been to EdmontonAmazon)によって書かれる予定のはずである。

 
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この2冊には、第一次近衛内閣で尾崎秀実が内閣嘱託として官邸に事務室を持っていたことは全く書かれていない。コミンテルンの工作員であった尾崎はゾルゲ事件で逮捕され1944年に死刑となっている。尾崎の活動や思想、主張は裁判と先立つ検察による調書で公開されている。何より尾崎は当時から言論雑誌に時評を書いている。

評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。 1937年(昭和12年)年7月に盧溝橋事件が起こると、『中央公論』9月号で「南京政府論」を発表し、蒋介石の国民政府は「半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョワ政権」であり、「軍閥政治」であるとして酷評し、これにこだわるべきでないと主張した。また、9月23日付の『改造』臨時増刊号でも、局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対、日中戦争拡大方針を主張した。11月号では「敗北支那の進路」を発表、「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく」として中国の共産化を予見した。

こうした主張は、翌1938年(昭和13年)1月16日の第一次近衛声明に影響を与えた。同年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、 軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張、また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも中国との提携が絶対に必要だ との意見に反対し、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかない、と主張して、講和条約の締結に反対、長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた。  (wikipedia)

このコミンテルンの工作員であった尾崎の主張と国民政府を相手にせずと平和交渉を打ち切り戦争を終わらせることを原理的に不可能にした近衛の政策は極めて調和的である。何のことはない近衛内閣はコミンテルンの工作員であった尾崎に知恵をつけられていたのではないか?という仮説を持って当然である。

改めて確認すると支那事変中の尾崎の言論も検察での取り調べの文書は公開文書だ。前者は当時から公知(だって雑誌だもん)、後者は戦後なら見られた。少なくとも上記東大教授が近衛文麿の伝記を書くときには考案すべき史料だったはずだ。

全く書いてない。矢部貞治、『近衛文麿 誇り高き名門宰相の悲劇』 (1958年)と岡義武、『近衛文麿 ―「運命」の政治家-』 (1972年)には第一次近衛内閣で尾崎秀実が内閣嘱託として官邸に事務室を持っていたことは全く書かれていない。

■ コミンテルンと大東亜戦争の関係については、三田村武夫、『大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義 (自由選書)』を嚆矢とするらしい。おいらははまだこの本をみたことがない。一方、おそらくこの三田村の線で中川八洋が2000年に『大東亜戦争と「開戦責任」 近衛文麿と山本五十六』を書いている。

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そして、最近先の大戦におけるコミンテルンの役割の研究が進展しているようだ。しばしば「コミンテルン陰謀説」にもなっている。

          
  陰謀だ!      朝日の記者だ!      俺もだ!

おいらは、コミンテルンの役割を無視して日中開戦、日米開戦は語れない時代になったと思う。でも、先の大戦のコミンテルンみたいなことは今もあるはずである。そして、それに乗せられ、ひきずりこまれると敗戦にいたる戦争になってしまうのだ。

支那事変(盧溝橋事件に始まる終わりなき戦争)は、中国に挑発されて、大陸内部にひきずりこまれたのだ。

国が亡びたのだから、目先の正邪ではなく、挑発にのったことが まぬけ なのだ。

今度はがんばってほしい。

・関連愚記事; 日本政府 内閣官邸にコミンテルンがいた日々

・  コミンテルンと吉田茂、あるいは、日独防共協定の皮肉 

近衛文麿 ヒトラー仮装写真 

 

▼ 今日知った人

多田 駿(ただ はやお) wiki  石原完爾の上司。 石原が有名すぎるせいなのか、普通の通俗歴史書ではこれまでみなかった。


 

[0] 予言力; 40年前に「亡びる」ことを予言していた漱石(「亡びるね」@浜松駅)って一体なんだったんだ!という問いは難しい。何が難しいって、日帝の滅亡を予知する能力の持ち主が「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である愚記事」)な御仁であることだ。 教養主義的=世間知らず=自然知らずポピュリスト=高踏派の悲劇、であろうか。

[1] 大丈夫か? ぬっぽんずん

  近衛文麿―教養主義的ポピュリストの悲劇 (岩波現代文庫) Amazon