水栽培から、土に植えました。
▼ 今週満開
■ 1/1に書いた; 『その「日本スペイン交流400周年」の交流事業の一環なのかわからないが、』
違うらしい。なぜなら、去年末は大阪で開催していたからだ。
エル・グレコ展、明日まで。 上野、東京都美術館。
今回の展示のポスターにもなっている「無原罪のお宿り」など[1]、教会のための大作品よりも、おいらは、グレコが住んでいたトレドの人たちの肖像画が好きだ。 「白貂の毛皮をまとう貴婦人」など、よい。この画風は、典型的なエル・グレコ風ではない。そして、わかった、おいらは、典型的なエル・グレコ風の決定的因子である「少女漫画」風が好みではないのだ。
あのひとめみたらグレコでしかないとわかる作品群がすごい!とは思うが、ただ、おいらの趣味じゃないというだけだ。
「白貂(てん)の毛皮をまとう貴婦人」
うわさによると、エルグレコが描いた女性肖像画は2点。
一方、主祭壇画の「無原罪のお宿り」マリアは大代表作、そして、マグダラのマリア[2]も1点画いている。
▼ 下から目線
一度見上げたら、忘れられない
エル・グレコの代表作、「無原罪のお宿り」などの耶蘇関連絵画を見ていて、ある文章が浮かんだ;
中世の絵画といえば、聖母マリアや、教皇や司祭、天にいるキリストや天使などが思い出されるだろう。どれも別世界にあって縁遠く見えてしまうものではないだろうか。しかし、最近、その縁遠さが解消できる場所があるようになった。
それは広く開放された空間のなかに設置されたエスカレーターである。昨今では都市の中には上下に伸びて、あちこちにエスカレーターが設置されている。手前からスティールのデッキが伸びて、それが階段状に割れていく。かつては建物の中にしか見られなかったエスカレーターだが、最近では、広いテラスの間の開放された空間のなかでもエスカレーターは活躍している。
あるとき、そういう場所で何気なく下りてくる人たちを、下から見ていたら、そこに見える光景が、中世の絵画で見たキリストや聖母マリヤや、あるいは着飾った王様の光景に重なって、奇妙な気分になった。(中略)エスカレーターにおとなしく乗った人たちは、多くがまっすぐ前に顔を向けながら、自分の下りる方向を見下げて堂々としている。(中略)それを下から見上げていると、その光景がほんとうにヨーロッパ中世の絵画と似通っている。 八木雄二、『天使はなぜ堕落するのか -中世哲学の興亡-』(関連愚記事; 八木雄二、『天使はなぜ堕落するのか』)
もちろん、エル・グレコは、中世絵画の画家ではない。ただし、エル・グレコの住んでいたスペインのトレドのたたずまいは当時は「中世」であり、今日現在でも「中世」をみれる場所である(関連愚記事;▼ところで、スペインの都に招かれ片道1時間以内で行くなら.....)。
[1]「無原罪のお宿り」(1598-1599)の系譜の上流はこれだろうか?
これらに 「少女漫画」風を加味すると、エル・グレコになる(????)。
Federico Barocci (wiki), The Deposition from the Cross, 1567-1569
これも系譜的「祖」かな?
Raphael(wiki), Transfiguration (1520)
[2] これ、へたくそ、で、ね!? これが、あの「白貂(てん)の毛皮をまとう貴婦人」と同じ作家のものとは信じられない。
「淫売のマグダラのマリア」を、乳首丸出しで、表象しようとした想像力の貧しさにも驚く。 それにしても、エル・グレコの脳内ではこのマグダラのマリアはどうやって髑髏(どくろ)を入手したストーリーになっているのであろうか? もしかして、これは「マグダラのマリア」ではなく、「戦地の恋人を想う」なのかもしれない。 これだ↓
もちろん彼女は、髑髏と共に思索する、耶蘇・西洋文明の嫡子である。