いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

最後のひと玉、越冬したタマネギを喰い尽す

2013年04月03日 19時33分45秒 | その他

桜の散った今頃、しあわせな人たちは「新玉ねぎ」(google)を食べているらしい。

春先になると店頭に並ぶ新玉葱は黄玉ねぎや白玉ねぎを3~4月頃に早取りし、すぐに出荷されたもので、半生の柔らかそうな外皮に包まれた、水分が豊富で柔らかく甘みが強く、オニオンスライス等で生で食べられますが、煮込み等に適していません出典)。とのこと

今週、おいらは、去年の秋に、おいらどものダーチャで収穫したタマネギ群の最後のひと玉を喰い尽した。

最後のひと玉はかなり芽がとびだし始めていた(上図)。

よーく火を通してたべた。

見た目がおいしそうではないので、白黒にして、画像の大きさも小さくした。

なんだか、イカの塩辛みたいじゃないか。

秋に大量収穫したタマネギは干して、長持ちさせる。

■ 宋慶齢、 文革保護対象名簿 第一位

 毛沢東    宋慶齢     周恩来
  主席     副主席     総理

先日、愚記事(3/31)で、銭理群、『毛沢東と中国(上) ある知識人による中華人民共和国史』(Amazon)について言及した。その著者の北京大学教授だった銭理群は、出自が「黒」らしい。自分の経験と中共史を記述した本だが、出自はそんなにはっきりとは書かれていない。でも、銭理群の母親が「本来国民党高官の貴婦人であった」とある。そして、書いてある;

 しかし「階級」というのは、当時は確かに通れることのできない問題であった。特に私の家庭はこの革命の対象であった。私が後年書いたように、共和国は革命の産物であり、革命とはもともとあった社をみせたか、これらについての考察はあまりにも少ないのも事実だ。これらの要素は歴史記述のなかで回避される傾向がみられるが、このように叙述された歴史はあまりにも単純化されたものだといえよう。
 ここで母親の反応を書いておきたい。彼女にしてみれば、革命は確かに天地がひっくり返るほどの大変動であったといえよう。彼女は本来国民党高官の貴婦人であったのに、一夜にして反革命、反動官僚の身内となって、多くの人にとってはさげすみの敵視の眼差しで見られるだけで、かかわることさえ許されない賎民になってしまったのだ。しかし私の母は驚くべき決断力と硬い意志でこの変化に対応したのでもある。彼女は真っ先に、蒋介石から送られた勲章も含まれている、父親の各種証書を政府に差し出したのである。それからという、彼女は父に関する一切のことを口にすることはなかった。かつての生活についてもそれは同様であった。その歴史自体が罪とみなされる以上は、口をつぐむのが何より重要だったのである。

 つまり、銭理群の父親は国民党の高官として台湾に逃げたが、母親は大陸に残ったのだ。 そして、続く;

 彼女はまたとても謙虚な態度で周囲のすべての人と接しておいr、政府からの一切の要請に、例えば被災民への援助から大躍進期に銅と鉄を差し出すことなどにも、積極的に応えた。

 (中略)

 このような数十年の風雨の時期が過ぎて、文革の時になると、家中に緊張が走った。災難から逃れられまいと思ったのである。だが母はいつものように、長年愛用していたぼろぼろの籐椅子に座って、セーターを編み続けており、私などよりずっと落着き払っていた。奇跡ともいえるが、私の家の向かいが学校であったにもかかわらず、紅衛兵は結局私の家には押し掛けてこなかった。聞けば、ここの老婦人はとても良い人であるから、彼女を煩わせてはいけない、といってくれた地区委員会のおかげらしい。

こういうくだりがある銭理群、『毛沢東と中国(上) ある知識人による中華人民共和国史』を読んでたら、3/31の記事に書いた葉剣英のことにぶつかり、wikipediaを見ていた。こういう高い地位についていた人物のwikipediaにおける紹介では、その地位、あるいは関連の地位についていた歴代の人物名が書いてある。

そして、見つけた、宋慶齢。 国家副主席。

宋慶齢(1893-1981)。 まずは、知らなかった。

(こんなwikiに載っていることを知らないことをネタに書きたててお恥ずかしいのだが)

でも、どうみても、名前からして、宋美齢(1897-2003)の縁者だろう。調べた。宋美齢三姉妹の姉だ。そして、孫文の未亡人だ。

知らなかった。なんとなく、蒋介石(1887-1975)は孫文(1866-1925)の娘婿だと、思っていた。蒋介石と孫文は義兄弟なのか。知らなかった。もっとも、孫文と宋慶齢は歳が、27歳も違うのだ。

孫文の未亡人といえども、蒋介石の義姉である。そして、戦後は大陸で暮らしていた、どころか、中共の国家副主席になった。

1927年、蒋介石が指導する南京政府が上海にて四・十二事変を発動、それまでの宥和的な中国共産党との関係の見直しが迫られるが、宋慶齢は孫文の「聯俄容共(ソビエトとの協力、共産党の容認)」政策を堅持する立場を採り上海クーデターを非難、蒋介石や宋一族との対立を深め、(中略)、8月にはソ連に身を寄せている。 (wiki

宋慶齢は、ソ連に行った。この背景は、実は、孫文なのだ。孫文と宋慶齢は東京で結婚したくらいで、日本に孫文の革命の支持者がたくさんいた。一方、孫文はロシア革命にも惚れこんでいたのだ。コミンテルンができる前に、後のコミンテルンがやるようなことを、孫文はソ連に求めていたらしい。だから、宋慶齢は、ソ連に親近感があったのであろう。 

いずれにせよ、宋美齢(1897-2003)は米国を日本討伐に駆り立て、宋慶齢(1893-1981)はソ連に走り、国共合作を目指し、抗日戦争に励む。 「宋家の三姉妹は抗日統一戦線の象徴」となったのだ。

反日三姉妹、あるいは、蒋匪賊三姉妹

 日本が大陸から駆逐され、中共成立後、孫文の未亡人といえども、蒋介石の義姉であった宋慶齢は;

1949年、国共内戦が終結すると、台湾に逃れた蒋介石、宋美齡と行動を別にし中国大陸に残留。中華人民共和国成立後は中央人民政府副主席を務め、同時に中華全国民主婦女聯合会名誉主席に選出された。1950年代にはインド、パキスタン、ビルマ、インドネシアを歴訪するなど外交政策に関与するなどしたが、それは中国革命の指導者である国母・孫文夫人としての政治的関与であり政治的実権はなく、主に婦女の保健衛生、文化教育活動に尽力し、1951年にはスターリン平和賞を受賞、この賞金を基礎に上海に婦幼保健院を建設している。1954年9月、全国人民代表大会(全人代)が成立すると、全国人民代表大会常務委員会第一副委員長に選出される。1959年4月、国家副主席に就任した。

文化大革命では江青の指導の下、上海の造反派は宋家を資産階級であると批判した。宋慶齢も蒋介石の義姉であることから「蒋匪」として批判を受けた。父母の墳墓が破壊され自身への攻撃も強まったが、毛沢東による「文革保護対象名簿」の第一位として保護され、直接迫害が及ぶことはなかった。 (wiki)

「文革保護対象名簿」って、あったんだ。 つまり、銭理群の母親を保護した、彼女を煩わせてはいけない、といってくれた地区委員会は、毛沢東の徒であったのだ。

 ■ さて、「コミンテルンの陰謀」ばなしは、愚ブログでも、言及している。でも、ネット界の「自称」保守派の人の、「コミンテルンは中国共産党の大陸支配のため工作を行った」という主張は、おそらく、政治音痴。

ソ連から送られたコミンテルン工作員をいちばん嫌い、無力化したのが毛沢東。

 コミンテルン=スターリンが、抗日戦争を、中国の解放としてよりもソ連防衛に必要なものと見ていたことは明らかである。王明の回想によれば、四一年十月コミンテルンより延安に、「日本が第二戦線を開いてソ連を攻撃してくる可能性を断つ目的を達成し、大陸戦線で日本に対する戦闘行動を活発化させるため、中共はいかなる手段を講じようとしているのか」という電報を送っており、これを当然とする王明に対して毛沢東は激怒したという。 (岩波新書、『中国近現代史』)

ここで、王明とは、「1931年、ソ連からコミンテルン中国代表に指名されたが、毛沢東との権力闘争に敗れ、遵義会議で完全に党内の影響力を失った」(wiki)、人物。