いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

スピノザ、 意志の自由、 ルサンチマン

2011年08月16日 10時37分31秒 | ぐち


  アムステルダムにて

― Amsterdam; スピノザや彼が読みこんだデカルトが暮らした街。今でも居住者の半分が単身者。―

■思いて学ばざればすなわちうし; おいらのことだよ。

16歳の時、誰かに直接教わるわけでもなかったのに、気付いた。というか思い込んだ。自由意志は無い。

思いついた内容は、「ラプラスの悪魔 google」とよばれる問題。もちろん当時はラプラスの悪魔なんて言葉も知らない。ようするに決定論の問題。この思いつきは強烈で、精神の"自家中毒"(じかちゅうどく、現在廃名)を激烈に引き起こした。

すなわち、この世の現象はすべて自然法則に則ったものだ。物質でしかない人間も、ただ自然法則の展開である。未来はすべて決定されているのである。そこに何の人間の努力して関与する余地があるのか!ということだ。つまりは、生きる意味なんぞあるのか、という問題(←こう飛躍するのも、おバカだったんだろうけど; 思いて学ばざればすなわちうし)。

今でも2ちゃんねるの哲学板に行くと、残念ながらおいらは読まないのだが、◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない185◆と、何と185順目の堂々巡り。おそらく、「中二病」の典型症状なのだろう。

その決定論 google、自由意志 google 問題は哲学的問題なのだから、しかるべき人や制度の恩恵にあずかって、「学んで」いればどうにかなったのかもしれない。でも、元来「思いて学ばざる」ことがおいらの本性なので、危ういまま、今に至っている。

意志の自由なんてものは無いという思いつきと思いこみによる激烈な精神の自家中毒に罹っていた時、きっかけは覚えてないが、自由意思なんて無いとスピノザという人が言っていると知った。岩波文庫の『エチカ』を買った。上下巻で1000円くらい。だから、買えた。値段は安いが、読んでも全然ピンとこない。今思うと、全然読めてない。数年後、工藤喜作の『スピノザ』を買った。今思うと5%くらいしか読めてない。読んでピンときた記憶がない。

その3冊が四半世紀前においらが持っていたスピノザ関連本の全てであった。

■ところで、今、「スピノザ」でブログ検索すると;

例えば、現在も、3日前にこんなブログ記事が書かれている; ス ピノザの肯定哲学とは要するに、 この世の全ては所詮物質的な作用の連続であり、超自然的なものなんて一つも存在しない。 それは人間の精神も例外ではな く、自由意思なんてものは端からありはしない。   スピノザ哲学を用いて考えると、殺人を犯した者にも罪はないことになります。  ブログ:「僕と世界と日常と」

ん~、やはり若年性スピノザ病ってのが、世代を超えて、あるらしい。

一方、ひどくシュールなのがこれ⇒ブログ「暇人新社会人のスピノザのブログ。」 以上初のブログ記事でした/今後ブログ 書くこともないなー、だって。このひと記事でブログ終了宣言。なんなんだ!?スピノザ。コンパクトな文章でオマージュを捧げているのだろうか? それにしては、Q.E.D.がなかった。

■去年、四半世紀前の愚蔵書を引き取り、開封。御丁寧に棚に並べた。そして3.11の崩壊。かたづけに伴う、再読。

■ここ最近、アムステルダムに行くこともあり、最近買ったスピノザ関連本のページを繰ってみた;

そうしたら、ずぶんを見つけたよ。最近3回目だ。(1回目。 2回目。)

圧政者はそれを成功させるためにひとびとの心の悲しみを必要とし、悲しみに心をとらえられたひとびとはそれを助成しその輪を広げるために圧政者を必要とする。いずれにしても、この両者を結びつけているのは生に対する憎しみ[嫌悪]、生に対する怨念(ルサンチマン)の念なのである。『エチカ』には、あらゆる幸福がその眼には侮辱としてうつり、ただひたすらみじめさや無力感をおのれの情念として生きている怨念の人の肖像が描かれている。「人の心を励まして強めるどころか、それを打ちくじく術に長けたこうしたひとびとは〔他のひとびとにとって不快なだけでなく〕自分でも自分がいやでならないのだ。そういうわけで、多くの者たちが〔性急さや誤った宗教熱から〕人間のあいだより獣たちのあいだで生きる道を選んだのである。それはちょうど、親の叱責を平静な心で耐えることのできない少年や青年たちが、逃避して軍隊にはいり、家庭的にはいり、家庭的な幸福や父親の忠告より戦争の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受けるのにも似ている」。 
 G.ドゥル―ズ、『スピノザ-実践の哲学-』(鈴木雅大訳)。

赤字部分は、スピノザ・『エチカ』からの引用。

うーん

それはちょうど、親の叱責を平静な心で耐えることのできない少年や青年たちが、逃避して軍隊にはいり、家庭的にはいり、家庭的な幸福や父親の忠告より戦争の苦難や暴力の権力を選んで、ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受けるのにも似ている」。

「ただ両親に復讐したいがためにどんな労苦も甘んじて受ける」って、愚ブログの本義"Across a Death Valley with Distillated Resentment "だっちゃ。今日もおいらは、死の谷で、『役に立つこと』、『お金になること』のためにがんばっている(愚記事;・役に立つこと ・お金になること ・職にありつけること)。 Across a death valley is the best revenge!

もっとも、おいらは逃避したとは思ってない。追放(=破門)されたんだよ。この点、スピノザさまと暗に共鳴している!?

なにより、つっこみたいのが、生涯独身者であったスピノザさまの「家庭的な幸福や父親の忠告」問題である。

ca.450年前、アムステルダムの運河のほとりで"考える人"であったスピノザさま@ユダヤ人社会から破門・追放。

本当は、おまいもルサンチマンに燃えていたんだ.....(これ以上はいえない)。

21世紀でも、お見かけできてよかった。