いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今度、吉宗クンと竹田クン。

2005年12月18日 20時55分47秒 | 日本事情



【系統廃絶と活性化;徳川将軍の例】
 15人いる徳川将軍の中で偉大さを比べると、家康は別格として、その次にくる候補は家光、吉宗、慶喜あたりであろう。そして、やはり徳川幕府中興の祖、吉宗がその政治的実績の偉大さが認められるべきである。その八代将軍の吉宗は、江戸の徳川宗家の事実上の廃絶の結果、紀州家から江戸幕府の将軍になった。三代将軍から七代将軍までは織田系徳川将軍系統ともいうべきもので、二代将軍の妻、信長の姪であるお江からの血統である。ここでなぜ母方の血統にこだわるかというと、吉宗が将軍になる頃に新井白石は各武家の出自情報録の『藩翰譜』においておおよそ現在の武門の多くは織田の家臣であるといい、織田ブランドの偉大を謳いあげている。(ちなみに、伊達や島津は織田ブランドではないからこそ、織田に従属したことがないという事由で、独立自尊のブランド力があるといえる。)
 さて、七代将軍・家継の死により、織田系徳川将軍の系統は絶えた。このあと将軍になった吉宗はもちろん家康の血統を引き継ぐものであり、家康の安全装置設置がまさに効果をあげ、御三家の紀州から将軍になった。この徳川家での系統の変換が、徳川幕府に与えた効果は、結果として、むしろ絶大であった。病弱の将軍、幼い将軍が名目上将軍職に就くより、実力のある御三家の大名が将軍になったことで、幕府での将軍の求心力が強まり、それまでの側近政治を廃止し、将軍と老中による家康時代の本来の幕府運営が行われることとなった。
 傍系からの本流への乗り入れは、傍流である故軽く見られることを避けるため、創始者の思想を本来的に理解しようと努め、創始者の流儀を実現しようとする。傍流による原理主義という逆説。

【朝廷の例】
 明治維新の時の天皇は明治天皇であったが、その王政復古の偉業達成は、明治天皇に先立つ光格、仁孝、孝明の三代の天皇の朝廷の権威の復興の成果であったとされる。なにしろ、光格天皇以前の天皇は、62代の村上天皇を最後として、「天皇」ではなかった。例えば、現在この平成の時代、建武の中興の帝を後醍醐天皇と呼ぶがこれは大正時代に日帝政府が称号を定めたからで、江戸時代は後醍醐院と呼ばれていた。『神皇正統記』においても歴代「天皇」での記述において、第六十二代・村上天皇, 第六十三代・冷泉院とある。その「天皇」号が光格天皇から復活した。幕末の朝廷再興の始まりである。なぜ、朝廷再興を志したかというと、傍流出身ゆえより本来的であろうと努めるからである。これまた、傍流による原理主義という逆説の典型である。
 さて、その君主意識を強くもっていた光格天皇が帝になった時こそ皇統があやうかった。光格天皇は9歳の時、幼い女の子のみを残して22歳で崩御した後桃園帝のあと皇位についた。世襲親王家の閑院宮、つまり傍系から皇位を継承した。世襲親王家とは宮家であり、江戸時代は伏見宮、有栖川宮、桂宮、閑院宮の四宮家のみが宮家としてあった。近代皇室での天皇の弟宮が宮家を創設することとはことなり江戸時代は上記の世襲親王家の宮家だけがあった。江戸時代は「本家」の男系が絶えれば傍流の世襲親王家から皇位継承者を迎えた。その例が光格天皇である。これは世襲親王家の視点から見れば自分たちは「本家」の男系が絶えたときにはいつでも皇位継承者(当然男子)を「準備」しておく責務がある。その責務こそが傍流・世襲親王家の存在意義だからである。

<タケダクン>
 以上の話は枕であった。最近売り出し中の旧皇族の竹田恒泰さん。 旧竹田宮は上記の世襲親王宮家の伏見宮の一分家である。つまり、常陸宮とか秋篠宮とか帝の弟宮家(帝の弟が宮家をつくるのは高々この100年の慣習である)ではなく江戸時代以来の世襲親王家の旧宮家ということである。その任務は上記した。こういう状況でご本人はその責務を自覚している。

【びっくり】
 今日この記事を書いたのはある旧皇族の言挙げに驚いたからではなく、竹田恒泰さんの関心とその出自に驚いたから。竹田恒泰さんは孝明天皇に関心を持ち、その死因にもこだわっている。孝明天皇が35歳で急死。幕府、特に松平容保を篤く信頼していた孝明帝が急に崩御し、薩長・岩倉らが幼帝・むつひとさんを戴いてクーデターを起こし日本を乗っ取った。明治維新。孝明帝の死因はいまだ憶測を呼んでいる。その孝明天皇に竹田恒泰さんは関心をもって研究しているとのこと。
 で、なによりびっくりしたのは、竹田宮は伏見宮系の分家と書いたが、竹田宮初代は北白川宮!の第一皇子なのである。これにはおいらはびっくらすた。北白川能久とは戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が「天皇」として担いだ親王・輪王寺宮なのである。
 薩長に担がれ奥羽越を踏みにじり、西南戦争では西郷を踏みにじり、大東亜戦争に負けたのは皇室の責任ではなく世俗のこととして、戦後は東京大空襲で無辜を大量虐殺した元司令官を叙勲し、かりそめにも臣下であった軍人首相が祭祀されている靖国神社に御親拝されないなどちょっと引いちゃうむつひとさん以降5代にわたる「薩長」系皇統がまさに絶えんとする今日、輪王寺宮系の旧皇族が出現するとは。

吉村昭 『彰義隊』の野口武彦による書評

書評
書評
彰義隊 [著]吉村昭
[掲載]2005年12月18日
[評者]野口武彦

 上野の宮様には、世俗の政治権力を越える宗教的な特赦権が具(そな)わっていると信じられていた。窮鳥懐に入れば、慈悲の衣でかばって助けるのである。

 東叡山寛永寺の代々の山主には、剃髪(ていはつ)して「法親王」になった皇子が迎えられる。慶応四年(一八六八)一月、徳川慶喜が鳥羽伏見の一戦に敗れて江戸に逃げ帰り、寛永寺に謹慎して助命を嘆願した時の山主は輪王寺宮能久(りんのうじのみやよしひさ)法親王だった。法名は公現、皇族の長老といわれる伏見宮家の生まれである。

 慶喜を守るという名目で上野の山に立て籠(こも)った彰義隊の戦争は、徳川の旗本が辛うじて面目を保った小劇場的な戦闘であるが、その舞台につどった数多の群像の中から、作者はただひとり輪王寺宮だけにスポットライトを当てて、その運命の転変を書きたどる。

 彰義隊は一日で征討され、上野を落ちのびた宮は潜伏と逃亡の日々を重ねた末、旧幕府の軍艦で仙台に送られる。その地には新政府の会津藩追討に対抗して、奥羽越列藩同盟が結成されていた。流浪の貴種として珍重された宮は、その盟主に推戴(すいたい)される。あやうく南北朝の再現になるところだったのである。

 作者は近年の作風の特色をなす墨画のような描線で史実を切り取ってゆくが、行間からは抑制された激しい情感が透けて見える。いちばん力が籠(こ)められているのは、同じ皇族でありながら敵味方になった有栖川宮との対立感情である。

 輪王寺宮は、東征大総督として東海道を下ってくる有栖川宮を静岡で出迎え、面会して慶喜の助命を懇願したが、面と向かって侮蔑(ぶべつ)的に拒絶される。作者はその屈辱感を強調し、作中の宮に軍事を統括する決意すら結ばせている。奥羽戦争に敗れて降参してからも屈辱的な扱いを受け、後にやっと許されて北白川家を継いだ宮は、「朝敵」の汚名を雪辱するため、明治二十八年(一八九五)、台湾の反乱鎮圧に出征し、現地でマラリアに感染して病死する。皇族も「勝ち組」と「負け組」が鮮明に分かれるのだ。

 宮の不運な一生を記銘しておこうとする作者の思いが心に迫ってくる。