alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

伝えたい母の想い

2009年12月01日 | 女の生き方

 大学院の先生と会ってみてから色々悩み
どんな風に生きたいんだろうと考えて
まだ結論は出てはいないけど 今日友達と話をしてみて
思ったことは 子育てはきっともっと価値があるんじゃないかと
いうことだ。


 戦後になってフェミニスムやジェンダーも盛んになって
女たちは男と同じように働くようになっていて
今となっては 就職するとき 自分自身が女だなんて
学生たちはそこまで意識することもなく
男の友人たちと同じように同じ会社をうけていく
(人事の側は女を意識してると思うけど
私はそれは「差別」というより 年をとった彼らが
奥さんたちの大変な状況を実際に見てきたことが
大きいのではと思うようになってきた)


 そうやって 自由に育って働くのが当たり前と思って
生きて生きた そんな女性たちにとって
「専業主婦」や「子育てをしてる専業主婦」は
かっこいいイメージからはほど遠く
「うちのお母さん」はそうであったかもしれないけれど
「私はそんなのにはなりたくない!」と思って生きてきたのだろう


 けれども子供がおなかに宿ると はじめて自分自身が
「いかに女であったか」というのに気づく。
本当は 女は男とおんなじではない 
男と女の違いというのは 子供を産めるかどうかと
おっぱいをあげられるかどうかというのが
決定的な違いとされてて その生物学的な違いがあるから
社会的な状況だって異なってくる。
おなかに子供がいるというのに 夜中までがむしゃらに
働いている 男性たちと同様に 昨日までの自分のように
働いてしまったならば?男たちと同様に
重い荷物をえいやっと担ぎ 出張にいってしまったならば?
お腹の子供がどうなるかなんて 保証は何もない訳で
お腹の子供が健康に生まれてくるのかなんて
生まれてみないとわからなくって 生まれたあとでさえ
色んな事実に後で気づいて「あのとき私がああしなければ」と
後悔するのは 何故なのだか いつも女の役割だ。


 仕事をするのが当たり前 と思ってみても
つわりがあまりにひどい人や 妊娠中入院しつづける人もいて
自分がどんなタイプかなんて 妊娠するまでわからないし
赤ちゃんがどう生まれてくるのかは 生まれてみないとわからない。
だから女たちは 本当は言えない「大丈夫です 私もできます!」
本当はできないかもしれない。 身体が動かないこともある
しんどくて立ち上がれないこともある だけど今は
そんな時代じゃないようだから 女も男とおんなじだから
子供を産んでも働く事は 当たり前のようにできそうだから
できると私は思っていたから じゃあ働こう!とがんばってみる


 けれども本当はしんどくて 身体も思うようには動かないし
子供は自分の都合なんてまったくかまってくれないし
都合の悪いときに限って大泣きをして
いい子にしてほしいときにめちゃくちゃにして
親はいつもどきどきしながらその時を迎える事になる
いつもいつも気が気じゃなくて 誰かと会ったりするときは
「早く寝てくれないかなー おとなしくならないかなあ」と
思っているけど うまくいかない。そんなもの。


 そうやって親は子供にふりまわされる
やりたいことがあるといっても 体力も気力もなかなかなくて
昼寝をするのは怠惰だろうかと思っていても
昼寝することで体力だって回復するし
何より至福な時間なわけで それをやめるのは
本当はとてももったいなくて だけどそれしか
自分に許された時間はないから 無理矢理にでも
その時間に何かをしてみて 子供が泣いたらああ!と思って
自分の時間はもうおしまい。


 そんな生活なわけだけど 愚痴をいったら
いくらでも言う事ができるわけではあるけど
それは大人が大人の生活を続けようとするからで
子供の視点でものをみてみたら いろんなことがみえてくる。

 あー確かに ポットのふたとふたを合わせてみたら
シンバルのような音になるねとか
へえそうか カエデの葉っぱはこんなにも美しい色をしているのかとか
葉っぱに太陽をあててみると 葉脈が透けてとてもきれいに
みえたりだとか どんぐりにも色んな種類があるだとか
何よりも 子供といると 沢山の人が笑顔になって
彼は人を幸せにする力をちゃんと持っている。


 私が一人で生きていたなら いつも仏頂面をして
カフェでの出会いもなかったけれど 彼のおかげで
カフェでも電車でも公園でも 道ばたでさえも出会いがあって
たくさんの人と話ができた。彼のおかげで見知らぬ
女たちがたくさんのことを教えてくれた。
これまで出会ったことのない 子供を育ててきた女性
肩書きなんてないかもしれない 誰かの妻で
誰かの母なだけかもしれない バスで出会った女の人たち
でも彼女たちには誇りがあった 私はね
子供をちゃんと育ててきたのよ 大変だけどかわいかったわ
もう孫ができてねえ、、、


 私に口を開いた女の人は 初めての出会いであっても
沢山のことを伝えてくれた この人たちは
誰かに想いを伝えた事が これまでどれほどあったのだろう
堰をきるように 流れ出た 彼女たちの言葉というのは
誰が聞いてくれたのだろう 女にだって言葉があるけど
言葉の多くは 井戸端会議のおしゃべりだったり
ちょっとした愚痴だったりで しっかりとした
後世に残る言葉にはなっていなかったかもしれないけれど
本当はこの言葉には もっと価値があるんじゃなかろうか
女たちは隠蔽してきた 本当は子育てはとても大変なこと
本当は子育てはとても価値があると思っている事
だけど時代は変わっていたから 自分の子には伝えなかった
私の母も 私を自由に育ててきたのに 昨日私にこう言った。
「結局ね 女は二者択一しかできないのよ、、、」
女は自由に生きていけると 夢をみさせてくれたけど
その夢はパリ症候群となんだか似ていて 夢だった。
現実はとても厳しくて 女たちはその現実を知っているのに
大事なことも 大変なことも 口を開いてくれなかった
もっとこれらは 伝えられて しかるべきな言葉じゃないの?
母になるって何なのか 子育てって なんなのか
どれくらい価値があると思っているのか
今では価値が相当低くなっているけど 本当は
女たちがこうして紡いできた事は とても価値があるんじゃないか

 女が女として生きていく事
男と同じで男のまねをするのではなく
女が女たちの生きやすい環境をつくっていくこと
女が女であることに 自から価値を見いだすことって
大事なんじゃないだろうか
あまりにも強いフェミニスムの後
女はかつて嫌っていた「男」になって
男たちが女性化してしまったらしい。
女たちは かつて男たちが持ってた武器を手にいれて
社会では男のように振る舞うことになったらしいけど
それってどうだったのだろう?
(『スーパーウーマンはこんなに大変』に書いてありました)


 21世紀は違う時代になってほしい
子育てをして 葛藤をして でも沢山学んだことがある
まだまだ知らないことがある 一人の女という身分を活かして
女たち に 忘れられた女たち に もっと話をきいてみたい。

フランスに行くなら

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