きわめて一般的な教え、ある意味では普遍的な教えである。すなわち、存在しなかったことは存在しえなかった(運命のなかになかった)ことだ。これは遺憾の念を取り除くものである。しかし、宿命論が遺憾の念を取り除くのは、人が可能なすべてのことをやり終えたあとだけだ。したがって、行動の人というのは宿命論によってもっとも巧みに自らを慰めている人である。怠惰な者も同じように考えるわけだが、しかし、事が起きる前からなのだ。そうして、どんなことをしようとも、起きるべきことは起きるだろうと言って、心配から自分を解放している。このような考え方は理性的ではない。なぜなら、人はなにが起こるのか、あらかじめ知らないのだから。それに対して、第一の考え方はすでに成就した事実に基づいている。そこで、他の出来事が何であれ、不可能であったというのはまったく真実である。起こったことがそれを言っているのだ。こうして、宿命論は理性の一契機であるが、しかしそれを未来にまで拡大してはならない。しばしば宿命論は、神はあらかじめすべてのことを知っているということの上に基礎づけられている。しかし、神についてのもっとも深い観念は、自由な神、すなわち、あらかじめすべてのことを知らない神の観念である。それに、あらかじめ絶対的に知っているという観念は、永遠の相関的観念である未来と時間を、消し去ってしまう。
□アラン(神谷幹夫・訳)『定義集』(岩波文庫、2003)
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【参考】
「【アラン】魂 Âme ~『定義集』~」
「 「アラン】宿命 Fatalité ~『定義集』~」
「【アラン】運命 Destin ~『定義集』~」
□アラン(神谷幹夫・訳)『定義集』(岩波文庫、2003)
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「【アラン】魂 Âme ~『定義集』~」
「 「アラン】宿命 Fatalité ~『定義集』~」
「【アラン】運命 Destin ~『定義集』~」