語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【司馬遼太郎】軍神・乃木希典の奇怪な行動 ~『殉死』~

2016年08月15日 | エッセイ
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)本書をエッセイと呼ぶか評伝と呼ぶかは、さしあたり重要でない。わが国史上もっとも名高い人物の一人である乃木希典の奇怪な精神構造を、これまた異様な筆致でえぐりだしている、という点が重要である。

 (2)聞きしにまさる妙な人物である。軍人としては丸出駄目夫だった。西南の役では麾下の連隊が敗走し、軍旗を奪われ、自らも負傷した。ちっともいいところがない。なにしろ乃木連隊長自ら伝令となって一人後方へ走っているのである。前代未聞であった。
 きわめつけは旅順攻略戦である。敵の堅塁を侮って作戦の名に価しない作戦しかたてず、合理的でない強襲を繰り返し命じた。6万人の血が流れた。見かねた大本営の助言にも耳を貸さない。
 乃木に代わって指揮をとった児玉源太郎が203高地を落とし、そこを観測所として巨砲でもって旅順艦隊を壊滅させた。決着がついたところで児玉は本来の任地へ戻った。要塞はその目的を失ったから司令官ステッセルは降服し、ステッセルを武士的寛恕の精神で遇した乃木大将の名が世界を駆けめぐった。

 (3)乃木の特異な精神構造は、軍旗事件に顕著にあらわれる。新たな軍旗が小倉連隊に下賜されていちおう決着がついたのだが、乃木の「道徳的苦痛」はおさまらず、自殺を図った。
 ちなみに、旧日本軍における軍旗の神聖視は乃木にはじまる、と著者は考察する。旅順でも奉天でも、指揮下の将兵がみっともない闘いをするたびに自殺同然の行動をとった。司令官の戦死が大局に与える影響を配慮するよりも、死をもって償う個人的美学を優先したのである。
 38歳のとき、1年間ドイツに留学するが、学んだのは主として「服装と容儀」だったらしい。
 留学前の乃木は茶屋遊びに余念がなかったが、帰国した彼は別人だった。料亭の出入りは一切やめ、日常軍服を着用して寝るときも軍服のままだった。「形式美」がこの人の奉じるところで、公事のみならず私事にも及んだ。四国に単身赴任中に、雪中、しかも大晦日に息子の一大事のことで東京から訪れた妻を会わずに追い返している。「自分の同意を求めることなく突如きた」というのが、その理由であった。
 後年、明治天皇のひきで学習院の院長となるが、じつに陰気な教育者だったらしい。低年齢の児童の多くは恐怖をおぼえ、高年齢の児童の何割かは反抗心をおぼえた、と著者は記す。

 (4)乃木希典は、1849年に生まれ、1912年、明治天皇の大葬の日、自邸で自刃した。
 本書は二部構成で、第1部「要塞」ではもっぱら軍歴とそこに見られる乃木のふるまいの特徴を、第2部「腹を切ること」では妻静子との関わりに紙数を割きながら自裁にいたる過程を追う。
 著者は英雄を好み、英雄がひとり歴史を操作したかのような小説を量産しているが、本書は主要登場人物(つまり乃木)に対する共感はちっともない。逆に、突き放して見ているし、ところどころ揶揄さえ見られる。にもかかわらず、簡単に切り捨てるわけにはいかない、という思いがあるのか、歯切れがよくない。一刀両断できなかったのは、多分、戦前戦中に司馬遼太郎が否応なく、心ならずも受け入れざるをえなかった時代精神を乃木希典が代表しているからかもしれない。

□司馬遼太郎『殉死』(新潮文庫、1978/文春文庫、2009)
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 【参考】
書評:『言葉と人間』



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