(1)1950年2月、ジョセフ・マッカーシーという、当時ほとんど無名の上院議員が国務省のなかに大量の共産主義者がいると指弾したことから「マッカーシズム」は始まった。
6月に朝鮮戦争が勃発、東西冷戦の対立が深刻化するなか、中世の魔女狩りを思わせる赤狩りの嵐が米国社会を襲った。
『マッカーシズム』を著した米国人ジャーナリストのロービアは、マッカーシーを「米国が生んだ最も天分豊かなデマゴーグ」と捉えている。
もっとも、マッカーシーが名を馳せたのは、1954年ごろまでのごく短期間にすぎない。1957年には48歳の若さで死去している。
しかし、稀代のデマゴーグが失脚した後も、赤狩りは執拗に続けられた。
(2)日本人の経済学者、都留重人が米国上院司法委員会の国内治安小委員会に喚問されたのは、1957年3月のことだった。
ハーバード大学滞在中に突然、喚問状が届き、2日間にわたり証言台に立たされた。都留は、上院で証言した後に「朝日新聞」に寄せた手記で語っている。「事前の推測では、ノーマン氏(駐エジプトのカナダ大使)との関係を聞かれるのが主眼であろうと考えていたところ、喚問当日まず非公開の席で、いきなり一たばの証拠書類を見せられた」
ハーバード大学で学んだ都留は、1942年8月、手紙などをアパートに残して帰国した。それが「一たばの証拠書類」となったわけだ。20年近く前に綴った手紙などを証拠として突きつけられた都留が動揺したのも無理はない。
(3)米国における都留の喚問は、日本の言論界にも衝撃を与えた。
都留証言から1週間後、ハーバート・ノーマン大使(カナダ人)が赴任先のカイロでビルの屋上から投身自殺したからだ。
宣教師の子として日本で生まれ、日本語が堪能だったノーマンは、敗戦後の日本でGHQの一員として活躍した。『日本における近代国家の成立』などを著した日本研究の第一人者であり、マッカーサーの信頼も厚かった。
都留とノーマンは、1930年代にハーバード大学で知り合い、GHQ統治下の日本でも親しく付き合った。
ノーマンは、マッカーシズムの初期から反共主義者のターゲットになっていて、国内治安小委員会の関心もノーマンにあった。都留証言と自殺を結びつける向きも多かったが、工藤美代子・ノンフィクション作家/『スパイと言われた外交官』の著者によれば、実際には、ノーマンは都留の証言を知らないまま自殺した。
(4)都留と同時期にハーバード大学で学んだ鶴見俊輔は、論考「自由主義者の試金石」を「中央公論」1957年6月号に寄せている。
多元的価値観体系に忠誠を誓う自由主義者はそれゆえに「あいまいさ」を身にまとうが、その内実が問われたと指摘した。当時のさまざまな論者の議論を渉猟すると、マッカーシズムの教訓はいまなお古びていない。
都留喚問をふくめ、マッカーシズムはいまだに十分に解明されたとはいえないが、集団ヒステリーとも形容される赤狩りが、政治権力と言論との関係を劇的な形で露わにしたことだけは確かである。
□佐々木実「マッカーシズムの教訓 赤狩りが露にした政治権力と言論の関係 ~経済私考~」(「週刊金曜日」2015年12月4日号)
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6月に朝鮮戦争が勃発、東西冷戦の対立が深刻化するなか、中世の魔女狩りを思わせる赤狩りの嵐が米国社会を襲った。
『マッカーシズム』を著した米国人ジャーナリストのロービアは、マッカーシーを「米国が生んだ最も天分豊かなデマゴーグ」と捉えている。
もっとも、マッカーシーが名を馳せたのは、1954年ごろまでのごく短期間にすぎない。1957年には48歳の若さで死去している。
しかし、稀代のデマゴーグが失脚した後も、赤狩りは執拗に続けられた。
(2)日本人の経済学者、都留重人が米国上院司法委員会の国内治安小委員会に喚問されたのは、1957年3月のことだった。
ハーバード大学滞在中に突然、喚問状が届き、2日間にわたり証言台に立たされた。都留は、上院で証言した後に「朝日新聞」に寄せた手記で語っている。「事前の推測では、ノーマン氏(駐エジプトのカナダ大使)との関係を聞かれるのが主眼であろうと考えていたところ、喚問当日まず非公開の席で、いきなり一たばの証拠書類を見せられた」
ハーバード大学で学んだ都留は、1942年8月、手紙などをアパートに残して帰国した。それが「一たばの証拠書類」となったわけだ。20年近く前に綴った手紙などを証拠として突きつけられた都留が動揺したのも無理はない。
(3)米国における都留の喚問は、日本の言論界にも衝撃を与えた。
都留証言から1週間後、ハーバート・ノーマン大使(カナダ人)が赴任先のカイロでビルの屋上から投身自殺したからだ。
宣教師の子として日本で生まれ、日本語が堪能だったノーマンは、敗戦後の日本でGHQの一員として活躍した。『日本における近代国家の成立』などを著した日本研究の第一人者であり、マッカーサーの信頼も厚かった。
都留とノーマンは、1930年代にハーバード大学で知り合い、GHQ統治下の日本でも親しく付き合った。
ノーマンは、マッカーシズムの初期から反共主義者のターゲットになっていて、国内治安小委員会の関心もノーマンにあった。都留証言と自殺を結びつける向きも多かったが、工藤美代子・ノンフィクション作家/『スパイと言われた外交官』の著者によれば、実際には、ノーマンは都留の証言を知らないまま自殺した。
(4)都留と同時期にハーバード大学で学んだ鶴見俊輔は、論考「自由主義者の試金石」を「中央公論」1957年6月号に寄せている。
多元的価値観体系に忠誠を誓う自由主義者はそれゆえに「あいまいさ」を身にまとうが、その内実が問われたと指摘した。当時のさまざまな論者の議論を渉猟すると、マッカーシズムの教訓はいまなお古びていない。
都留喚問をふくめ、マッカーシズムはいまだに十分に解明されたとはいえないが、集団ヒステリーとも形容される赤狩りが、政治権力と言論との関係を劇的な形で露わにしたことだけは確かである。
□佐々木実「マッカーシズムの教訓 赤狩りが露にした政治権力と言論の関係 ~経済私考~」(「週刊金曜日」2015年12月4日号)
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それより現政党の方が余程軍事と結びつき、選挙を勝手にいじくってるんじゃないのかねぇ、、!?