語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【詩歌】三好達治「大阿蘇」

2015年07月16日 | 詩歌
 雨の中に馬がたつてゐる
 一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
 雨は蕭々と降つてゐる
 馬は草をたべてゐる
 尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐつしよりと濡れそぼつて
 彼らは草をたべてゐる
 草をたべてゐる
 あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
 雨は降つてゐる
 瀟々と降つてゐる 山は煙をあげてゐる
 中嶽の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濠々とあがつてゐる
 空いちめんの雨雲と
 やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
 馬は草をたべてゐる
 艸千里浜のとある丘の
 雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
 たべてゐる
 彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
 ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集つてゐ   る
 もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
 雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
 雨は瀟々と降つてゐる

   *

●永田満徳「三好達治ー阿蘇詩ニ篇

 <「大阿蘇」は世界最大のカルデラを形成している阿蘇中岳を背景に、豊かに繁る牧草の高原《草千里》で蕭々と降りしきる雨の中、ひたすら草を食べたり、ただつっ立りたりしている馬の群れを描いた風景そのものの作品である。
 (中略)この作品は、眼の前の風景を単に写生したものとみるならば、まるで〈無声映画〉や〈一幅の絵画〉を眺めるような思いがする。そういう印象を与えるのは作者が徹頭徹尾〈見る〉立場で描いているからである。三つの素材「馬」「雨」「山」が平易な口語で巧みに場面の中にうたい込まれている。しかし、これは単なる〈静物〉としての風景ではない。それぞれの情景は、固定したカメラの広角レンズ越しのような視界の中で、「食べ(立ち)続ける馬」「降り続ける雨」「吐き続ける山」といった具合に持続的な動きとして捉えられている。特に文末の補助動詞「ゐる」のリフレーンはそのすべてが現在進行〈……してゐる〉の形をとっており、時制の〈継続性・現在性〉を強く押し出している。そして、このような時意識は、末尾近くの一行「もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう」に収束し表現されている。この一行こそが、多くの叙景描写のうちから離れて、作者の心情を仮定形にひめて表明した唯一の部分である。そこには、大阿蘇を根源的に発見した感動が凝縮されていることはまちがいなく、人事全般を忘却せしめる大自然の息遣いが幾百年たったとしてもそのままの姿で〈いつまでも現在〉として存在し続けるだろうという一種異様な悠久感が打ち出されている。
 「瀟々と」降りしきる雨にしても、「重つ苦しい」噴煙にしても、ひっきりなしに降る雨をもの寂しく思い、濠々とあがる噴煙を重っ苦しく感じるのも、客観世界から受けた印象表現であるとともに、三好のこの時の心象風景――ある種の晴れやらぬ壮年の憂悶や暗雲ただよう社会情況の投影でもあっただろう。そのような作者の心情に比べれば、「尻尾も背中も鬣も ぐつしよりと濡れそぼつ」たまま、大自然にすっかり随順してしまっている馬の群れの姿には時や空間を超越するような悠久感がひしひしと感じられたに違いない。従って、詩作の契機は放牧中の〈馬〉の群れを眼にしたことに始まるといってよい。「ぐつしよりと」という擬態語も、後出の「きよとんと」「いつしんに」などと同じく馬の集団の姿態をできるだけ如実に描くことにあったと思われる。よく見れば、第二行で群れ集う馬の構成、第五行で雨に濡れた馬の様子を細かく表現しつつも、第六行目で〈馬〉から〈彼ら〉に変更されていく過程に、馬の群れに対する三好の気持ちの変化が現われており、〈彼ら〉という人称代名詞に人間に対するような親しみと一まとまりの自然物として突き放し、悠久なる時空の一点景とする見方が読み取れる。>

□三好達治「大阿蘇」(『霾』(合本詩集『春の岬』(創元社、1939)所収)
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 【参考】
【詩歌】三好達治「湖水」
【詩歌】三好達治「雪」
【詩歌】三好達治「春の岬」
【詩歌】何をうしじま千とせ藤 ~牛島古藤歌~
【読書余滴】ミラボー橋の下をセーヌが流れ ~母音~


【読売】と自民の、消費者庁攻撃 ~訪問勧誘規制~  

2015年07月16日 | 社会
 (1)消費者庁が、特定商取引法の改正を検討している。要請のない勧誘行為(不招請勧誘)に規制をかけようというのだ。
 訪問勧誘への苦情は、新聞がもっとも多く、とりわけ読売新聞社への苦情件数が業界トップだった。6月10日に消費者庁で行われた専門調査会では、規制反対の弁を打った山口寿一・読売新聞社長に対し、疑問の声や質問が続出した。【注1】

 (2)立つ瀬のない読売新聞社は、かっこうの反撃材料を見つけたのか、同調査会から5日後、
   板東久美子・消費者庁長官
   川上正二・消費者委員会委員長
   山口俊一・内閣府特命担当大臣
宛てに「抗議書」を送りつけた。調査会で、山口社長の発言中に「笑った委員がいた」というのだ。
 「複数の委員らが声をあげて笑う場面が複数回にわたって続き(中略)新聞協会の代表として山口を出席させた当社としては、極めて遺憾です」(抗議書一部抜粋)
 その場面は、こうだ。
 山口社長の前に、寺島則夫・新聞協会販売委員会委員長が「一度営業に行きまして、もう来ないでねというところには行かない」と発言し、その後に山口社長はこう述べた。
 「新聞の勧誘の現場ではさまざまな接触のやり方があって、断られたけれども、とっていただくということも現実にはある」
 この時、笑い声があがった。それは再勧誘の禁止について、両者の発言が矛盾していたからだ。
 笑う理由はあったのだ。

 (3)7月2日、自民党本部で内閣部会・消費者問題調査会合同会議が開かれた。議題は特定商取引法の見直しについてだったが、実質、自民党と読売新聞社による消費者庁バッシングだった。
 山口社長、「(規制は)アベノミクスや地方創生に逆行する」。
 水原伸・社長室長、「専門調査会の議事運営について、ヒアリングの際に一部議員が机に突っ伏して笑うということがあった」。
 出席議員、「けしからん!」
 (当日の映像が流される。)
 西田昌司・参議院議員(細田派),「消費者庁の責任だよ。笑っているのは誰なんだ」
 薗浦憲太郎・衆議院議員(麻生派、元「読売新聞」政治部記者)、「笑った専門委員に(消費者庁は)笑った理由を確認したのか。こんな専門調査会の意見では誰も信用しない」
 北村経夫・参議院議員(細田派、元「産経新聞」政治部長)、「消費者庁の方針に賛成する意見がなかったことを重く受け止めるべきだ」
 
 (4)この日は、「笑った」論にとどまらず、消費者委員会のあり方まで踏み込む発言が出た。
 太田房江・参議院議員(細田派、元通産官僚)、「消費者委員会(本委員会)は全員消費者側委員であり、業界側の委員が入っていないのは問題。業界側の委員を入れるべき」
 中川雅治・参議院議員(細田派)、「消費者庁は消費者側に一方的に進むのは危険である」
 森まさこ・参議院議員(細田派)のいわゆる「消費者保護とビジネスのバランスをとる」論である。
 消費者委員会は、消費者庁がそのレーゾンデートルである「消費者目腺の行政」をきちんとやっているかどうかをチェックする機関として発足している。その委員会に事業者が入るのは、お目付役に「泥棒」が就任するようなものだ。

 (5)安倍政権を応援する新聞社【注2】は「健全な事業者」として守り、「沖縄タイムス」「琉球新報」など政権に批判的なマスコミには「圧力」をかける。
 これが安倍晋三の自民党である。

 【注1】「【古賀茂明】読売新聞の大チョンボ ~違法訪問勧誘~
 【注2】「【メディア】「文春」が「読売」を「御用新聞」と批判 ~返す刀で『産経』断罪~

□野中大樹(編集部)「自民・読売のお笑い二人羽織 訪問勧誘気勢の特商法見直し論議で消費者庁叩き」(「週刊金曜日」2015年7月10日号)
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【メディア】「文春」が「読売」を「御用新聞」と批判 ~返す刀で『産経』断罪~

2015年07月16日 | 批評・思想
 (1)最近、不思議にも保守派の中で相互批判の動きが目立つ。
 小林よしのりの「ネトウヨ」批判【注1】でも、「意外!」という声が多い。

 (2)こんどは、「週刊文春」が、手ひどく「読売新聞」を叩いている。毎号掲載のコラム「新聞不信」において。
 6月25日号のコラム見出しには、
   「長老会見を無視した御用新聞」
とある。政界の長老4人による会見(6月12日、於日本記者クラブ)を無視した「読売」批判が主題だ、とすぐわかる。
 あの「産経新聞」でさえ
   「『安保法制反対で会見』との見出しのもと」
   「五段分のスペースで」「中身はきちんと報じている」
のに、「読売」は無視している、として、次のように決めつけた。
 「事実をどんな角度から報じようと各紙の自由だが、あったことを報じないのでは御用新聞の誹りは免れまい」

 (3)「読売」もいよいよ「文春」に御用新聞と蔑まれるところまで落ちたか。
 世界最大部数の全国紙が、安倍政権にすり寄ったことが、安倍側近たちを増長させている。自民党議員勉強会における報道抑圧の暴言についても、誘発させた責任が「読売」にはありそうだ。

 (4)コラム「新聞不信」は、「産経」も叱っている。
 5月21日号では、
   「つまみ食いは“誤報”と同じだ」
として、5月8日付け「産経」朝刊一面の記事を批判した。欧米を中心とする日本研究者ら187人による「70年談話」に向けた声明の件だ。
   他紙は、「彼らの本意を正確に伝えている」が、
   「産経」は「自社の主張に都合の良い枝葉末節をつまみ食いしている」
と言い、
   「産経」は福島原発事故の吉田調書をスクープした朝日の誤報追求に熱心だが、その資格はない
と厳しい。
 同コラムの冒頭には、
   「自説を前提に事実を歪めたり、ボツにしたりするのでは本末転倒だ」
ともある。サギをカラスと言いくるめる歪曲報道が得意技の「産経」には、馬耳東風だろう。それでも、同調報道が少なくない「文春」の、その後も続く「産経」叩きは痛手に違いない。

 (5)「産経」は、北朝鮮バッシングの真偽不明報道の垂れ流しで、他社より群を抜いている。背景に安倍政権との癒着があるからで、金銭的なからみさえ想定される、という指摘もある【注2】。
 まさかそこまでは・・・・と思うだろが、「産経貧乏物語」はよく知られている。
 「読売」の産経化が「御用新聞」レベルまで進んだ昨今、「産経」は独自色の発揮に苦しいところだが、疑惑解消は急務だ。

 (6)一方、6月7日付け「産経」朝刊のコラム「新聞に喝!」に、伊豆村房一が“正論”を展開している。
 <メディアの本分とは、権力の監視機能を果たすことだ。とりわけ新聞ジャーナリズムには、立法・行政・司法の三権をチェックする第4の権力としての重要な役割がある。改めて圧力に屈せぬ新聞本来の気骨を存分に見せてもらいたいものだ。>【注3】
 「産経」には、これがブラックユーモアでないことを証明してもらいたい。

 【注1】「【メディア】安倍首相の「人身売買」発言 ~騙しのテクニック~
 【注2】成田俊一「拉致問題の解決を絶望的したのは安倍首相の「圧力」 総聯議長への家宅捜索と二男逮捕で合意は破綻」((「金曜日」2015年5月22日号)
 【注3】コラム「メディアの本分は権力の監視にある」(産経ニュース 2015年6月7日)

□高嶋伸欣(琉球大学名誉教授)「『文春』が『読売』を「御用新聞」と批判。返す刀で『産経』断罪」(「週刊金曜日」2015年7月10日号)
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